見出し画像

初穂の実りの最中の揺らぎ

■とてもじゃないけど文章を書くなんて気分になれないという日もある。今日がそれだ。でも、書くのだ。こういう時じゃないと出てこない言葉があるかもしれないから。

 僕はこれまでこうして文章を書いてきて、結構な頻度で「書くことがない」と書くことで書くことを捏造してきた。だがしかしそれは書くことがないのではなく実際は「まだ書くことを思いついていないだけ」なのであって、書くことをまだ思いついていないとしても、それを書いてしまうのはあまり良くないことだと思う。もちろん書くことを思いついていく過程をも記録するというスタンスなのであれば問題はないのかもしれないが、本来ならばその部分はない方が内容の純度が高いものになる、と思われる。それに実際、書くことは何かしらあるのである。書くことがないと感じるのは、その日の自分の気分をまだ精査できていないだけだ。ある意味で始まりはいつも誰にとってもそんなものであるので、確かにこうして書いているうちに何か書くことが出てくるというのも一理ある。

 実際のところ、僕はこうして文章を書くことで何をしたいのかといえば、おそらく自己分析がしたいのだと思う。自分自身のことをよりよく知りたいと思い、出涸らしになるまで文字を書き尽くすために文章を書いている。僕が何より気をつけたいと思っているのは、自分ではないことを自分だと勘違いすることだ。僕という存在のありのままを見つめたい。一方で、簡単にありのままとかいう人間が一番簡単にステレオタイプな存在になりがちなのも確かであって、僕の認識できる範囲にありのままで映る世界など存在するのかどうか、それについては注意深く検討しなければならない。

 そしてこうして自己分析をしてみると、僕は常に頭の中を空っぽにしておきたく、だからこそ全てを反射神経と勘と運の良さだけで乗り切ろうとしている節があると思う。この中で一番大事なステータスは運の良さだ。それ以外のステータスがどんなに優れていても、運が悪ければ何にもならない。逆にどんなにステータスがみすぼらしくても、最強の運の良さがあれば、何も困らない。運の良さは、この全宇宙を支配する原理だと言ってもいい。そしてこの運の良さというのは、自分自身を運がいいと信じれば信じるほど、上がるものなのだ。自分は運が悪いと思っている人間のところに運は巡ってこない。彼や彼女は身の回りのことに感謝しないからだ。逆に自分は最高に運がいいと思っている人は、何が起きても、例えば仮に就職試験にパスしなかったとしても、それはより良い未来に対する可能性が開かれているからだと思えるわけだ。これはいわゆるマッチョ思考とも違う、ラッキー思考とでも言えばいいのかわからないが、とにかく運の巡り合わせを一番引き寄せる考え方だと思う。逆に言えばカルト宗教が「運気の上がる壺」なんてものを売り出すのも、つまりは同じことだ。だからこそ神は偶像崇拝を禁止したのである。運は物には宿らない。愛と同じで、運は目に見えない。そして、運は、どこにも救いがないと完全に理解したときに、その人のうちで爆発するのである。運と知恵は表裏一体だ。「頼るべきでないものに頼ってはいけない」と理解した人の元にこそ、運は訪れる。そもそも僕ら自身の命の始まりに想いを馳せてみれば、反射神経とタイミングを計る勘、そして運が重なってこの私が始まっていることはよくお分かりいただけるだろう。つまり私とは、そういうことなのだ。これが私が自己を分析した結果である。

そんなわけで最近は文章の締めかたがよくわからなくなりつつある。というかそもそも自分がどんな文章を書いたのかさえほとんど覚えていない、けど、まぁそういうこともあるよね。

この記事が参加している募集

#自己紹介

229,891件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?