極める人極めない人の魂の学びは違うという事
私は好奇心の赴くままに飛び回り、興味のあるものに食いついては飽き、
また別の所に行ってしまう人間、それで良いのだ、と言う事を、ある時やっと認める事が出来ました。
人の学び方はそれぞれ違う、
良いとか悪いとかそういうものではないのだという事を。
自分世代は、仕事を転々とする人間は、我慢も根性もなく飽きっぽい人間とレッテルを張られる風潮がありました。
母や姉にはそう思われ、自分でもダメ人間のラベルを張っていました。
田舎は面倒くさいと感じてたので、早く親の庇護から離れ上京して良かったと思います。
初めて就職した先では、真面目に頑張っていましたが、表向きはそうでも心は裏腹、次第に会社員が嫌でたまりませんでした。
そんな鬱積した感覚を持っていたので、周りがあっ!というような事をやらかしたこともありました。
人と距離感が近いとストレスになり易く、神経過敏で他人と暮らす寮生活が息苦しく20で一人暮らしをし、
拘束される会社も辞めたくて、石の上にも3年の言葉通り3年経ち辞めました。
そしてそれから仕事を転々としました。
バイトや派遣をしてると、社員にならないかと声をかけられる事もよくありましたが、その度首を横に降りました。
家庭を持ち子供を授かり子供の感性に触れると、魂が蘇るようでした。
子供の存在とは自分にとって有難いものです。
きっと、”子供からいろんな事が学べる〜” と魂が喜んでいたのだと思います。
人は守るものが存在すると強くなり、10年同じ仕事場を辞めずにいたのは、この時が初めてでした。
仕事の合間に芸術的な習い事も、色々やりましたが、それらを極める事はありませんでした。
何かを目指したい気持ちはあるのに、それがなんなのかよく分からないまま、ガムシャラに生きていました。
家庭、仕事、趣味のフル活動で、忙しい心は充実してるようでした。
まだまだこれではダメ、と思い、好きな事で収入が得れる需要ある事をしたいと、
民間資格のスクールに通い、その内容の仕事とwワークで働いてました。
収入はもっと必要だし、寝ずに勉強もしなければならない、
限界を超えるには健康でいなければならない、と健康食品のネットワークにも手を出しましたが、ビジネスは出来ません。
健康食品を食べ健康だったので、会社では、「○○さんが一番会社で元気だよね」と言われました。
身体は食べ物でできてる!、それを学びました。
周りには生き生きしてるように見え「活動家!」と言われたり、スクールに通う事で、「子供より自分なんだ」と嫌味を言われたりもしました。
資格をとってから、サロンを開く為、更に収入を得なければなりません。
wワーク四つを抱える事もあり、人間関係もそれは毎日新鮮で学ぶものがありました。
スクールは民間資格でしたが、アロマの後、中医学に興味を持ち経絡の勉強をし始めました。
お金をかけるなら、最初から国家資格を取れば良かった、と思うこともありました。
学生の時、看護婦になる事を母に勧められ、あの頃やってれば?と思うこともありましたが、当時は全く興味がありませんでした。
私は会社に拘束されるのが嫌いなのだから、無理だったでしょうし、
資格を取るにも自分で働かなければなりませんし、奨学制度を使う気もありません、まず勉強が無理💧
そのような生まれではなかったのだから、目指すものが違う、と思ったものです。
国家資格!
国家資格を取る人は、相当勉強もしなければならないだろうから、偉いんだな〜、と当時は思っていました。
何か権威あるように思いましたが、私の中でしっくりこない何か不自由さを感じてました。
人それぞれ学びが違うので、これは私の中での魂の学びの疼きです。
拘束を最も恐れていた自分、前世で何かあったのかなと感じてました。
学んだ民間資格は薬事法や医師法の規制があり、制限される事がいろいろ、自分が学んだ内容はグレーゾーンと言われる世界、
イギリスではアロマなどの自然療法は国で認められ地位がある、
アメリカでは医者が薬以外にサプリメントを患者に進めたり、見えない世界レイキも医療として扱われたり、
中国では鍼灸師は医者と見なされ、東洋医学も西洋医学も同じ地位で病院に設置されてる、
日本は自然療法や東洋医学は、西洋医学より下、みたいな感じで、歴史的に東洋医学は退けられ、西洋医学が発展してたと、
なんとなくきな臭く、この国の違いは一体なんなの?と、憤りを感じていました。
私の中では日本の在り方に納得がいきませんでした。
経絡のスクールの学院長が、
「貴方達が学ぶものは国家資格よりも下です、この国はそういう国ですから、国家資格の人を超える事はできないので心得るように」
と言われた時、それはそうだけど、下って何?
人間世界の上下をつくるやり方に、つねに怪訝に感じてた自分、
あの人はお偉いとか、下とか、その言葉から、怒りが混じったコンプレックスをえぐられたようでした。
私は極められない人間なのだという事を。
ある時、鍼灸師と働くことになり、技術を極めてるのを見て、羨ましくて仕方ありませんでした。
当時40代、国家資格を取ろうか迷いました。
お金もかかる、時間と労力、今更私の頭では無理。
そんな事考えてるうち、自分のコンプレックスが益々膨らんでいきました。
その頃、よく前世を見ても貰う機会があり、私がそのような勉強をしてるなど言ってはいないのに、
興味ある事を二つ言われました。
ひとつは、
「何か銀色のぶつぶつしたものが宇宙から降り注ぎ、貴方はそれらにエネルギーを吸い取られ、利用され、かなり疲労してます」
私「それは前世と関わる事ですか?」
「中国で、子弟関係のあった貴方の師匠に契約を書かされ、それを今でも守らなければ、と貴方はそこに縛られてます。
それら過去の事はもう終わった事です。
その契約書を燃やして処分するイメージをしてください」と。
また、それから数カ月後、
私は、人を健康に導いたりカウンセラー的な仕事を続けたいけど、何をやっても自信がないと言うと、
「自信がないのは単なる思い癖です。
自信あるない関わらず、貴方のやってる事、それは向いてますよ。
貴方は、過去世で中国では一生に1度しかない医者の資格にのぞみました。
一生懸命勉強したのですが資格に落ち、一生に1度の資格ですから相当悔しかったのです。
それから自分はダメだ、というコンプレックが今だに強烈に張り付いてるのです。
思い癖は外しましょう。
江戸時代でも自然療法の仕事をしていました。○○○さんと言う女性のガイドがそばにいます、困った事があったらその人に相談してみましょう」
この二つの話はとても自分が感じてるものに対し信憑性があると思いました。
それらの感情体験によるものは、自分の今の人生に影響をかなり与えてるのだと感じました。
それからだいぶって言われた事、
「貴方の今世は、極める人ではないよ、
飽きたら手放し好奇心の赴くままに動かないと、むしろ魂の学びは得られない」
と言われた時は目から鱗でした👀
そう、私が何をしようと、コンプレックスを持つほど、魂の学びにとっては、そんなに大層な事ではないと感じ、
私が体験した事に何を感じて生きてきたか、の方が重要な気がしてきました。
以前、自分を調べた時、
「貴方は、少しずつかじったら必要な事を吸収し、すぐ手放します。
貴方の動機は完成させる事ではなく、探求する事、他者の価値観で自分を計って罪悪感を持たないように」
こうでなければいけない!という勝手に観念を自分でくっつけ、それらにがんじがらめになっていました。
子供の頃、”なんでも完璧にやらなければ” と、自分に課し、それらが出来ないと、ダメ人間!と、毎日責める日記を書いていていました。
いろんな事が繋がっていき、だんだん自分の観念というものを外していきました。
もし誰かにレッテルを貼られたとしても、自分は自分を一番に愛し、認めてあげなければならないのに、長く苦しんでいた事さえも必要だったと思います。
それからの私は、人と比べ、極める事に拘らなくなりました。
そして、スピリチュアルな学びに移行していきました。
私は自由に生きる為に、放任主義の親を選び、末っ子に生まれ、自分の家族も、
本当はなんのしがらみもない事にも気付きました。
勝手にしがらみがあるように決めつけていたのは自分なのです。
お金持ちでないから、教育も強要も身につけられなかったとか、いろんな理由をくっつけたり、もしていました。
全ては自分の計画通りだったのです✨✨