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「蒸留酒と私、過去のADHD日記」【戸田真琴 2024年7月号連載】『肯定のフィロソフィー』

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※本連載はTV Bros.6月号岡村和義特集号掲載時のものです


 AVを引退してから飲酒をするようになった。なにも、持て余した承認欲求をごまかすためだとか、先の見えない将来への不安を煙に巻くためではない。単に「飲める酒」がわかったのだ。20になるまでルールをきちんと守り飲酒経験をしなかった私は、大学に入り飲み会へ参加した。そこに待っていたのは(みんな、いつ覚えたのかわからないが)「とりあえず生」の世界で、見様見真似でジョッキのビールを手にした私はみんなと同じタイミングでCMのようにグイッと飲んだ。いや、不味っ! 苦い。なにこれ、みんなこんなよくわからない味のものをグビグビうまそうに飲んでいたのか? ジンジャエールにすればよかった。っていうかジンジャエールみたいな味を想像していた。と戸惑っているうちに、私の頭はガンガンと頭痛を鳴らし始めた。よくわからないからトイレに立つと、脚がおぼつかなく、気づいたら、壁だと思って寄りかかっていた面が床になっていた。男性の先輩が、オクルヨ、と肩を抱こうとするのを、同級の女性がガードして一緒に帰ってくれた。それ以来私は酒を飲もうと思うのを諦めた。両親ともに下戸だったのだ。レイプされたくないなら飲むな、が私自身の教訓になった。

 引退してからたまにバーでバイトをするようになり、付き合いで少しずつ酒を飲むようになった。酒はそもそもおいしくない、という認識を打破するべく、少しずついろいろな種類を試したら、ジンやウォッカならば当日にも翌日にも体調不良を引き起こさないということがわかった。調べてみると、蒸留酒(焼酎、ウイスキー、ジン、ウォッカ、シャンパン)なら私は気持ちよく酔って翌日にも残らず、醸造酒(ビール、ワイン、日本酒)だと先述のように死が近くなるのだとわかった。調子にのった私は、昨晩、バイト先のちょっとした祝いの席で空くシャンパンを一杯ずつもらってまわり、気がついたら労働を一切せずに好きな友達にコアラのように抱きついて頬にキスしていた。常連のお客さんたちが「働けよ!」と言う。私は大声で言った。「私はいかに労働をせずに時給をもらうかということを真剣に考えている! 私は好きな人に抱きついて時給をもらうんだ! おまえもそうしろ!」結局わたしはその晩出勤していたアルバイトたちの中で最も働かず、夜道を踊りながら帰った。そして今38.5度の高熱を出しており、これ以上の文章が書けなくなっている。

 せっかく失敗の話をしているので、少し近い内容で過去に個人HPに有料記事として掲載していた文章を再掲することにする。はしゃいで熱を出し、締め切りを守れない大人として、今日も恥を噛み締めながら生きることにする。

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 何か失敗をするたびに、人生が終わってしまうような気持ちになる。例えば仕事の日にカラコンを忘れるとか、メイクポーチを置いてくるとか、撮影の日にちを間違えて現場に着くまで気づかないとか、そういう些細なものをはじめ、対人関係に臆病すぎるがゆえに連絡を後回しにしていたら仕事に影響が出るとか、自分のキャパシティを正しく把握できずにパンクしてしまうとか、そういう実害の大きいものまで私の失敗遍歴はバリエーション豊かだ。失敗のデパートと呼んで欲しい。

 これらは平たく言うと普通にADHDの特徴で、私自身も診断を受け投薬治療を試みたこともあるけれど、多動性注意欠陥障害の投薬治療は正直とてもつらかった。私が当時処方されたのはストラテラという薬で、過集中と脱力をくりかえす性質を、安定して均す作用のあるもので、私の場合はもともとあった“冴えている瞬間”みたいなものをごっそりと失うことになったのだった。その代わりに部屋の片付けをできるようになったり、本が読めるようになったり、電車の乗り換えを間違えなくなったりはしたけれど、私にとっては、少し周囲や生活から逸脱しても、この世界のすべてを今わかったような気になれる過剰な集中、あの冴えた一瞬を手放すことは、どうにも耐え難かった。アイデアもひらめきも世界の詳細の情報量に圧倒されて倒れ込むこともない、安定した、終わりのないのっぺりした毎日をただ生きることは、私というこのもうマトモであることを諦めてしまった爛れた人生においてあまりにミスマッチで、今から普通になれたとしたって取り戻せないものがあまりに多すぎる。薬を捨てて、この特性を受け入れながらなんとかやっていくしかないのだと決めたのもだいぶ前の話だ。

 こうして病名のフォーマットで説明をしてはみるけれど、正直言ってこれらの特性はあまりにも「性格」と呼ぶべきものと混じり合ってしまっていて、病名をつけて分類することに強い違和感を感じる。というか、これがもう私なのだから、これらの特徴に新しくわたし病という名前をつけたいとさえ思う。私とわたしは切り離せない。適正な治療を、とは簡単に言うものの、なんだかんだで真面目に治療をしないことにも理由があったりするものだ。私の周りにはADHDはじめ名前のついた特性を抱えている人も多いし、そもそも物心ついた時から家族にも精神科医療に世話になっている人が多かった。私のように、分類に不自然さを感じる者もいれば、分類されることで初めて安心感を得る者もいる。一概には言えないけれど、私については「ADHDだから仕方ないよね」と言われるよりはたぶん「君だから仕方ないよね」と言われる方がうれしい。名称というものは時に呪いにもなるし、説明をショートカットできる手段のひとつでもあるけれど、いちいち説明するほうが説明を短縮できるよりもマシなことのような気がしているのが今の私なのだった。

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