見出し画像

芸術と技術

コロナ禍も終わり、何年かぶりに花火を見た。外苑前は流石に混んでいて、少し離れた場所から花火を眺め、時差のある光と音とを楽しんだ。

ふと思ったことがあった。それは、「花火は技術なのか、芸術なのか」ということ。花火は花火師さんの1年に渡る努力と知恵の結晶であることは確かであるし、並大抵の技術では打ち上がるものではない。しかし、花火を現象として捉えると、それは芸術なのではないか。そんな仮説だ。つまり熟練の技術こそが花火を花火たらしめ、夜空に大きな芸術を作り出すのであれば、技術と芸術は一体化した連綿の両側面に他ならないのではないか。

技術と芸術の関係性ってどうなっていて、その境界面はどこにあるのだろうか。あるいは存在しないのか。この文章ではそんな技術と芸術について様々な事例を通して考えていく。

文字は技術か

あなたは今、「この紙に書いてある通りに、日本語を書いてください」と言われてA4の紙とペンを渡されたとする。するとあなたのペンはすぐに走り出すだろう。見慣れている言語を書く行為は機械的で、なにも考えずともスラスラと書き表せられる。同様に英語を問われても大丈夫なはずである。英作文をするのではなく、見本を見ながら書くのだから。

だが、もしこれがフランス語とかイタリア語を問われたらあなたのペンの走りは鈍くなり、やがてアラビア語なんて問われたら、あなたが走らせるペンの軌跡は『書く』行為よりは『描く』行為により近くなるはずである。

なぜならそれは、頭の中に体系化された文字記号とは程遠い、初めて見る線の軌跡をまねる行為だからだ。見本が横にあるにも関わらず、あなたはそれを文字としてではなく、得体のしれない線の軌跡として認識し、技術ではなく芸術のように扱うのである。

元来、文字は音や動きを伴うものだった。それこそイスラム教のコーランやキリスト教の讃美歌は発声するためのツールとして文字が扱われたし、漢字を見てゲシュタルト崩壊を引き起こす東洋人が多いのは、漢字を書く過程でその文字と意味を一致させていたからである。小学校の授業でやたら書き順をうるさく指導したり、先生が宙に書く動作を真似してまで同じ動作を訓練されたのも、あなたが学んだ言語が漢字だったからであろう。動作が文字情報を喚起するのである。

だが近代に迫るに連れて、文字は芸術としての様相から技術としての様相をより強く呈するようになった(印刷業の影響だけではなく文化傾向としても)。文化人類学者のティム・インゴルドは次のように述べる。

直線の覇権とは文化一般にみられる現象ではなく、近代の現象なのである。

『ラインズ 線の文化史』、2018年(第四版)、ティムインゴルド

近代において定規(ルーラー=支配者の意味も)の導入でありとあらゆるモノが直線的で予測可能な存在になった。この直線化の傾向の中で、活字情報は伝達手段に成り代わり、それ自体が喚起する芸術性を失っていったのである。

つまり近代に入って線描=芸術、記述=技術という乖離が生まれたのである。そして書道やカリグラフィーという学問はその間を埋め合わせるように存在する記述の芸術である。現代ではその技術を使って芸術を喚起し、その恩恵を社会に還元するような作業が実際に行われているのである。

図面は技術か

文字と同様のことは、建築図面にも言える。例えば安藤忠雄氏やスティーブン・ホール氏の作る建築の平面図は、まさしく絵画のように構成されていることに気が付くだろう。彼らの作る平面図が実用上の合理性を差し置いてまでも、その図面上における幾何学的な美意識に基づかれていることは否定できない。

図面は伝達手段であると同時に、それ自体が作品性としての価値を持つこともある。なぜなら、そこには建築家の手による動きが加わり、芸術としての側面も息吹始めるからである。それはある意味必然で、図面情報が線描動作に影響されることは、それが人間による作品である限り避けられないのである。

近年では3Dでの設計や画像生成AIの活用による意匠決定プロセスが主流になりつつあり、人間の介在の余地がますます減って来ているが、特段それ自体は素晴らしいことである。

進歩とは人間がいかに楽をしてより高い生産性を獲得するかにあるのだから、新しい物事に敏感になって否定しているようじゃ未熟な思考プロセスと言わざるを得ないだろう。車が発達しているにも関わらず、オリンピックでは100mを早く走り切った人間を褒めたたえる時代なのだから。

だが注意すべき点として挙げるなら、オリジナルを作り出すのは技術ではなく芸術としての生成プロセスである。あなたの手の動きから生み出される線描は、AIソフトに対するプロトコルの記述による成果物を大きく上回る価値を持っていることを忘れてはならない。

図面を技術ではなく芸術として捉える思考が大切だと僕は考える。最終的に落ち着く空間がどうであれ、その美意識だけは忘れてはならない。(AIに関しては門外漢なのであまり深入りはしない)

愛は技術か

このテーマは哲学者エーリック・フロムの著書『愛するということ』の第1章で多くのページを割いて書かれている。

愛は技術か、それとも快感か。そんな議論である。現代人の多くは愛とは快感の一種であり、運が良ければそこに「落ちる」モノであると考えているが、彼の著書では愛が技術であるという前提に基づかれている。その上で、愛に対する知識と努力を通した「愛の行為」が必要なのである。つまり、例え愛が現象的な芸術だとしても、それを達成するために技術が無ければならないのである。

考えれば当たり前かもしれない。相手を知ろうとする行為、好かれようとする行為、知ってもらおうとする行為。そういった技術を行うように掻き立てる衝動こそが愛であり、その行為と衝動は共依存関係にある。

運転は技術か

例えば僕はドライブが好きである。自分では到底なし得ない速さで5m近い巨体を操って拡張自己を生成する感覚。それこそがドライブの醍醐味である。だから僕はドライブこそは芸術の一種だと考えている。友人に運転が上手いと言われたところで、僕が感じている喜びはその褒め言葉以上の芸術なのである。技術はそれを達成するために付随する能力値でしかないからだ。

よくある話だが、東京に住んでいたら車を持つ必然性など存在しない。徒歩3分圏内にカーシェアサービスがあれば車を自分だけの占有物にする理由がないし、所有する喜びと運転する喜びはまた異なるからだ。だがここにも、運転を技術と捉えるか芸術と捉えるかの大きな違いが存在する。

運転を技術、すなわち移動手段として捉えているならば、まさしく車は浪費になる。だが運転を芸術、すなわち拡張自己を生成して駆け抜ける喜びとして捉えるならば、消費になる。車を日々に豊かさを与えるライフスタイルの増幅装置と捉えるならば、車を所有してドライブすることこそが、単なる移動手段であることを優に超えるエネルギーを持っているのである。

他にも、私達には不可能な技術である航空機操縦にも同様のことが言えよう。私達にとっては安全に離陸と着陸を行うための運転技術である航空操縦の技術も、パイロット達にとっては車のドライブに他ならない、あるいはそれ以上の喜びなのかもしれない。上空10000mから眺める地球の景色を、拡張自己を生成しながら体得するのだから。

絵文字は技術か

🙂。これは技術かどうか。そんなことを考え始めると中々面白い。絵文字は日本発祥のコミュニケーションツールである。それがアメリカに渡ってmeMOJIなんて言う進化版になったりもしたが、文字と並列して扱うその可愛げな表情の数々は漢字と同様に、それ1つで多くの情報を収納することが出来る。

絵文字はそれ単体で眺めていても非常に愛くるしく、文章全体に華やかさを与える。活字は基本的に黒一色で染められているのに、絵文字を1つ入れるだけで明るさが出て、書き手と読み手とを同じ空気で繋ぎ合わせることが出来る。

その意味で、絵文字は技術であると同時に、現代の記述情報に華を添える芸術でもある。単なる文字列を見るに耐えるモノに昇華させているのである。ほらね😉

まとめ

こうして文字、図面、愛、運転、絵文字という5つのトピックで技術と芸術とが同じモノの両側面に他ならないことが理解できた気がする。

だがここで得られる知見として、芸術が芸術のためだけに存在する事例は無いということだ。芸術は常に、技術を通して人間が獲得してきた気晴らしのような存在である。

まるで平たいスマホで十分なのに折り畳みの技術を取り入れたり、押しボタンで十分なのにホログラム技術で空中に投影してみたりして、芸術のように美しいスタンダードが時代の進歩に加速度を与えていくのである。

技術を取り入れて使用する中で芽吹いた芸術こそが人間に前を見る衝動を与え、技術を更にアップデートさせていくのである。そういう意味で技術と芸術は共依存の関係性にあり、そのいずれもが欠けても、現代社会の輝くような美しい世界は幻想でしか無くなるのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?