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◆遠吠えコラム・舞台「ひとくず」・「不愉快だった約4時間半。楽しめなかった俺が『ひとくず』なのか」(※画像は下北沢駅近くの中華料理屋の炒飯)

 年の瀬の12月28日、東京・下北沢へ演劇を見に行った。演劇が特別好きというわけではないが、長らくしてなかった遠出の動機としてはぴったりだった。鑑賞した作品は、映像劇団「10ANTS(テンアンツ)」の「ひとくず」。同劇団主宰で俳優・映画監督の上西雄大がメガホンを取った同名の映画が原作。空き巣常習犯の男が盗みに入った家で虐待されている少女を見つけ、少女を虐待から救い出すために「罪」を犯す―という粗筋。この作品を選んだ理由は実にシンプルで、自分が幼いころに見ていた特撮ヒーローもののドラマに出演していた俳優さんが数人客演で参加していたからだ。長野から新幹線と私鉄を乗り継ぎ、約3時間の道のり。前売り6500円と決して安くない買い物だったが、結論から言うと、地獄のような時間を過ごすことになった。久々の遠出を台無しにされた怒りと悲しさを以下に記そうと思うが、冷静にまとめられる自信がないので悪しからず。

【無駄の多い場面構成とアドリブ】


 地獄だと思った理由はいくつかある。まずは上演時間の異様な長さだ。チケットを予約したサイトには、休憩をはさんで約3時間とあった。多少長いなとは思ったものの、このくらいの劇はよくあるという認識だったので、さほど気にならなかったのだが、甘かった。千秋楽ということもあってか、役者たちはこぞって台本にないアドリブを乱発し始めた。台本にないやり取りの蓄積で上演時間は刻一刻と伸び続け、午後0時半に始まった劇が最終的に幕を閉じたのは、午後5時前のことだった。役者たちは千秋楽まで温めていたアドリブネタを在庫一掃する。それが千秋楽だ。特にコメディ系の作品にはよくあることで、台本にないシーンの蓄積で上演時間が通常よりもマシマシになることはままある。そんな劇にこれまでもいくつか出くわした。だから長くなることは別に構わない。ただし、面白ければの話だ。

 「ひとくず」千秋楽のアドリブの多くは見るに堪えなかった。虐待と言う重いテーマにそぐわないギャグが脈絡なくさしはさまれ、役者がせっかく創り出した場面のシリアスなムードを台無しにしたりしていた。おまけに、映画をそのまま舞台にしたような演出が施され、ストーリーのテンポがとにかく悪かった。胸についたアイロンの火傷跡の説明に、わざわざ回想シーンをはさんだりする。アイロンの火傷跡って台詞がれば大体何があったか想像つくだろう。虐待の強烈さをシーンで見せて強調したい意図は理解するが、アイロンを使った虐待という想像の域を超えないので、さほど必要性を感じなかった。一事が万事こんな具合。登場人物の内面や過去なども懇切丁寧にシーンで説明しようとするものだから、場面転換のための暗転・明転がしきりに繰り返され、目がチカチカしてとにかくストレスフルだった。

【力なき女性が男の恫喝と腕力で矯正されていく痛ましさ】


 「ひとくず」という作品そのものに感じた違和感も、受け入れがたかった理由の一つだ。主人公の男は過去に母親の愛人から虐待されていた過去がある。母親は主人公が虐待を受けているときは何もできず部屋の隅でうずくまったりしているだけで、愛人の暴力が収まった後、少年を焼肉屋に連れて行ったり、アイスを買って食べさせたりする。暴力から守ることができなかったせめてもの罪滅ぼしのつもりなのだろう。でも悲劇的なことに主人公は母親の罪滅ぼしをゆがんだ形で受け取ってしまう。自分の愛人の暴力をチャラにする目的があると行為だと誤解し、母親を憎んでしまう。そんな主人公は、空き巣に入った家の少女の母親を、虐待から救ってくれなかった自分の母親と重ね、いらだちを募らせ、恫喝と腕力で母親の役割を強いる。でもその恫喝と腕力って、主人公が最も憎んでいたものではないのか?虐待を受けている子供を助けるため、少女の母親が体を売ろうとする時も、主人公の怒りの矛先は、体を売ることを強要する男ではなく母親に向けられるのだが、この描写にも違和感があった。断罪されるべきは恫喝と腕力で女性を支配しようとする男だ。母親はむしろ、男に依存することでしか生存の道を見出せない状況に追い込まれた被害者だ。それなのに、自分の娘を救いに来た別の男に恫喝と腕力で矯正されるなんて、地獄だ。

【公然と繰り返される容姿や年齢いじり】


 一番許せなかったのが、「ブス」とか「ババア」といった容姿や年齢をいじり倒すアドリブが随所にちりばめられていたことだ。台詞上の必然性があるならまだしも、アドリブという、役者の「素」が出るところで繰り広げているのが信じがたかった。例えば、上西が演じる主人公が、ラーメン屋の男性店主を演じる女優とのやりとり。上西が店主役の顔を見つめ、「お前本当はババアだろ?」と言うのだ。しかも一度や二度ではないだけではない、幾度も、執拗に。本作が上演されている現在、演劇界では俳優やスタッフに対するパワハラやセクハラが社会問題化している。ほんの1週間ほど前には、劇作家・谷賢一が自身の劇団の女優に性行為を強要し、精神的に追い詰めるような言葉をくり返し浴びせるなどしたことが各種メディアでも取り上げられ、訴訟に発展している。そのことを、上西は知っているのか?「ひとくず」は地下1階の劇場で行われていたが、この地下劇場はそうした風聞が届かないほど実社会と隔絶しているのか?

 鑑賞後に知ったのだが、この上西雄大という男、元劇団員から過去のパワハラを告発されている。その告発の内容が5月31日号の「週刊女性」(5月17日発売)で報じられている。詳細はリンクを張っておくのでここでの言及は避ける。

 ただ、ひとつ気になったのは、上西が主宰する劇団のホームページに掲載された「週刊女性」の報道に対する弁明の文章(5月19日付、上西雄大名で発表)に、被害を受けたとされる告発者に対する謝罪が一切ないことだ。その代わり、「このような記事が出たこと自体、私の不徳の致すところと考えています」と、自身のやった行為ではなく、週刊誌に報じられたことを自らの落ち度としている。文面からは少なくとも上西が被害者(と思われる告発者)に寄り添う姿勢は全く感じられない。


 以上を踏まえもう一度、「ひとくず」で上西がいみじくも披露した数々のアドリブを振り返る。告発の真偽は定かではないが、メディアが報じた以上はそれ相応の告発があったと考える。ファンや関係者への取材はあっても、被害者への謝罪がない弁明文から察するによほど不都合なことがあったのだろうと想像する。少なくとも、彼は劇団員を容姿や年齢で罵倒することをカジュアルにとらえ、舞台公演という公然の場で行っている人物なのだろうなと受け取った。

 先述したように、「ひとくず」には僕が幼いころテレビで活躍していた俳優さんが何人か出ていた。あの頃ほど華やかではないにせよ、年月を重ね角の取れた円熟の演技を武器に活躍する姿を見られてうれしかった半面、気の毒にも感じてしまった。これは一ファンの余計なお世話かもしれないが。自分が大事にしていたものがぞんざいに扱われているような気がして、見ているのがつらかった。舞台の終盤、客席の各所から鼻をすする音がしきりに響き渡った。ハンカチで涙をぬぐうような影も視線の端に見えた。自分はというと、眉間にしわを寄せながら舞台を凝視し、涙は一滴も流さなかった。この舞台で涙を流さないなんて、ひょっとして俺こそが「ひとくず」(人間のクズ)なのでは?

 カーテンコールで上西が「千秋楽だから(役者)一人ずつ一言挨拶しよう」と言い出した時、約4時間半の上演時間中出番が20分ほどだった客演俳優の一人が目を丸くしながら声は出さずに「はぁ?」と口を大きく開けてあきれ返った表情を浮かべた。それだけが救いだった。おれはあの俳優さんの表情を忘れない。その表情を見た時初めて、涙が出そうになった。おれも、あなたの味方です。神様、どうかどうか、あの人を一分でも早くこの暗闇から開放してやってくださいと、心の底から願った。
(了)

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