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駅の設計マニュアル

地下鉄のコンコースに響き渡るゴーッ…という太い音。それを聞いてあなたは走り出す。改札機を瞬殺してエスカレーターを駆け下りて、はたと落胆する。「うわ、逆向きの電車だったわ…」。そんな経験を幾度となく繰り返しながらも、少しでも無駄な時間を削りたいあなたは何度でもそれを繰り返す。やがてトラブルが起きて後悔の嵐が吹き荒れるとも知らないまま。だがそれは倫理的な問題行動ではない。むしろ人間なら誰しもやってしまう。悪いのはあなたではなく、あなたが利用する駅空間の方であり、悔やむべきはその駅があなたの最寄り駅という事実のみである。

そんな後悔を終わりにしたい、そう思って僕はトータルデザインにおける駅の設計マニュアルを考えた。それは現代社会が無意識レベルで要求している街の玄関であり、日本に未だ見出されていない公共空間でもある。駅の魅力は見栄えの綺麗さではないし、鉄道の利用しやすさだけでもない。ましてや〇〇ゲートウェイといった言葉遊びは社会的意味における空間刷新には微塵も寄与しないし、文字数が長すぎてモバイルSuicaアプリにも対応しないことは皮肉にも程がある。

公共性 〜publicとpopulous〜

公共性という概念を考えるためにはまずpeopleという中学英語をおさらいしなければならない。意外なことに、peopleという単語には二面性があるのだ。それはpublicとpopulousであり、平等と公平、あるいは共通性と固有性の側面である。

例えばマーケティングにおいては常にpopulousな存在を対象にして顧客の感情と動向を掴もうとするが、公共空間においては必ずしもそれが成功する訳ではない。つまり、不特定多数の幸せを考えるという、公共空間が生まれながらにして抱え込む宿命は、誰一人として除外されない平等なデザイン、publicな性質を必要とするのである。

publicスペースは金さえ払えば何でも好き勝手にわめき散らして良い空間ではない。広告料を払えば駅周辺地図で赤字にしてもらえたり、駅の吊り下げ看板で矢印を書いてもらえるなどは全てpopulousの発想であり、日本の駅空間に公共性の欠如が伺えるのはそういった所に端を発するのだろう。

密接性 〜イメージアビリティ〜

アメリカの都市計画家ケヴィン・リンチは『都市のイメージ』のなかで、次のように話す。

「都市の風景には多くの役割があるが、その一つは人々に見られて記憶されて楽しまれることで、都市形態のイメージアビリティが研究の中心である。」

つまり風景と意味の密接性こそが都市計画における最大の目的であり、イメージアビリティという造語はその直感的な分かりやすさ、使いやすさを表すのだ。例えばiPhoneはアプリが並ぶ単純な外観とその中に内包される意味性とが滑らかなアニメーションによって密接に結びつき、製品全体のイメージアビリティを向上させていることは理解しやすい。

人間のコミュニケーションは場面と言葉で成り立っているが、それは建築空間においても同様で、明快な空間構成(形態・配置)とそれに呼応したサイン計画(部屋名・順路)が求められるし、時にはその順序は逆転するかもしれない。場面が良くても言葉にキレがなかったら誰もブラッド・ピット主演の映画は見ないし、その逆も然りだ。

すなわち人々の直感的な意識とトータルな建築空間体験とが密接に同化され、密接に共有されていなければならない。そのためには場面としての空間構成と言葉としてのサイン計画とがトータルデザインでまとめられ、共通の目的を持って設計されなければならない。

充足性 〜駅空間のデザイン〜

駅は実に様々な空間構成要素で成り立っている。まずは床・ドア・天井・照明・サイン・広告。次にそれらの形状・大きさ・材質・色彩・位置取りを考えることで総合的な空間デザインへと思考を巡らすことができる。そうして初めて駅の出入り口・改札外コンコース・改札内コンコース・切符売り場・ホーム・トイレ・売店といった単位空間が構成され、街との連関・歴史性・地理性・都市事情・固有性・造形様式が完成される。

さらに駅には様々な期待と願望、都市的文脈が入り込む。出会いと別れ、文化の結節点、街歩きの始点と終点、移動空間の集合、公共空間、街の中心性。それは街のシンボルであり、人々の誇りにもなり、街のアイコン性をも付随される多義的な存在だ。そんな駅空間のデザインに要求される設計は多様に多様さを重ね、充足すべき要点は概ね次のようにまとめることができる。

①安全性
ホームから落ちない、雨風から守る、突起物ない、床が滑らない、明るい、人に触れない広さ、休める場所

②安易性
歩行距離が短い、平坦、昇降移動の少なさ、移動設備への近さ、障害物のない空間、移動空間がよく見える、配置のわかりやすさ、視覚案内のわかりやすさ、音声案内、トイレや売店、券売機の使いやすさ

③快適性
広さ、高さ、見通し、滞留空間、休憩空間、視覚的バランス、静か、滞留空間と流動空間の分離、清潔感、空気の綺麗さ、温度・湿度、自然光や緑、眺望

④満足性
機器の扱いが簡単、人の触れる部分への心配り、環境に暖かみ、照明が優しい、生き生きとした雰囲気、美しく魅力的な造形、駅の歴史、駅と街との繋がり、革新性、誇りに思える何かが存在すること

ここからは駅が備えているべきだと感じる空間性質を列挙しながらその意味性を考えていく。歴史的に公共空間が備えてきた共通観念としての系譜学。

開放性 〜ヨーロッパの駅空間〜

僕が一番好きな駅空間、ベルギーのリエージュ駅舎は圧倒的な開放性を備えた空間だ。街の起点としてふさわしい、明るくて風通し良く眺めの良い一体空間。地上レベルと地上3階レベルにコンコースがあり、地上2階にあるホームはローマのスペイン広場の如く大階段で街に繋がっている。200mにも渡る大きなビームは鉄道が作る流動性に加速度を与えてシャープで軽やかな表情を生みだし、そのスピード感あふれる空間方向に人々の移動までもが呼応する。直交方向はあまりにも開放的で街との連関を意識させるが、まさかガラスに覆われた大屋根がバスターミナル全体までをも覆うとは予想だにしないだろう。街の一体的な玄関口としてこれ以上の駅空間は無い。

ヨーロッパを走る鉄道の多くは改札が無く、多くの人はコンコースで鉄道を待ち、鉄道が来たらホームを通り抜けてそのまま乗車していく。だからホーム上にサインボードはないし、必然的にコンコース上で公共空間が生まれるのだ。開放性はヨーロッパ主要駅の多くが備える性質であり、ホームの全てを一挙に眺めることができる。だから「何番線に何行きの鉄道が到着する」など言われなくても分かるし、言うまでもなく発車ベルなど無くても鉄道が時間になったら動き出すことくらい猫でも分かる。そういった場面作りからイメージアビリティが高いためにヨーロッパのサイン計画は比較的おとなしい印象だ。日本の駅空間を想像してみるとサインボードが氾濫して大洪水を起こしているではないか。

(https://www.musey.net/5876)

巨大性 〜アテナイの学堂から京都まで〜

これは開放性と同義語のようだが、巨大性はもっと本能感覚的に起源を持つ空間性質である。上の画像は僕が高校1年の世界史の授業で唯一興味を持てた西洋絵画、アテナイの学堂である。ラファエロはバチカンのサン・ピエトロ大聖堂を模した巨大空間こそが自由な言論と知識交換の場に理想的であり、アリストテレスやプラトンといったエリート哲学者を引き寄せるのだと考えたのだ。古来人々は巨大な空間に魅かれ続け、サンピエトロ大聖堂はその境地であるし、古く日本にも高さ60mの出雲大社が存在したとされる。

行ったことがあるだろうか。ニューヨークのグランドセントラル駅を見ると、公共空間の基本条件が何よりも大きいことだと気付かされる。狭いところでは決して感じることの出来ない3次元の広がりが、不特定多数の群衆のひとりとして自分がいることを再認識させてくれる。周辺にはクライスラービルといった摩天楼が立ち並ぶニューヨークの足元に、今でも巨大な空虚が残り続ける。

行ったことがあるだろう、京都。その駅ビルは京都の玄関口としてあまりにも有名であるが、あまりにも京都離れしたその表情から「古都の玄関口として無愛想だ」と言われるのが常だ。だがよく考えてみると、京都駅ビルの第一の功績は公共空間では「いにしえの伽藍」のように、外観以上に内空(=空っぽ)の大きさこそが人々に満足感をもたらすという事実である。鉄道を降りて改札を抜けるとそこは谷底。左右に向かって段丘が吹き抜けた迫力感を前にしたら、思わず見上げずにはいられない。幅60m、長さ470mに渡って姿を現す巨大空間が突然に姿をあらわにする。つまりそこは、「ありきたりではない歴史と文化を持つ特別な街、京都」に降り立った事の感慨をより一層深めてくれる情動を巨大性によって獲得しているのであり、歴史への侮辱というよりむしろ歴史への謙遜と革新、言うならば守破離の原理を巨大空間として体現しているのである。今度京都に降り立った時はその無愛想な表情の先に潜む、巨大空間が結び付ける時代性を鑑みてほしい。ああ、これが京都なのかと。

象徴性 〜最初の公共空間〜

エッフェル塔の下を鉄道が通り抜けていてほしいとは思わないだろうか。足元に大きなコンコースとホームがあって、TGVと地下鉄の乗り換え駅になる姿を想像すると高揚感が湧き出てくる。エッフェル塔のトラスの隙間から漏れ出る太陽光。それが上空を走るTGVの木漏れ日となって揺らぎながら地下鉄のホームに届く。TGVが走り去ると逆光にさらされながら見えるエッフェル塔の内部構造。細部まで埋め尽くされた美しい装飾と合理的な骨組みに度肝を抜かれ、ホームに立ち尽くす。パリのからっとした風が通り抜け、耳をすませばシャン・ドマルス公園で休む愉し気な声。かすかに香る土のにおい。そうか、これがパリか。そうやって駅空間が作り出す高揚感がパリへのイメージと組み変わるのだ。

誰もがよく知る象徴的存在こそが世界共通で最初の公共空間であり、それは人々の移動の結節点でもあることは自明である。だからこそ駅空間は他に類を見ない程の強い象徴性を期待されている。エッフェル塔に始まってエッフェル塔で終わるパリという街の残像。

求心性 〜新たな息吹〜

もはやこれは建築好きのための空間性質だろうが、少なくとも僕を始めとするモノ好きの多くはこれがないと旅をする気にはならない。求心力とは、象徴性が放つエネルギーとは全く別の輝きであり、その場所に充満するロマンシズムの空気感、そこに行かないと体験できない巧妙なスケール感、質感といったその場所固有で随一な性質である。南仏にあるロンシャン礼拝堂などはまさしくこれである。

少なくとも駅空間において求心性が無くても運営に支障が出るわけではないし、駅前商店街に活気が出るわけでもないだろう。なぜなら公共空間とマーケティングは全く別の大衆(publicとpopulous)を相手にしているからであるが、僕は必ずしもそうとは限らないと思う。大阪の通天閣を作ったのはマーケティング的な発想ではないし、同様にロッテルダム中央駅(上の画像)も合理性から導かれた造形ではない。ましてや北京に完成した空港なんて無駄のオンパレードである。ただ、とてつもなく強い造形やボトムアップに作り上げられたウエットな建築は無意識のうちに新しい息吹を生み出すことがあり、それは並大抵の結果では収束しないものである。求心性皆無の駅空間に魅力を感じないことぐらい、駅舎を眺めるまでもなく分かることだ。

簡潔性 〜渋谷駅に見る反面教師〜

かつて地上にあった東急東横線の渋谷駅を知っている人は多いと思う。かまぼこ屋根が連なる頭端式ホーム。改札を出て鉄道の頭が見える光景は終着駅として壮観だった。だが2013年、東急東横線の渋谷駅は副都心線の開通から5年の月日を経て地下4階へと移された。当然ながら渋谷駅は終着駅としての役割を外され、埼玉の森林から神奈川の未来までが一本で繋がったのだ。交通の便という意味ではこの上ない鉄道の開通は首都圏の新たな流れを作り出したが、同時にかつてのレガシーを失った「地宙船」を作り出しもした。地下に挿入された空虚は、鉄道の開通が大歓迎されたのとは裏腹に歓迎されるべきものではない。

建築に精通していなくても安藤忠雄という名前は聞いたことがあるだろうが、少なくとも渋谷駅において安藤忠雄の恩恵を預かった人はいない。彼は巨大なコンクリートに閉じ込められた人々の感覚をどのように想像したのだろうか。狭っ苦しいホームに溢れる人々。動線的に邪魔以外の何物でもない改札前の空洞。文化創造を謳うこのアイデアは少なくとも利用者側に立った空間ではない。確かに複層される地下空間において自分の位置を知るための羅針盤的な存在は必要であり、そのために三層吹き抜けの地下空間を作り出したことは功績として称えられるべきかも知れないが、それは最優先される事項ではない。ラッシュアワー時の渋谷駅は本当に危険だし、吹き抜けがあると言ってもほんの5m径のものである。明るいコンセプトを社会に示すオブジェは、暗くて狭い駅空間の代償としては全く割に合わない。

駅に求められる簡潔性とは吹き抜けを作ることではなく、駅の空間構成を明確に示した目的意識の末に獲得されるものなのである。駅空間に建築学の祝祭場は必要とされていない。誰もが建築界の巨匠を迎合する訳ではないのだ。

流動性 〜自然界の教え〜

ところで曲線はどうして生まれるのだろう。純粋に答えると、曲線とは、植物が土から芽を出して大きくなろうとする時に重力と織りなす平衡状態のことだ。他にも定義は多々できるが、スケール感としても非常に理解しやすい例え話だろう。そして美しい曲線とはその平衡状態が作り出す最も簡潔で自然な形。無意識のうちに感じる曲線の美しさの可否は自然界に還元される。

高速道路、線路、航路は皆曲線である。つまり本質的に、流動性を伴った場所にこそ曲線は宿るという事実がある。そして人間が無意識に作り出す歩行軌跡の中で、駅ほど曲線が顕著に、大量に生成される空間はどこにも無い。鉄道からホームへ、階段へ、コンコースへ、改札へ。蛇行に蛇行を重ねた軌跡が駅空間には散在している。

結論から言うと、動線となり得る空間の壁は曲面であるべきだ。駅の中には直角が多発し、そこでは人々がショートカットしようとして動線が重なることもしばしばある。大抵の場合はテープで上りと下りで動線が分けられているが、そのサイン計画に比して空間構成が明確な目的を持っていないのである。流動性が伴う駅だからこそ、流動性が必然的に生み出した曲線を多用すべきなのである。

寛容性 ~真の公共性へ~

新宿騒乱という事件は新宿駅前の地下広場で起きた。2000人が機動隊と衝突して150人近くが逮捕された暴動事件だ。左翼たちの意見を社会にぶつけるためには新宿駅が持っていた民主主義的な性質が適任とされたのであり、同時にそれは公共空間として社会に寛容だった駅空間のありかたを露呈している。現代において駅前空間はそうでもない。都内で最も公共空間を備えていそうな東京駅丸の内広場でさえ、政治的言動やYouTube撮影は禁止され、深夜になったら警備員がベンチを封鎖する始末である。もはや東京に寛容性を備えた駅前広場などないし、民主主義など微塵も存在しない。

ロッテルダムの観光スポットとしても有名になりつつあるMarket Hall。そのアーチ型の市場には警備員がいなかった。学生は自由に手を組んでトンネルを作って来館者をユーモアを交えて迎え入れていた。もちろんそれはメッセージ性があることだろうし民主主義的な活動であった。特にここは集合住宅に包まれた建物であり、住民たちの中心にある市場は自由で活気に溢れ、なによりも寛容性に溢れた空間だった。こういった場所こそが真の公共空間なのだろう。

可能性 ~まだ見ぬ駅空間に向けて~

タイ・バンコクから国鉄と船を乗り継いで2時間。メークロン市場に到着した。ここは既存の市場が拡張して線路上にまで乗り出してしまった場所で、タイの観光名所にもなっている。線路の上を当たり前のように歩き、喋り、物を売り買いしている人々。そしてそれを何とか写真に収めようとする観光客。そんな光景を目の当たりにすると、僕の固定観念は崩れ落ちた。線路の上は柵で覆われた危険な場所なんかではないし、物を落としたくらいで駅員を呼ぶ空間でもない。ましてやホームドアなんて馬鹿馬鹿しい。そう感じた。僕はタイでの一人旅を通して、鉄道空間の刷新から始まる新しい公共性を考えたいと思い始めたのだ。

まだ見ぬ新しい可能性。建築学生なら誰しも一度は使ってみたいこのフレーズを、僕は駅空間の刷新に捧げようと思う。

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