見出し画像

鳥は羽叩きを憶え

■今日は妻の誕生日だったので、祝ってきた。

 妻とは、まだ結婚して1年半経たないくらいで、付き合ってからもまだ3年経ってない。知り合ってからだとちょうど3年経つくらいだろうか。当時自分が働いていたレストランに大学時代の同期がたまたま食べにきて、その時一緒にいたのが今の妻だ。その日、なんとなく2年ぶりくらいにFacebookを見ていたら件の同期が数年ぶりに何かをポストしていたようだったので、久々にコメントをつけてみたら、なんとたまたまその日にその同期が店先に現れたのである。僕も流石に驚いたが、その時は同期との久々の再開を祝うだけで、同行していた人には簡単な挨拶と少しばかりの会話をするだけでこれといって特別な何かを感じるというようなことは一切なかったのだった。

 そして数ヶ月後にまた例の同期が現れ、僕の仕事が終わった後にせっかくだから少し飲まないかというので合流し、そこにいた妻となんとなく連絡先を交換したのが始まりである。

 今だからわかるが当時の僕は凄く思い詰めており、基本的に自分は幸せになってはいけないと思っていた。意識の上でそう考えていたわけではないが、無意識の思考回路が幸せになることを避けるように設計されていたのだ。怒りや自己嫌悪に対する反動に頼って自我を作り上げてしまうと、どうしても幸せから逃げるように動いてしまうことになる。幸せになってしまえば、ネガティブな感情によって作り上げた自我は消え去ってしまうからだ。それが怖かった。だからこそより大きな負の感情の源泉を求めてマイナスの自己を強化していくという、そういうスパイラルに飲み込まれていた。

 そんな僕の前に妻は現れた。なんとなく流れで、否、神の計らいで、とりあえず付き合ってみようということになり、深入りする前に一生懸命別れようとしたもののなぜかことごとく失敗し、そんなことをしているうちにバンドが崩壊した。僕は妻と別れようとするのを止めた。

 結局のところ、僕は、僕が僕として世間から特定されていくのが怖くて逃げ回っていただけだったのだ。しかし、自分自身の中の「本当にそれでいいのか?」という無意識の声がその逃避行を妨げて、世界とのギリギリの接点を保っておいてくれた。それが妻だったのだと思う。だからこそ、僕は妻を自分自身の写し鏡だと思って愛さなくてはならない。固い考えで妻を縛ろうとする時、縛られているのは自分なのだと気付かされる。妻に向かって僕は幸せだと伝えることで、今自分は幸せなのだと感じることができる。人を愛するということは、自分を愛するということだ。そうしていく中で僕は段々と、自分が自分であるということが怖くなくなってきている自分に気がついた。

 以前の僕は、僕が広がっていくのを一生懸命食い止めようとしていた。コントロールできなくなるのが怖かったからだ。しかし実際、コントロールしようとする必要も、コントロールできる必要もないのだと最近は思える。自分というのはどんどん分裂していくものだ。それを下手に制御しようとすると、人は心を病む。心というのは自然と広がっていくものなのだ。そう思えるようになったのはやはり妻と一緒にいる時間の影響だろう。

 今僕はとても幸せだ。それを毎日欠かさず、妻に伝えようと思う。

この記事が参加している募集

#自由律俳句

29,876件

#今日の振り返り

23,082件

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?