持続可能な学校
ここ数年の報道でも見られるように,現代社会における日本の公立学校はもはや持続可能な状況ではなくなっている。
いくら現場から訴えても,いくら報じられても,決して改善されることのない教員の労働環境。文科省が指揮を執っていたはずの部活動の地域移行はいつの間にか有耶無耶にされ,未だにはびこる「若い職員に大変な仕事を押し付ける」文化や,モンスターを通り越してもはや会話の通じない異世界の住人と呼びたくなるような保護者への対応,それらから教員を守ってくれない管理職や教育委員会に嫌気がさして休職・退職していく教員たち。改善策と言いながらこれらに対する具体的な方策は一切発表されず,学生たちが教員を目指さなくなっている。正直言って,史上最悪の悪循環に陥っているのが今の日本の学校だ。だからこそ我々現職の教員がすることは,各々が強い気持ちで理不尽にNOを突きつけ,やらなくて良いことは徹底してやらないことだと思っている。
まずは部活動の顧問を引き受けなくても良い,そしてそれが普通だと認識させること。私のnoteや他のSNSで過去にも発信しているが,そもそも部活動を学校に設置しなければいけない根拠も,部活動の顧問を教員がやらなくてはならない根拠も,学校教育に関する法令のどこにも書かれていない。自分たちが生徒だった頃の記憶から,中学校以降は部活動があって当たり前,そしてその学校の教員が顧問を持つのが当たり前という認識がある人,あった人がいると思うが,まったくそんなことはないのである。未だにYahoo!ニュースやSNSのコメント欄には,部活動への苦悩や反対意見に対して「わかっててこの仕事選んだんでしょ?嫌なら辞めれば?」という旨の言葉を吐き捨てる人がいて辟易とするのだが,Yahoo!をはじめとしてこれだけ報道・発信されているのだから,少しは感情を抑えて根拠を理解してくれといつも思う。
私の例で言うと,今年度赴任した職場の初顔合わせの日に,初対面の教頭に「部活動の顧問は任意のはずなので持つつもりはありません」と明言した。その後,外部での活動や大会への参加が無い部の顧問を強く依頼され,時間外の活動については教頭が監督するとも言われたので引き受けたが,当然この夏休みは一切活動無し,そして,1学期中に実施された管理職面談で再度「全員に依頼していると言われましたが,校長・教頭・養護教諭のお三方は顧問をされていませんよね?全員にと仰るのであればお三方もやってください。それが無理と言うのなら,顧問を受け持つかどうかは完全選択制,あるいは管理職からの委嘱ではなく,生徒自身に依頼させ,断られたら休部・クラブチームへ参加という方法に変えるか,部活指導員を雇うタイミングに来ているのではないでしょうか」と提言した。
私自身が具体例となり,それに追随する人がまずは同僚の中から一人でも多く現れてくれればという思いで,戦い続けようと考えている。
次に,学校外のことも何でもかんでも抱え込まないよう,業務と呼ぶべきでない事柄を削減し,どんどん外部団体に頼ること。いつも思うのは,会社員がプライベートで罪を犯した際,会社側が解雇などの処分をすることはあるが,身柄の引き取りや,被害者への謝罪の場を設けたりすることは無いのに,学校に代わるだけでそれを全部やらなければならないという風潮はおかしいということだ。我々には警察権限も,司法権限も,親権もないのに,本来警察・弁護士・保護者がやることをなぜか教員ならやって当然と思っている人がいるのだ。もちろん学校として指導が必要な場面は存在するが,順番としてはまず被害者が警察や保護者に連絡➡発生した事実について学校が一報を受ける➡生徒に対して指導を行ったうえで学校生活を継続させるか,あるいはそのまま出校停止・退学まで話を進めるか,であるはずだ。しかし現実には,教員が事情聴取を行い,それに基づいて保護者に連絡し,校内で指導するか否かまで全てを担っている。他校の職員から聞いた嘘のような本当の話だが,ひどい場合には,街中で問題を起こした生徒を,保護者と連絡が取れないから職員が引き取りに来てくれと言われたことや,警察の言うことを聞かないから職員が学校に連れ戻してくれと言われたことも過去にはあったそうだ…
企業勤めの方や,学校以外にお勤めの公務員の方には想像を絶する話だと思うし,同じことをやれと言われても「は?」となることだろう。しかし,その「は?」となることを,どこにも教員の業務として記載されていないにも関わらず,いまだに一部の人々にはやって当然と思われているのが教員なのだ。
当然のことながら,教員にも勤務時間が存在する。文部科学省からの通達により,2009年4月1日からは,それまでの8時間勤務から7時間45分勤務に変更,休憩時間は45分と定められている。しかし実際には,報道でも明らかなように(特に小中学校で),児童生徒の登校に合わせて勤務時間前から立ち番指導をしたり,昇降口の開錠をしたりが常態化。給食の時間もゆっくり教員が食べる余裕などなく,食育という名目で実質休憩などできない。近年では給食の時間と職員の休憩時間を別に設定している学校も増えたようだが,結局諸悪の根源である部活動のせいでその休憩時間も退勤時間も崩壊させられている学校は無くなっていない。
「別に職員がやるべきことだなんてルールで決まってないけど,みんなやってるしやるのが当たり前の空気だからあなたもやってね。あ,平日の勤務時間終了後の活動については手当ゼロだし,活動の際の自分のための用具は当然自腹ね。あと要望があったら土日祝日関係なく活動してね。平日に大会がある場合は当然優先して引率してもらうし,その日の業務ができない分は自分で何とかしてね。」
自分が勤めている会社でいきなり上司にこんなことを言われ,有無を言わさずやらされる経験のない何かが当たり前に降ってくる,という状況を想像してほしい。絶対やりたくないだろうし,激怒する方もいることだろう。でも,教員が部活の顧問を持たされるということはこういうことなのだ。
岐阜県の調査では,学生が教員を目指さなかった・あきらめた理由について,「休日出勤や長時間労働のイメージがある」が79%,次いで「職務に対して待遇が十分でない」が64%となっている。もちろんこれは学校でやる必要のないことを誤って「業務」として扱ってしまい,「生徒のために」という呪いの言葉のもとで,現場に丸投げされているとわかりながら,圧力に抗いきれず引き受けてしまっているからだ。全国版ニュースでも引用されており,多くの有識者も絶えず警鐘を鳴らすレベルまで到達している以上,国によるそれらの業務の学校からの切り離し要請という大々的な改善策が待たれるのに,未だ打ち出されないままなのである。
https://www.zf-web.com/news/2023/08/27/181400.html
そしてこれらと併せて,現場にいる職員の呪縛・思い込みを解くことが非常に大切だと考えている。前述したように,教員の中にも「生徒のために」という誤った正義感のもと,自ら時間外労働を率先して行ってしまう人がいる。部活動大好きだったり,学校外だろうと生徒に関わる出来事には積極的に首を突っ込んだりして,何時から何時まで学校にいるつもりなのかと思ってしまう人々がその例だ。もちろん,校内にいる生徒を危険から守るであるとか,授業の内容を絶えず精査するであるとか,本来の意味での「生徒のために」の信念のもとで公務に従事するのは素晴らしいことであるし,私もそうありたいと考えている。しかし,教員である前に我々も一人の人間なのである。落ち着いて食事をする時間や,次の日を健康に迎えるために十分な睡眠時間を確保できなければ,当然行動の質は落ちていく。理不尽な要求をされ続けたり,暴言を浴びせられ続けたりすれば,当然心は病んでいく。そして私のように,精神疾患を発症して休職したり,そんな自分を責めて退職したり,守ってくれる気配すらなかった学校現場や教育委員会に絶望して休職したりという事例が発生しているのだ。
また悲しいことに,精神疾患にかかりやすい人の傾向として,真面目で周囲に厚く優しさや気を配れるというものがある。自分の言動で相手を傷つけたくないと思うあまり,たとえ自分が傷つく結果になろうと,自分が我慢すればそれで丸く収められる,それでチームが上手く回るならその方がいい,と思ってしまうのだ。こんな人をこれ以上増やさないためにも,これまで述べてきたような事柄を学校から切り離し,すべての職員がまずは授業と目の前の生徒に全力を注げて,勤務時間を守れる環境を,我々自身がつくり上げなければならない。
「会社と学校は違う」は幻想であり,言葉を選ばず言わせてもらえば,学校や教員の現状に理解の無い一部の第三者のわがままが生み出した表現である。この表現の根底には,「会社勤めの我々が勤務時間に間に合うためには,子どもを登校時間ギリギリまで見ていられないんだから,学校が早く開いてその対応をするのは当たり前のことだ」という思いが透けて見えるからだ。もちろん,利益を追求するかどうかという明確な役割の違いはある。だが,学校は「小さな社会」と呼ばれ,集団生活における自分の在り方を養う場所の一つである。そして,誰もが平等に普通教育を受けることができる場所である。昨今では動画配信が世界的に普及し,優秀な予備校講師の授業動画を配信しさえすれば学校など必要ないという意見さえある。しかしそれは,自ら学ぶことのできる一部の人々だからこそ至る考え方であり,そういったものを享受できる環境にすらない子ども達にどうやって教育を届ければいいというのか。他国と比較して批判の対象となることが多い日本の学校教育だが,その比較対象となっている他国でも学校教育が無くなっていない現実を見れば,動画配信だけでは不十分だということは明確であろう。そういう意味でも,学校を持続可能なものとするために,変化を待たず主体的に変化しなければならないと思う。
この投稿が,苦境にあえぐ学校現場の皆さんの一つの道しるべとなるのならば幸いである。
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