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硫黄島の戦い

日本人にとって、戦争の記憶とはなんだろうか。
多くの方は、太平洋戦争における『原爆投下』を思い浮かべるのではないだろうか。
多くの国民が命を落とした悲惨なできごととして、心に刻まれていることだろう。
しかしながら、当然、兵士たちも壮絶な戦いを強いられていた。
今回は、映画『硫黄島からの手紙』にも描かれた『硫黄島の戦い』を取り上げる。
詳細は『硫黄島の兵隊』(著・越村敏雄 編・吉川清美)に沿って、その過酷さを語っていく。

世界戦史上まれにみる激闘

『硫黄島の戦い』は、太平洋戦争末期、1945年2月19日から約1か月間展開され、世界戦史上まれにみる激闘であった。 
その犠牲に関して以下のように語られている。

島を守った2万1000人の日本陸海軍のうち、戦死者2万人、戦傷者1000人、すなわち生還者はわずか1000人に過ぎなかった。
(中略)
米軍は戦死者6800人、戦傷者2万1800人、計死傷者2万8000余人という、記録的な犠牲を払わされたのだった。
※米軍の参加将兵は11万人を超える。
(中略)
後に米軍上陸部隊の指揮官であるホランド・M・スミス中将が「海兵隊が168年間に経験した中でもっとも苛烈な戦いであった」(『米国海兵隊と太平洋進撃戦』)と語っている。
それほど壮絶なものだったのだ。 (『硫黄島の兵隊』p13)

当時の戦況について、簡単に説明しよう。
硫黄島の最高指揮官・栗林忠道中将が守備のために来島したのは、1944年6月8日。
アメリカ軍が、当時日本の絶対国防圏であったマリアナ諸島のサイパンを占領する前のことだった。
(『硫黄島からの手紙』では、栗林中将が大きな存在感をしめす)

栗林中将


アメリカ軍にとって、この島を奪いたい大きな理由があった。
それは、日本本土に近い航空基地である硫黄島を奪うことで、日本への確実な爆撃を可能にするためだ。
すでにB29爆撃機による日本本土ほぼ全域への空襲が可能となっていた。しかし、B29を護衛できるほど長く飛びつづけられる飛行機はなかった。
そのため、護衛戦闘機の基地、およびB29の不時着場所として地理的にもベストな硫黄島があげられた。
したがって、日本にとってもアメリカにとっても重要な攻防戦になったのだ。

指揮を執った栗林の守備作戦は、地下要塞を利用した徹底的な持久戦とゲリラ戦に持ちこむものだった。
アメリカ留学の経験もあり『知米派』の栗林はアメリカの戦い方をよく知っていた。
そのため、火力と物量にまさるアメリカ軍への対抗手段として、島内すべての施設を地下深くに構築し、これらをトンネルでつなぐ地下要塞化を進め、徹底した持久戦とゲリラ戦に持ちこむことを望んだのだ。

壕の中

旧日本軍の病院壕の内部。このように、全長18km、出入り口1000か所の壕を建設した。後に米軍は壕の巧妙複雑さに驚いたと語っている。


硫黄島の過酷さ

さて、この戦いを語るうえで、硫黄島という環境の過酷さを語らなければならない。
硫黄島は、東京都小笠原村の南端近くにある、面積約23.7km^2の火山島。
名前の通り、硫黄ガスがふきだす場所があり、火山活動も活発なため水蒸気の噴気孔もみられる島なのだ。

硫黄島空撮


そして、この特徴こそ地下要塞構築の大きなネックとなった。
地熱がこもり、壕内の温度は60~70度にも達するため、穴掘り作業が困難をきわめたのだ。

穴掘り作業はまさしく噴火口の中で穴を掘るようなものだった。熱気をおびた亜硫酸ガスが、十字桑で掘り起こしたくぼみから、猛烈に噴き出した。酸素欠乏とガス中毒だろうが、ひどい息切れがした。五、六分もすると息の根が止まるかと思われた。(p37)

さらに、この島には”水”の問題があった。
硫黄島はきわめて雨の少ない島であり、4,5月にくる雨季以外は雨はめったに降らない。
元々、島には1000人程度しか住んでいなかったのだが、その理由の1つも雨だった。
飲み水用の雨水溜めの数に限りがあったのだ。

熱気と亜硫酸ガス攻めの土方作業は、交代制で低能率ながら進めることができたものの、どうにもならぬ死活の問題は水だった。島には、小川も水たまりもなく、島民の残していった小さい天水溜めが、民家の裏庭に泥をかぶった落葉に覆われていた。 (P38)

そんな彼らにあたえられた炊飯用、飲料用の水は、地下から湧き出る塩辛い硫黄泉だった。
この硫黄泉が、兵士の体を徐々にむしばんでいったのだ。

硫黄と塩が体に蓄積されてくると、猛烈な下痢が蔓延した。痩せこけた体は恐ろしい早さで衰弱した。重労働と不眠が容赦なく拍車をかけ、この島独特の栄養失調になる。抵抗力のなくなった者から順に死んでいった。(P76)

水だけでなく、昼夜関係なくやってくる米軍機の空襲も彼らを苦しめた。

警報と敵襲との間に、余裕らしいものは何もなかった。
(中略)
米軍は施設の破壊を狙う絨毯爆撃のほかに兵員の殺傷と、夜間眠らせまいとする神経作戦に、よくこの手口を使うようになってきたのだ。 (P65)

このように、兵士たちが肉体的にも、精神的にも追いこまれる日々が続いたのだ。
生と死の綱渡りのような日々の中での筆者と友人とのやり取りは、胸につまるものがあった。

「戦地に来てしまえば、爆弾や鉄砲弾で死ぬことは、誰だって覚悟はしているさ。なあ、そうだろうが」
といって、一息入れたあと、
「あとどれだけ、俺たちは生きておれるというのだ。だというのに、そのわずかばかりを生きていくのにさえ、毒物のために、こんなに痩せさらばえて、生き地獄の苦しみをなめねばならんのだ。いったい、何の因果だと、わしは思うのだ。いっそ、ひと思いに死んでいける、他の戦場の兵隊が羨ましいよ」
(中略)
「お前のいう通りだ。誰も口に出さないだけのことだ。心のうちは、みな同じだ。だがなあ、松田、もう、それはどうにもならんのだ。この島に来た者の運命なんだ」
同じ気持ちの私が、こういうと、
「運命なあ……本当に、どうにもならん運命だなあ……」
彼は、また、これだけを低い声で、独り言のようにいった。(P106,7,8)

戦場での”死”は覚悟している。
ただ、そこにたどりつくまでにも”死”の苦しみがある。
硫黄島という戦場は、そう”楽に”は戦死をさせてくれないのだ。
むなしく繰りかえされる『運命』という言葉は、彼ら自身、自分に言い聞かせていたのだろうか。
しかし、『運命』という言葉にすべてを押し込むにしては、あまりに重すぎる現実だと思った。

そしていよいよ、アメリカ軍との決戦を迎えることになる。


硫黄島の戦い

アメリカ軍上陸の前、空と海からの爆撃がなされた。
これにより、日本陸・海軍の砲台はほとんど全滅したが、日本兵は地下要塞へと退避していたため人員の損害は少なかった。
しかしながら、その凄まじさは島もろとも爆発するのではないかというほどの激しさだったという。
そして、3日間におよぶ爆撃の後、アメリカ軍はついに上陸したのだ。

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日本軍の攻撃は、上陸したアメリカ軍に衝撃をあたえた。
全長18km、1000か所の出入り口をもつ地下要塞をたくみに生かした攻撃が、どこからともなくやってくるのだ。

米軍が一定の地点まで到達すると、いきなりどこからともなく、間歇(かんけつ)的に日本軍の迫撃砲弾が落下し、側方から機関銃や小銃の正確な狙撃が始まるのだった。米軍砲火がその火点に集中し始める頃は、日本軍は地下深く姿を消し、こんどは全く別の火点から米軍を狙い射った。地雷が爆発するかと思うと、弾痕だらけの地底からいきなり日本兵が飛び出して米軍戦車に爆雷を抱いて飛び込んだ。 (P241)

地下要塞での戦闘の激しさは、日本軍の視点からも語られている。

砲員は訓練通り、魂の入った人形のように、その動作は整然として、正確な操法だった。
(中略)
もう夢中だ。砲身が焼け、尾栓が焼け付いて、発射不能になるまで、一気に撃ちまくるのだ。一度でも射撃すると、こちらの砲台を相手方に露呈することになるので、必ず反撃され、壊滅させられてしまうのだ。 (P245)

硫黄島での戦いは、1945年2月19日から約1か月間続いた。
(日本兵にとっては、ずっと前の硫黄島到着時から始まっていたといえる)
そして、3月26日。
栗林中将自ら総攻撃を行い、硫黄島は陥落に至った。

アメリカ軍の手に硫黄島が渡ってからは、いわば『不沈空母』と化し、日本中の都市が空襲により破壊されていった。
広島、長崎への原爆投下も、硫黄島を奪って初めて可能になった。


『硫黄島の戦い』から思ったこと

『硫黄島からの手紙』は、日本軍兵士・西郷昇(二宮和也)の目を通して、栗林忠道中将(渡辺謙)の戦い・生きざまを描いた映画である。

この映画の中に、印象的なセリフがいくつかあった。

(飲み物を運んできた西郷と栗林中将が会話するシーン)
栗林「不思議なもんだな。家族のために死ぬまでここで戦い抜くと誓ったのに、家族がいるから死ぬことをためらう自分がいる。」

西郷と栗林中将は、共に妻子があった。
ただ、日本に生きて帰ることを望む西郷と、一方、最高指揮官の栗林。
2人には埋めようのない立場・覚悟の差があるはずだった。
しかし、最高指揮官である栗林の心は、西郷と通じるものがあった。
彼は『国を想う心』と『家族を想う心』の板ばさみの中で揺れうごいていたのだ。
それは、『頭ではわかっているが心が追いつかない』という、とても人間臭いものだった。
(映画の中では、このやりとりが西郷と栗林の心をグッと近づけることとなる。)

今なら『国』と『家族』、どちらを想うのも正義だと言えるだろう。
しかし、当時の日本は『個人的な良心』が入りこむ隙間はなかった。
あるのは、『お国のため』という呪いのような思想だけだった。
誰もが正義をもつのに、誰が本当の正しさを決めることができるのだろうか。
少なくとも、この世界にそんなことができる人はいない。

自分の正しいと思う道が、自分の正義なんだ。

これは西竹一中尉のセリフだ。
西は1932年開催ロサンゼルス・オリンピックの馬術競技で金メダルに輝き、硫黄島の守備に送られた軍人だった。
(当時、馬術は最も人気の高い花形種目で、欧米でも『バロン西』の名で称えられていた。)
アメリカに多くの友人がいた西は、正義の反対は悪ではなく、別の正義だという信念を胸に秘めていたのかもしれない。

今の日本は、誰もが正義を語れる時代だ。
ただ、1つ大切なことがある。
戦争は、正義の名の下であっても許されないということだ。
お互いの正義がぶつかり合うとき、そこにあるのはただ真っ黒な感情だけ。
そして後に残るのは、やり場のない怒りや、虚しさだけなのだ。

「戦争をくりかえしてはいけない」
それは日本人なら多くの人が賛同するだろうし、それを固持してきた日本を誇りに思っている。
ただ最近思うのは、戦争とコロナ禍は、似ている。



【参考文献】

【サムネ画像】


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