幼児期のトラウマ と フラッシュバック
「なんでそんな昔のことを覚えているの?」
私が4歳の頃に父親から受けた猥褻について、弟が聞いた。
「フラッシュバックと言って、トラウマ体験を思い起こすようなきっかけ(トリガー)が日常の中であったりすると突然、トラウマの記憶や感覚が蘇るからだよ。命に関わるような危険を予防するため、脳が過剰に反応する防衛本能だから、忘れたくても意識ではどうにもならないんだ。」
(私は深夜、寝る前にフラッシュバックする。初めての性犯罪から30年以上経った今も。寝ている間に父親から性加害を受けていたからだろう。)
すると、弟が言った。
「そっか……それなら僕もある。何歳の頃か覚えていないけど、お母さんに怒られて追いかけられていて、部屋に逃げ込んだんだけど、服を掴まれて、そのシャツが薄かったのかもしれないけど、シャツが半分くらいに裂けたんだ。で、お母さんはそれを見て、無言で立ち去ったんだ。暴行を受けた気持ちだった。僕が悪いことをしたのかもしれないけど……。」
酷い。
初めて聞く話だったけど、あの母親ならやりかねないという意味では全く驚かなかった。
保護者である「親から暴行を加えられた」感覚を、生存のために親に頼らなくてはならない立場の幼い子どもが受け入れるのは、至難の業。
だから「シャツが薄かったのかも」「僕が悪いことをしたのかも」と親の弁護を記憶の中に挟む訳だ。
これらが仮に事実だったとしても、「親が子どもの体を守る服を破って、放置する」に値する罪などあるだろうか。
私自身も父親からされたあらゆる性加害に対して、「父親にとって最強の弁護士」として無自覚ながら生きてきて、そのために自分を責め続けた。
親の犯罪を弁護しながら自責した結果、どうなったか?
私は自分自身と身近な人を傷つけて、傷つけて、傷つけ続けた。
しかも故意にではなく、自分や相手が深く傷ついていたことに後から発覚し、反省しても、同じようなことを繰り返す。
「自分」という感覚が全くしっくりこなくて、誰か別の人間の人生を歩んでいる感覚だからか、「自分」の言動であるはずなのに、自分のこととして責任を持てないでいた。
ただただ自分のことが嫌いで、社会的な成功を納めても虚さが深まる一方で、自分が恵まれていることに対しても「自分の犠牲の上で成り立っている幸福」を素直に喜べずにいた。
つづく
自伝
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