見出し画像

空模様の深みに置く記憶

■文章は書き出しが大事だ。書き出しは飛行機の離陸に似ている。うまく離陸できなければ、そのフライトは失敗だ。強力なエンジンがあれば短い滑走路でも離陸できるかもしれないが、そうそう毎日、これは、というネタに出会えるわけでもない。であるならば、やはり自分の中でそれなりの長さの滑走路を引くということが必要になってくる。ではその滑走路とは具体的に何のことを指すのか。

 人によって様々な答えがあるだろうと思うが、現時点での僕の答えはこうである。それは、十分な量の“否”だ。どういうことか。例えば、これは毎日書いている文章であるから、自然、日記的な要素を帯びがちだということを数日前に書いたが、だからこそ、「今日は」という書き出しはまず、否の対象となる。「今日は〜だった」という書き出しでもインパクトを残せるような強いテーゼがあるならば話は別だが。先ほども書いた通り、そうそう毎日日記のネタになるような珍しいことがあるとは限らない等の理由から、「今日は〜」という書き出しは、確かに簡単で飛びつきやすいが、ひとまずキャンセルされる。そしてその後も様々な書き出しが僕の脳裏をよぎるが、だいたい全部キャンセルされるのだ。稀に実際に書いてみる段階まで進むものもあるが、2の句3の句を継いだ時点で全て消されることも少なくない…などということを考えていたら、今日は、「書き出しを考えているならば、では今日は書き出しについて書けばいいのではないか」と思うに至り、冒頭の書き出しへと繋がっていった形になる。

 一方で、「そんな細かいことは気にせずとりあえず頭で考えないで手の動くままに書いていけばいいじゃないか」という考え方もある。もちろんそういう風に、何も考えずに書けることをずらずらと書いていける、そんな時もあるが、いつかどうしたって絶対に「書けない時期」はやってくるのだ。そしてその時大事なのが、他でもない、「泥水をすすってでも書く」ということだ。

 正確に言えば「書けない」時期などというものは存在しない。ただ、それまでに比べて非常に書き辛く感じる時期は確かにある。そういう時を乗り越えるコツはただ一つ、「石にかじりついてでも書く」ということなのだ。これは、ゲームでいうところのボス戦のようなもので、確かに普段の敵よりもはるかに強く、倒し辛い。しかし、諦めたらそこで試合終了なので、この難敵を打ち崩すべく我々は自分自身を追い詰める劣等感や自己嫌悪などの邪魔を退け、ああでもないこうでもないという試行錯誤の果てに、ついに書けるようになる日を迎えるのである。そうして新しい領域へと突き進んだ我々の語り口調は、以前までのそれとは一味も二味も違う強度と輝きを放っている。

 我々は、日々己と向き合い、高めていかなくてはならない。名将・野村克也の言葉を借りれば「敵は我に在り」である。何もそんなにストイックにやらなくても、気楽に楽しめばそれでいいじゃない、と思う人もいるかもしれない。しかし、現実問題として、書けない時は、楽しめないのだ。そして書けるためには、より強くならなければならない。つまり、楽しめるためには、常により強く、より柔軟で強靭な精神を身につけなければならないのだ。

 なぜ、登るのか?そこに山があるからである。それでは、なぜ、書くのか?そこに紙があるから、である。何を言っているかわからない?大丈夫、いつかわかる日が来る。

P.S.
映画『American Beauty』を観てください。できれば20回くらい。

この記事が参加している募集

#自由律俳句

29,803件

#映画感想文

66,387件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?