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カウンセラーとして考えていること~病気って何ですか~

『病気って何ですかってきかれたら、

なんて答えますか』


先日、ふいにそんなことを言われました。


「疾患とか障害とか病とか、

そのへんの概念の違いって難しいですね。

誰かにきかれたんですか」


『いえ、ちょっと考えることがあったので』


◆◇◆◇◆◇◆



難しいと言ってその場をやり過ごしてしまいました。

言葉の定義や漢字の意味するところというよりは、

本質的に人にとって病気とは何なのかという深い深い問いだったのでしょう。


前置きも無く難題を一言できいてこられたのはデジャヴのようで、

『なんで死んだらいけないんですか』

10年以上経っても未だにうまく答えられないようなあの質問をされたのと似た後味がしました。

病気とは何かという問いもきっと今後10年以上ふとした時に考えさせられることになるでしょう。まるで呪いのようでもあります。


哲学は底がない。正しさを探求し明らかにするのが科学的であるとすれば、明らかにならずとも正しさを疑い続けることが哲学的であると言えそうです。

なぜ死んだらいけないのか。病気とはなんなのか。これらのような問いはまさに哲学的で、生きていればどこかで直面することなのかもしれません。病める人を相手に臨床をやっていればなおさら、それらの言葉を横に流せない場面があります。


こんなとき考えるのは、
本当にその人は答えが欲しくてそう言ったのかということです。

“周りのひとが悲しむから死んではいけないのです“
“命を無駄にしてはいけないからです“
“病気とは、病と気という漢字の組み合わせです”
“こころの風邪みたいなものですよ。必ず治ります“

即座にこのような言葉を返すことが、果たしてどんな意味を持つのかということです。

自分がずっと悩んできた問いに対してこの人はさして悩みもせずに終わらせてきやがった…と感じる人もいるでしょう。
それは時として、共感してもらえなかったという落胆に繋がることがあります。

命を無駄にしてはいけないというのは一つの道徳的価値観ですが、共感も経ずにそれを押しつけることは、さらに孤独感を強化してしまう危険があります。あなたの考えは間違っていると暗に否定しているようなものです。

だからこそ自殺念慮に対してまず先に否定せずに聴くことが、マニュアルでは望ましい対応として推奨されています。

言うは易しで行うは難しです。では一体、どんな態度で、どんな言葉をかければよいのかということです。生死や病というテーマに直面しないカウンセラーはいないでしょうから、考えておいたほうが良いのかもしれません。


結局のところ、このときカウンセラーに試されるのは「責任」だと思います。

では責任とは何かという話になっていって堂々巡りですが、

責任(responsibity)とはひとまず、“応える(response)力(ability)”だと言えるでしょう。


同じ「難しいですね」と伝えるのでも、そこに「わかりませんから、さっさと次いきましょう」という態度を含ませるか、「わかりませんから、私も考えてみます」というのでは違うのだと思われます。

場合によっては求められるのは“答えを教える”ことだったりしますが、カウンセリングで扱われるような多くの問題はやはり答えはクライエントの中にしか無いものであり、それがすぐには掴めないからこそ意味を求めているのだと感じられます。


私は病気とは、おそらく症状そのものや生活上の困難、生きづらさ、身体的精神的な痛みなど、多くを内包するものなのだろうと思っています。といってもあまり深く考えたことはありませんで、今回その方に問われて改めて考えたのでした。

いわゆる疾病利得で、「私は病気だから、こんなことがしたくても出来ないんです」という言い方をする人もいます。あるいは「私は病気と付き合いながら生きていく」「病気を治したいです」「病気を乗り越えて気づいたことがありました」などの言い方もあります。

言葉の定義よりもきっと臨床で重要になるのは、その人がどんな思いを込めて“病気”という言葉を用いているのかをまずは考えることなのではないでしょうか。

応える力を鍛えるには、そこからスタートしなければならないのかもしれません。


病気ってなんですかね。

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