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美と善、そして建築

「美」はイタリア語ではbello 、スペイン語ではbelleza、ギリシャ語ではkalos、英語ではbeautyと言う。英語beautyがラテン語bene【良いこと】に語源を持つことと同様に、多くの言語において美とはその性質としての美しさの形容だけではなく、「良いこと・善」の意味も含んでいる。

ギリシャ語“ho kalos"は直訳すると「美しい人」となるが、実際に古代ギリシャにおいては、「見事な人」の意味で大衆の目指すべき人間像として高い地位を与えられていた歴史がある。美しいことは良いことそのものを表していたのだ。

(オックスフォード大学から引用↑)

また、我々の使う「美」という字の語源は孔子の『論語』の中に記されている。「美」という漢字は羊と大から構成されているが、羊は宗教的な祭式で献上物として扱われてきた歴史から、『犠牲』の意味を持つ。すなわち、その犠牲を最大化する行為、自己犠牲こそが大いなる美しさを体現していると考えたのだ。己が犠牲を払って対象(共同体)の価値を高めることが人間に可能な最も崇高な行いであり、それが美であると…。

一般的に私達の生活の周りに「美」は溢れかえっているとされる。それこそインスタ映えが流行を迎えたのは、「美」という名目の元に現況を発信できるツールを駆使して、「シェア」というポジティブな単語と共に自己満足感を得ようとする意思の顕在化であろう。だが、「美」とはそんな単純に手段化できる物ではないと思う。人間生活にとってより深くより大きな意味を持つはずだ。この文章では「美」とそこから派生する感動、美と善の同義性、そして美と建築について考えていく。

…そもそも自分が今「物」として美を語ってしまった事自体がこの問題の根底にあろう。

というのも、美には2つの捉え方がある。「存在論的把握」と「認識論的把握」である。前者は物が備える性質として、後者は見る側の体験として美が存在するという2つの考え方だ。物か事かという議論だ。例えばインスタ映えなどは前者の捉え方をしない限り嫌味にしかならないだろうが、実は人を突き動かすのは「事」として美を捉えることにありそうだ。

どうしていきなりそんな事を言えるのか。その答えはappleの企業宣伝に見いだせる。

TEDでサイモン・シネック氏が2009年に披露した「ゴールデン・サークル理論」は全世界で人気を博した理論だ。彼は人間の行動を引き起こすのはWHYの問いかけだと言う。多くの企業宣伝では製品のスペックやデザインの美しさ、すなわちWHATを宣伝していく手法を使うが、売れる企業の宣伝ではその真逆、なぜ作るのか→どうやって現実化したか→何が出来上がったのかという順に宣伝していくのだという。これは人間の脳科学にヒントを見出すことができる。

(ビジネスのためのweb活用術から引用↑)

人間はWHYの部分、言うならば直感なるもので行動を決め、その周りを囲うHOWとWHATの部分はその行動の論理的な整合性を得るための裏付けとしてしか使わないのだ。WHATがどれだけ優れていてもWHYの部分でお客さんが共感を得られなければ、買わないためのWHATをあら探しされて結局買わないという決断になる。衝動買いが製品にまつわるWHYに心を先取りされ、製品を否定するためのWHATが十分に見えないことに起因すると考えると分かりやすい。

appleの宣伝は世界一のレベルだ。何も考えずに眺めていても心惹かれるし、作業中にCMが流れると一度手を止めてしまう事もある。だが、そこにはその表面的な構成だけでなく、奥深くの脳科学的な戦術も光る。例えばmacbookを紹介する4分程の動画ではそのディティールにおいてappleのWHYからWHATへ至る宣伝が見られるし、15秒程の身近なCMでさえもWHATではなくWHYを宣伝しているというのは日頃テレビを見ていれば分かるはずだ。

appleの作るプロダクトはとても素晴らしいし近未来的だ。appleの作る製品が全世界に大きな衝撃を与え続けていることは確かな事実だし、世界のトレンドの流れを牽引している存在であることも間違いない。…だが、他の製品と比べて圧倒的にapple製品が優れているとまで言うことはできない。というのも、テクノロジーと思想は時代の流れの中で同時多発的に進化していくからであり、例えば自分が今手にしているGALAXYの方がiPhoneより美しいデザインを備えていると思うし、macよりもsurfaceの方が優れた機能性を持つと思う人も少なからずいるはずだ。

だがそれでも確かに1つ言えるのは、apple製品が世界で多くの人を魅了し続けているということだ。そしてその理由は、宣伝にゴールデン・サークル理論を用いていることに加え、appleという会社そのものがある種の「美」を備えていることに繋がるだろう。スティーブ・ジョブズの思想を受け継ぎながら世界一大きな企業がユーザー目線でプロダクトを設計し、美しいフォルムを備え、最先端のテクノロジーを導入し、凝ったapple storeを展開し、アクセサリも豊富だし、ソフトウェアまで考えてしまうという「事」。その「事」が美をまとっている以上、どれだけGalaxyやsurfaceが優れたWHATを備えていても既にWHYの部分でお客さんの度肝を抜いているのがappleなのだ。スティーブ・ジョブズはiPhoneを「魔法の体験」と豪語したが、その体験の美しさなるものを目指し続けているappleにしか到達できない「美」があると感じてならない。

(ギズモード・ジャパンから引用↑)

この、appleに多くの人が惹きつけられる美が「認識論的把握」である。いわば体験としての美しさである。

人を感動させるためには共感を生み出さなければならない。共感する能力の大きさこそが人間と他の動物とを隔てる性質の違いの1つなのだから、今ある文明を共感社会と呼んでも過言ではないだろう。共感がルールを作り、共同体を作り、文化を作る。縄文から現代まで、共感することで宗教が生まれ、遊びが生まれ、国家が生まれ、戦争も生まれてきたのだ。共感こそがそれらの根底にある底力となり、結束を強めることでそれらの成功を願った。共感の先にあるものは仮想の感動的情動であり、そこを目指して人間はエネルギーを費やしていたのだろう。

それでは、この感動は手段なのだろうか。感動をツールとして扱えばその目的としての共同体や文化が得られるのだろうか。それは違う。逆である。ダーウィンの進化論も教えてくれることだが、人間生活の中で自然発生的に共感の連続がルールや文化などを作り、その目的に感動がある。感動は手段ではなく目的として、人々の目指すべき北極星として社会に輝き続けているのだ。そしてその事実を裏付けているのが先程のゴールデン・サークル理論である。人の行動を決めるのはWHYの部分、直感なるものなのだから、優れたルールや文化などではなく、感動こそが人々を突き動かすのだ。北極星がWHATではなくWHYだからこそ、文明は進化し続ける。

美しい風景に出会うと人は感動する。それは時にオーロラであり、富士山であり、初日の出であり、東京の夜景である。そして美しい映画や美しい小説、美しいストーリーを聞いた時にも人は感動する。なぜだろう…。

ここでいう感動とは、先程のappleが作り出す美の「認識論的把握」に対して「存在論的把握」による美だ。事として自分が感じる行為ではなく、その物自体が持っている性質である。冒頭に述べたように美とはbene【良いこと】の意を持つ。そこでここからは「存在論的把握」の美を考えるにあたり、『善』という視点から美にまつわる周縁を辿っていくことにする。

仏教の開祖ブッダによると、善とは「幸せな運命を生み出す行い」とされる。善因善果、すなわち良い行いをすれば巡る巡って自分の元に良いことが返ってくるという考え方だ。大きな湯船ですっと水面を押し出すと自分から波が遠ざかっていく。自分の手元に残ったものはわずかに揺れる水面だけ。…だが、じっと待っていると自分から出た波は湯船の端を伝って自分の元に返ってくる。すべての結果には必ず原因があるのだ。どれだけ小さな善行でも、それは波動となって返ってくる。

また、仏教では山から小石が転がっていくようにして、エネルギーが最小の方向へ向かうように人生も流れていくという教え方もある。障害物を乗り越えようとせずに、エネルギーの低い道を見出して速度を保ちながら流れていくような人生である。善を貫き通した人生では小石は快く転がり続けるのだ。つまり最小のエネルギーで人生を転がし続けよということだ。これは努力を怠るという意味ではなく、続けてきた努力に見合って自分の元に降り立ったチャンスをどう処理するかという話。障害物1つ1つにぶち当たって小石の転がりを止めるくらいならもっとエネルギーの低い解決法を見出すべきという考え方である。

すなわち仏教でいう善とはエネルギーの上下運動を滑らかにすること、言い換えると波動を流し続けることに繋がる気がしてならない。「病は気から」とよく言うが、まさしくここでいう「気」とはエネルギーの受け流し方であろう。東洋医学とはこの「気」の使い方の学問そのものである。東洋医学をエントロピーの観点から説明する書籍もあり、非常に面白いが、「気」あるいは「エネルギー」という観点で『善』を定義しようとするのは正しい歩み寄りだと言えよう。

今あなたが、特段これは宗教的な、どこかスピリチュアルな話だとして遠のかせるのにはまだ早い。これは量子力学に繋がっても矛盾をきたさない話でもあるのだ。というのも、超ひも理論とはある種この「気」の相似として存在する考え方だ。

超ひも理論とは、素粒子を構成しているのは10の−35乗mの「ひも」であるとする仮説的な統一理論だ。ちなみにこの長さはプランク長と言い、エネルギー的に定義できる最小の長さであり、正真正銘の物質の最小単位である。超ひも理論では、素粒子を分類しているのは物質の違いではなく、同じ物質である「ひも」の振動数やスピン方向の違いによって現れてくる。この考え方は、粒子と波動の二重性(陽子や電子は物と波の両方の性質を持つ)という量子力学がかかえる難解な事実を簡単に説明できる。超ひもが素粒子であり、素粒子がクオークを作り、クオークが陽子や中性子を作り、原子核までが構成されていく。

つまり物質はその構成源からして波動そのものでもあるのだ。波動という考え方は単なる例え話としてではなく、仮説ではあるが、物理的にも理がかなった考え方なのである。人生全体、感情の浮き沈み、努力と結果、恋愛…ありとあらゆる人間の悩みが波形をしていることにある程度の合点がいく。

すなわち『善』な姿とは、エネルギーを最小にとどめながら努力をし続けて事を先に進める姿である。美しい映画や小説、ストーリーに心奪われるのはその善な姿に共感するからであろう。また、自然の美しい風景に感動するのは、ガイアなる高貴な存在をそこに見出すからであり、地球全体が持つ平衡状態としての『善』を見ることによるガイアとの繋がりを感じるのだろう。

善は美そのものであり、同じ対象物の性質的な要素が「善」で存在的な要素が「美」なのだと言えるのかもしれない。

ここに来て初めて建築にまつわる美を考えていくことができる。建築が作り出す美しさは、一般的に「存在論的把握」であるが、「認識論的把握」による美も考えられる。シドニーオペラハウスや東京スカイツリーはそれ自体とても美しいが、そこにまつわる建設物語はそれ以上にしばしば人々を感激させる。

まずは「存在論的把握」、すなわち存在の性質として美を考えていく。

美しい建築と聞いて、何を思い浮かべよう。あなたが建築好きであろうとなかろうと、美しい建築、美しい空間、美しい街並みを想像することはできるだろう。それは中東の海に浮かぶ美術館なのか、あなたの実家に残る郷愁なのか、それともパリの街並みなのかは人それぞれだろうが、美しさを持つ空気感とは説明するまでもなく、心奪われる風景がそこに広がるイメージそのものであり、『善』なる概念は持ち込む必然性も無いだろう。小難しいことは考えなくとも美しい風景は美しいのであり、それで完結している。

ただ、合理的な建築なるものを考えようとした時に、例えば自分を含めた建築学生が考えるような、「誰も見たことのない新しく自由な建築」なるビジョンとの整合性は取れなくなる。なぜなら、建築家NASKAの古谷さんがおっしゃるように、「普通な建築」にはそれなりの必然的理由があり、普通であることを新しさのみで淘汰することは許されないからだ。世界に優秀な学生が溢れているにも関わらず世界の99%の建築が「普通」に落ち着いてしまうのは、野心的ビジョンがある種の必然性を伴った結果である。建築家フランク・ゲーリー氏が記者に向かって中指を立てる理由も分かるが、その逆もまた真なのである。 

ただ僕はそれでも美しい建築は整合性を保てると信じている。なぜなら、世界の1%…いや、0.1%の建築は合理性とビジョンと美しさを共存させているからである。そこに高尚な建築理論などいらないし、芸術や文学に走る意匠的逃亡、批判に対する特効薬を備える必要性もない。建築に正しい進化をさせることで、それは「善」な姿に変わるのだ。

その答えが僕はデンマークの建築家集団BIGにあると思う。

上の写真はコペンハーゲンにある集合住宅だ。全ての住居が南向きの庭付きテラスを持ち、なおかつ灌漑システムが整っている。夏になると集合住宅全体がまるでカンボジアの古代遺跡のように、緑に包まれた建築になる。まさしくこの集合住宅の名前の通り“mountain”である。また、各住居の下には駐車場があり、住人は郊外型の庭付き住居と都市型のシティハウスとの両方を持ちながら住むことができる。

また駐車場の壁面はパンチングメタルになっていて、自然換気システムとなっている。そしてパンチングの穴の大きさを変えることで、この集合住宅の壁面はエベレストのアートワークとなっているのだから驚きだ。駐車場側の共用廊下はキレイに色分けされていて見た目にも優しい空気感が漂う。

「普通」な建築だと効率的なBOX型の住宅棟とBOX型の駐車場とが正対して並べられるが、ここでは太陽光の向き、住宅の豊かさの獲得、駐車場の確保、通風、周辺へのボリューム抑制という課題を1つの建築形態とその構築方法だけで解決している。その敷地が可能な豊かさを最大化するダイナミズム。そこに「善」な姿を見出す。仏教の教えにもあったことだが、新しさを生み出す努力を怠るのではなく、努力し続けながらエネルギーを最小化するための、新しく合理的な選択をしたのがこの集合住宅なのだ。

上の写真はコペンハーゲン市街地の最南端にある集合住宅だ。南側への眺望を考慮した大胆な形態はここに住まうことの豊かさを最大化するための善な姿である。形に合わせて住居も階段状に連なり、多くの住居がそれぞれ固有の床レベルを持っている。

最も驚きなのは、住宅の中層階(一部上層階)まで自転車で行けるということだ。ご存知の通りデンマーク人は3人に1人が自転車通勤・通学をしている訳だが、その生活スタイルに合わせて街の自転車道が建築を貫通しているのである。しかも計4方向に対して貫いているのだ。まるでタウンハウスが立体化しているかのように玄関前は明るく、住人の交流も当然のごとく生まれる。

上層階は中庭向きに大きなテラスがある。中庭を介した一体感なるものがここまで開放的に実現してる建築はそこまで多くない。特にこの写真を見ると分かるが、テラスごとに床レベルだけでなく、階高も異なっている。信じられないレベルの巧妙な設計がなされている。

この集合住宅も「普通」な建築ではなし得なかった圧倒的な空間的豊かさを新しい構成と巧妙な設計で実現している「善」な建築である。大きな敷地に分棟で建てるのではなく、高層化のメリットだけで建てるのでもない新しい方法論が、中庭を共有したコミュニティに属した、様々なニーズの住居郡を効率的に作り出している。

僕にだってビジョンはある。だが、建築学生としてできることとできないこと、あるいは必然的なものとそうでないものとがあることも学んでいる。だからこそ僕はビジョンに合理性を持たせた提案しか好きになれない。そして僕にとってその整合性が取れた建築がBIGの作る建築なのである。それらは常に「善」な姿、彼らなりの言葉で言うと“Yes is more“である。それはモダニズムが“Less is more”と発した事への完全なるアンチテーゼであるわけだが、この肯定的な解決法というものが、最も「善」な手法であり最も美しい建築を作るメソッドだと感じる。建築家のエゴではなく、その敷地に可能な豊かさを最大化するダイナミズム。この「善」な建築を作り続けるBIGに、僕は生涯に渡って魅了され続けるだろう。あるいは彼らのこの言葉にも、僕が魅了されている理由を捜し出すこともできる。We normally describe our own work as “pragmatic utopian(理にかなった楽天家).”

僕にとっての美しい建築は世界にたくさんある。だが、合理性が絡んでくると話は変わる。ビジョンと合理性は分離していても美しい建築は作れるからである。ザハ・ハディド氏の新国立競技場案が白紙撤回されたことがよく示しているように、建築の上部構造としての表現の美しさと下部構造としての建築の合理性とは一般的に分離されて考えられている。だが、それこそザハ案は実現可能であった訳であり、動線計画や構造システムも相当に考え尽くされていたにも関わらず白紙撤回されたのだ。これは、評価する側、簡単に言うと大衆がその上部構造と下部構造とを天秤にかけ過ぎている気がしてならない…。というのも、建築とはそれらのどちらが欠けても「善」な様式には収まらないのである。社会が要求する下部構造とメディア表現が要求する上部構造とが相乗的に建築を仕立て上げるのだと思う。だからこそ美しい建築を作るためにはビジョンと合理性との相性が必然なのである。(評価する側の公平な意見も必然だが…)

このビジョンと合理性との相性という観点から、話を「認識論的把握」の美へと移していく。

例えば丹下健三氏の設計した代々木体育館はビジョンが合理性を伴った良い例である。巴型の平面計画が人の動線計画や観戦のしやすさ、自然光を十二分に受け流し、そこにブリッジを掛けるように屋根をかける。どこか日本の寺社建築を感じる曲線美の屋根とそれを実現するための高い技術、そしてそれらが可能にする大空間とそこに差し込む淡い自然光。素晴らしい建築である。隈研吾氏を魅了したように、この建築は人々を引き寄せ続け、いまだに東京を代表する建築の1つとして人々の心に「認識論的把握」による美として残り続けているの。

あるいはピラミッドも素晴らしい。1人の墓を作るためだけに何百年も石を積み続けたことには感激せざるを得ないし、オリオン座の配置を模した三大ピラミッドには畏怖の念を覚える。同様に万里の長城も投入堂もケルン大聖堂も、人々の心に残るという意味において美しい建築だ。

(@arch-place/instagramから引用↑)

建築とは、その存在の性質が持っている美しさを超えた、事としての美しさを備えていることがある。例えば富士山が文化遺産として世界遺産に認定されたことと同様に、その存在の性質ではなく、その存在にまつわる物語がより大きな美しさを持っているということだ。人を大きく突き動かすのは、またしても「ゴールデン・サークル理論」が説明する通りWHYの部分であり、それは建築にまつわる事の方が建築そのものより大きな力を持っているということだ。スイスの山奥にある小さな山小屋や無人島に建つボロボロの家、あるいは長崎の炭鉱業の要として機能していた端島(軍艦島)も含め、ストーリーほどに大きな衝撃を与えられる建築は少ない。ノートルダム大聖堂の火災はあまりにもショックだったが、実際にノートルダム大聖堂はそのバラ窓やフライング・バットレスなどの大胆なゴシック様式よりも、火災で燃えてしまったことの方がより人々に大きな衝撃を与えられたし、これでより建築の「認識論的把握」による美しさが増したのかもしれない。ピサの斜塔が建設途中に傾いていてもそのまま作り続けたことも、真っ直ぐ建てるより遥かに「認識論的把握」としての美が増したのだろう。

社会に対してどこまで物語を語りかけられる建築かどうか。それは不具合や事故による物語や、サグラダ・ファミリアのような建設秘話エピソードによる物、あるいは東京都庁舎のようにシンボリックな物などが考えられるが、いずれにせよ人々のWHYを刺激する建築に「認識論的把握」としての美しさを見出すことができよう。

結局のところ、建築にまつわる2つの美しさは、「ビジョンと合理性との相性」と「人々のWHYを刺激する」ことにある。どれだけ感性が繊細な建築家の作品が高い評価を受けていても、その作家性のみを評価されているのであればそこに合理性は無いし、逆に生真面目なガッチガチの建築が高い評価を受けていてもそこにビジョンは無い。ましてやそれが行政によるトップダウン型の建設であれば人々のWHYは一切刺激されることなく完成を迎えてしまうだろう。美しい建築とはそんな風にして生まれない。

建築が工学と芸術の中間領域だとする考え方は世間に浸透しているが、そのどちらでもないことは浸透していない。工学のみ、芸術のみに走る建築はそれぞれ土木と空間アートでしか無く、建築とは言い難いと思えなくもない。そのバランスと一言で言ってしまえれば簡単だが、ビジョンと合理性を適度に保ちつつ、人々を刺激する建築こそが美しい建築だと言えよう。

BIGの作る建築は美しいだけでなく、しばしば人々を刺激さえもする。上の写真はコペンハーゲンにあるスキー場である…と聞いて何人が信じるだろうか。だが、確かにこれはスキー場である。そしてスキー場の中にはごみ焼却施設があるのだ。取って付けたような煙突がそれを指し示している。スウェーデンの有名なスキー場を模した人工的起伏によるスキー場は世界中のスポーツ好きを世界一クリーンなごみ焼却施設に集めるのだ。そして同様に、コペンハーゲンの全てのゴミ達は世界最大の人工スキー場に集められる。

“Cophenhill"と名付けられたこの建築は人々にWHATを説明するまでもなく、WHYの部分で度肝を抜いて集めることだろう。コペンハーゲン市街地から簡単に見つけることのできる高さ90mのごみ焼却施設は、人々を不快にするのではなくむしろ引きつける。

(カーサブルータスから引用↑)

これはデンマークのビルンに建つLEGOのテーマパークである。もちろんビルンとはLEGO発祥の地であり、BIGはそこにLEGOブロックを積み重ねるようにして建築を作ったのだ。この建築の素晴らしさは説明しなくてもいいのかもしれない。なぜなら、WHYの部分で既に人々を刺激するからである。この建築にビジョンと合理性はもちろんあるが、それ以上に人々を刺激する要素を含んでいるから、文章を読まなくても世界中から子供連れがこの小さな街、ビルンに集まってくるのだ。

BIGはワールド・トレード・センター2の設計やニューヨーク市の洪水対策の監修、ドバイ万博2020のマスタープランも担当しているが、それは設計そのものだけでなく、彼らの建築が人々を刺激するという観点で語る方がより正しいのだろう。

東京スカイツリーの美しさを五重の塔に見出すこともできる。なぜなら、1400年前と同じ「美」をまとっているからである。時代を超えて「美」は受け継がれていく。宗教からの説明や量子力学からの説明など多々あるが、全ての教え方も結局は1つの真理を指し示している。まるで、世界中の古代文明の神が皆太陽であったように…。

美しさとは「善」な姿であり、人々を刺激する姿である。美しさだけで建築を語ることはできないが、美しさの無い建築を語っている事ほど退屈な事は無いだろう。僕自身、今後の人生で何をするかは分からない。建築を作るかもしれないし、地元のまちづくりを考えるかもしれない。だが、いかなる仕事をしていく中でもこの「美」がもつ必然な姿は大切にしていきたい。なぜなら、「美」とは「善」そのものであり、人々を共感することで感動させ、引きつけるからである。

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