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能『山姥』からみる刀ステ山姥切国広の考察 ※9月23日追記

趣味で能を嗜んでいる審神者です。
7月末からの怒涛の刀ステ無料配信をワーキャーしながら見ていた勢なのですが、配信を観ていて(なんか、能と関連するものが増えてない…?)と思うようになってきたところで、満を持してやってきました。

舞台刀剣乱舞「山姥切国広単独行 日本刀史」…!

界隈では山姥切国広と能『山姥』との関連が考察されているので、私も能好きの観点から色々な考察をしたい!と思い、筆を執った次第です。
とりあえず公演前ならいいだろ!ってことで好き勝手考察をしていきたいと思います。
色々な分野(主に民俗学)に話が飛ぶ上に、個人的なメモに近い形で書いているので、読みづらい部分が多々あるかと思いますが、ご容赦を…。

原作ゲームや刀ステ・刀ミュの公演内容についてがっつりと触れます。特に刀ステ外伝と綺伝については台詞も引用しています。ネタバレを避けたい方は回避を!
※筆者が稽古している流派は宝生流ですが、『山姥』については観世流の謡本も参考にしています。そして、あくまで素人であるので、記憶違いや知識違い等あるかと思います。ご容赦ください。

※話が長いよ!って人は目次の最後の大見出し「刀ステの山姥切国広と「山姥」」が本論となりますので、そちらから御覧ください。


刀剣乱舞と関連する能

原作ゲームとの関連

能(謡曲)『小鍛冶』に出てくる「小狐丸」は言わずもがな、能と密接に関連するキャラクターですね。
ただ、それ以外にも能楽界隈で話題となっていた、関連するかも?という内容を紹介します。

【回想56 「ふたつの山姥切」】
ここの回想での山姥切長義のセリフに、
「俺を差し置いて『山姥切』の名で、顔を売っているんだろう?」
というものがあります。このセリフが、能『山姥』との関連があるのでは?と言われているところなんです。
能『山姥』のシテ(山姥の精)がツレ(百ま山姥という、山姥の舞をして有名になった遊女)に対して言った台詞、

「言の葉草の露程も など御心にはかけ給わぬ
 怨み申しに来たりたり
 道を極め名を立てて 世上萬徳の妙花を開く事
 この一曲の故ならずや」
(※訳:(山姥がどのようなものなのか)露ほども気にかけないことに怨みを申しに来たのだ。(芸の)道を極めて有名となったのは、この一曲(山姥の曲舞)のおかげなのだろう?

宝生流謡本「山姥」P,10~11 訳:筆者(謡本の本文大意を下地としています※以下同)

…と重なるのでは?と話題になりました。(能『山姥』のあらすじや解説は後ほど詳しく書きます。)
ここから、能楽界隈では能『山姥』とW山姥切との関連性について多くの有識者の方が考察をされていますね。

刀ステ(舞台刀剣乱舞)との関連

【外伝 此の夜らの小田原】
冒頭でいきなり北条氏直が能『山姥』を演じるシーンが始まります。なんてこった。謡はなく、舞だけでしたが、装束や小道具(杖)ががっつり『山姥』の後シテのものです(もちろん、舞台用に多少の省略や改変などはありましたが)。能面も「山姥」(『山姥』の専用面)ですね。ちゃんと黒目の縁が金色に塗られているので(「金泥」といって、人外であることを表します)再現度は高めだなぁと思います。(紐を通す穴がなかったし、薄い素材だったので本物ではないですが。)
最終的な敵となる「山姥(仮称)」も、能『山姥』に出てくる山姥とは異なるところもありますが共通点が多くあります。それについては後ほど触れていこうと思います。

【禺伝 矛盾源氏物語】
※本編を見られていないので、見た方々からの話をもとに書いています。
禺伝の題材がずばり、能『源氏供養』だと言われています。『源氏供養』とは、源氏物語を書いた紫式部が、光源氏を供養しなかったことで死後、成仏できずにいたところを石山寺に参詣していた僧侶に弔いを頼む…といった内容です(めっちゃ端折ってますが)。
この源氏供養の解説で触れなくてはならないものが、「狂言綺語」という考え方です。仏教の教えの中には五戒という破ってはならない5つの禁忌があり、その中に「不妄語戒」というものがあります。嘘偽りを語り、人の心を惑わしてはならない、というものです。これ、いわゆるフィクションの物語がアウト判定を受けるんです(もっと言えば、和歌や詩、能楽などの芸能も全滅なんですが)。だから、虚構の物語である源氏物語を書いて人々の心を動かした紫式部は地獄へ落ちた、なんてことも言われるようになってしまいました。たまったもんじゃないですね。ただ、『源氏供養』においては、紫式部は石山寺の観世音菩薩が仮の姿としてこの世に生まれた存在であり、世の儚さを人に知らせる方便として源氏物語を書いた、だからありがたい話である…と結論づけているんですね。ご都合主義なんて言ってはいけません。ちゃんと仏教的な哲学に基づいているんですからね!
…とまあ、詳しい解説は話が逸れるので気になる人は調べてみてくださいね!(禺伝が配信されたときに有識者の方々が解説をしてくださってました。ありがたや。)
ちなみに、OPが能『源氏供養』のキリと呼ばれる部分の詞章(歌詞)、EDが『源氏供養』のクセの詞章を一言一句そのまま使っている…という話も聞きました。なんてこった。特にクセは源氏物語の巻名を織り込んで作られているものなので大変美しいものです。それを歌詞にしたED…聞きたい…。

刀ミュ(ミュージカル刀剣乱舞)との関連

こちらはストーリーの中で直接関連する内容はあまりないのですが、小狐丸のソロ曲「あどうつ聲」と小狐丸と三日月のデュオ曲「向かう槌音」の歌詞が、能『小鍛冶』の内容をもとにしたものとなっています。また、曲の中で、
「打ち重ねたる槌の音 天地に響きて夥し」
という歌詞あります。これが能『小鍛冶』(正確には観世流)に出てくる詞章と全く同じになっています。また、これらの曲はお囃子(能で使われる和楽器)から始まるものであったり前半部分のメロディー(歌い方)が能の謡に寄せたようなものとなっていたりしますから、おそらくそこも能を下地としたものとなっているかと思います。

また、三日月や鶴丸といった古刀が事あるごとに舞を舞う、というのも能の関連があるのかなぁと。戦国大名たちは能楽を嗜んでいたといいますし、江戸時代には能楽は武家の式楽、と定められていましたから事あるごとに舞を舞う、というのは自然なのかもしれませんね。(話すと長くなるのでここらへんで…。)

その他のメディアミックス

小狐丸が『小鍛冶』で語られる刀である、というのが様々なメディアミックスで取り上げられています。
アニメ刀剣乱舞花丸一期の第10話では『小鍛冶』についての話をするシーンがありますね。三日月が三条宗近の役となって台詞を言って、それに対して小狐丸が稲荷明神の化身の役となって台詞を返すのが大変にエモいですよね…。

刀剣乱舞歌舞伎では、三日月の鍛刀シーンの謡が『小鍛冶』に関連するような内容になっていたり、能『土蜘蛛』をオマージュしたような場面もいくつか見られました(これも詳細は省きますが)。もっとも、歌舞伎自体、能を下地にした作品や演出がふんだんにあるわけですから、刀剣乱舞だから、というよりも歌舞伎だからこそのオマージュなのかな、とも思います。

能『山姥』とは

あらすじ

さて、それではいよいよ本題の能『山姥』についての説明をしていきます。専門的な用語が出てきますが、それを全部説明すると長くなるので必要最低限に収めます。気になる人は「the 能ドットコム」の用語事典で調べるのをオススメします。(そちらに曲の解説も載っているので、正直そちらを見ていただく方が早いのですが…。)

【登場人物】
シテ(主人公)…山姥の精(前半は中年の女性として登場)
ツレ…百ま山姥(「ま」は流派によって表記が変わるので平仮名にしています。萬だったり万だったり魔だったり…。)
ワキ、ワキヅレ…百ま山姥の従者たち。

【あらすじ】
百ま山姥と呼ばれる白拍子は、山姥の山廻りする様子を演じた曲舞(くせまい)を作って舞い、それで人気を博した人物である。その彼女が善光寺参りを思い立ち、従者と共に信濃の国へ赴くところから物語が始まる。山中をすすむ一行だったが、急に日が暮れ、途方にくれているところに一人の女が現れ、一夜の宿を貸すと申し出た。宿を貸した女は、「こうして宿を貸したのには理由がある。そのために日を暮らしたのだ。」と語り、百ま山姥に山姥の曲舞を舞うことを所望する。素性を話していないのに百ま山姥のことを知っていることを怪しむと、女は自分こそ本物の山姥であると正体を明かす。驚き怯えた百ま山姥が舞を舞おうとすると、山姥は「月が出るまで待って、そのときに自らの真の姿を見せよう」と言い、姿を消す。(ここまでが前半。)
※後半に入るまでに、間狂言という狂言方によるやり取りが入ります。流派によって多少のセリフの変化はありますが、「山姥は何から成るのか」について色々な説を話していきます(戸板から成るとか、どんぐりから成るとか)。
その後、怯えながらも山姥の願い通りに夜更けを待つ百ま山姥の前に、真の姿となった山姥が再び現れる。百ま山姥の曲舞に合わせて山姥も謡い、最後には自ら山廻りの有様を見せて姿を消すのであった。

『山姥』という曲について

この『山姥』という曲は、比較的位の重い曲(難しい曲、経験を積んだ演者ができる曲)として扱われています。というのも、後半部分でシテ(山姥)が舞うクセという部分が、山姥がいかなるものであるのか・そして人々の住む世とはいかなるものであるのか、といった内容を仏教的な哲学を交えながら語る内容となっているからです。これが実に難解です。私も正直良くわかりません。また、この山姥は白髪の老女のような出で立ちとなっています。老女というのは能において演じることが最も難しい役の一つであると言われています。能の山姥はあくまで精霊(人外のもの)として扱われますが、老女のような出で立ちで描かれる以上、相応の技量で演じなくてはならない曲となっているわけです。

また、『山姥』は五番目物という、鬼や妖怪がシテ(主人公)となる曲に分類されますが、宝生流では「略脇能」という、略式の脇能(神様をシテとする曲)として扱ってもよいとされています。仏教的な哲学が多いが故なのか、山姥を神として扱うことを暗に示しているのか…。
宝生流の謡本ではこの曲のことを、
「全く他に類曲を見出し得ぬ特異の作意をもって意味深い思想的暗示が盛り込まれている」
と説明しています。作者は能楽の大成者である世阿弥元清とも、金春禅竹(氏信)とも言われています(世阿弥作というのが最有力ですが)。近世には一休禅師が作ったという説(荒唐無稽な説、とされていますが)もあったくらい、仏教、特に禅宗への造詣が深い曲であると言われています。
また、観世流の謡本でも、「切能としては特殊である」と解説していますし、山姥を超人的な存在として都市の遊女(白拍子)と対照させているのではないか、と考察しています。

能の中で描かれている「山姥」

では、能で描かれる山姥についての解説と考察を進めていきます。

【山姥が抱える思い】
前半部分、百ま山姥は女(正体を隠した山姥)から、

「さて真の山姥をば いかなる者とか知ろし召されてそうろうぞ」
(※訳:さて、真の山姥はどのような者であるか知っておられるのか)

宝生流謡本「山姥」P,9 訳:筆者

と尋ねられます。それに対して百ま山姥は、

「山姥とは山に住む鬼女とこそ曲舞にも見えてそうらへ」
(※訳:山姥とは山に住む鬼女であると、曲舞でも表されています)

宝生流謡本「山姥」P,9 訳:筆者

と答えます。それに対して女(山姥)は、

「鬼女とは女の鬼とや 鬼女なりとも人なりとも 山に住む女ならば
 わらわが身の上にてはさむらはずや」
(※訳:鬼女とは女の鬼でしょう。鬼であろうが人であろうが、山に住む女であれば私の身の上のことでしょう。)

宝生流謡本「山姥」P,9~10 訳:筆者

と答えます。続いて、百ま山姥が山姥の曲舞で名声を得たにも関わらず「山姥」という存在をないがしろにしていることへの怨みつらみを述べるわけです(原作ゲームの回想で紹介した部分ですね)。ただし、怨みつらみを述べつつも、百ま山姥を害そうとはしていません。むしろ、

「然らばわらわが身をも弔い 舞歌音楽の妙音の
 聲佛事をもなし給はば などかわらわも輪廻をのがれ
 歸性の善所に至らざらんと怨みを夕山の」
(※訳:舞歌音楽を奏でて供養したのであれば、迷いの苦界を離れて悟りを得、浄土へ行けるかと思い、怨みを言いにきたのである。)

宝生流謡本「山姥」P,11 訳:筆者

と、百ま山姥が有名となり、山姥の存在を芸能として昇華することで、自身が救われる可能性があると言及しています。それについては曲の終わりに近いところで、

「一樹の陰一河の流れ 皆これ多少の縁ぞかし
 ましてや我が名を夕月の 浮世を廻る一節も
 狂言綺語の道すぐに 讃佛乗の因ぞかし」
(訳:一つの木陰に宿り一つの川の流れを汲むのも前世の因縁である。ましてや自分の名を入れた謡も、曲舞の戯れの言葉も、直ちに仏の教えを讃える事である。)

宝生流謡本「山姥」P,28~29 訳:筆者

とシテ(山姥)が述べています。この「狂言綺語」という言葉はさっき出てきましたね?そう、『源氏供養』の一つのテーマとなっているアレです。『山姥』では『源氏供養』にあるマイナスのニュアンスをほとんど削ぎ落として使われており、舞曲を謙遜的に言っている表現なのでは、とフォロワーさんが解説してくださいました(ありがとうございます!)。先程の『源氏供養』でも少し触れましたが、「不妄語戒」については、
「仏教の教えを説く時にも例え話をしてわかりやすく伝えるでしょ?それに、和歌を読むことで心が澄み、仏道の助けにもなるんだよ!」
という言説も生まれています。ご都合主義と言ってはいけません。世阿弥も『風姿花伝』において能(申楽)の成り立ちから現在(世阿弥の時代)までの変遷について説明しているところがありますが、そこでも狂言綺語について触れていますが、

まづ神代、仏在所の始まり、月氏、震旦、日域に伝はる狂言綺語を以て讃仏、転法輪の因縁を守り、魔縁を退け、福祐を招く。
(訳:(猿楽は)神代、天竺に始まり、天竺、震旦(中国)、我が国に伝わる狂言綺語(物語、歌舞、音曲)によって仏法を讃歎し、説き広め、悪神を退け、福運を招く。)

『風姿花伝』より風姿花伝第四神儀云 著:世阿弥 訳:佐藤正英

とあります。世阿弥の言では、狂言綺語は仏法をほめ称えるものであるとされているわけですね。
だんだん話が逸れてきたのでここまでにしておきますが、要するに「山姥の曲舞」が人々の間で広まることでこの山姥が仏教的な救いを得られる可能性が示されているということです。

【山姥の性質】
さて、能の中での「山姥」は、人を喰う化け物としては描かれていません。山姥が語るクセの中では、

「休む重荷に肩をかし 月諸共に山を出て 里まで送るをりもあり
 又或時は織姫の 五百機立つる窓に入って
 枝の鶯糸繰り紡績の宿に身をおき
 人を助ける業をのみ 賤の目に見えぬ鬼とや 人のいふらん」
(※訳:(山の中で)休む人が持つ重荷に肩を貸して里まで送ったり、機織りや糸紡ぎを手伝ったり、人を助けることをしているけれども、その姿が見えないので人は(山姥を)鬼というのだ。)

宝生流謡本「山姥」P,26~27 訳:筆者

という、人々に寄り添って生きている姿も描かれています。観世流謡本の解説(曲趣)でも「山姥は山に住む女の妖精」と紹介されていたり、詞章の中でも自らを「山姥が霊鬼」と称していたり、人を襲う妖怪・化け物としてではなく精霊的な要素を持った存在として描かれているのかなぁと感じます。

ちなみに、「霊鬼」は「鬼じゃないのか?」と疑問を持たれる方も多いと思いますが、能における「鬼」は、「鬼神」(こちらは生まれながらの怪異)あるいは「鬼女」(こちらは恨みや憎しみで人が鬼と変化したモノ)と称されることがほとんどです。「霊鬼」という表現はあまり使われず、謡本の訳(本文大意)でも「山姥の霊」と訳されています。この能における「鬼」の表記については、pixivで公開している拙作「能「山姥」について」で具体例を挙げています。(完全なるメモ書きですので、この文章以上に見にくいです。すみません…。)

【山姥が語る真理】
そして、山姥が語る仏教哲学についても触れておきます(観世流の謡本にある曲趣(解説)をもとに書いていきますね)。
まず、クセの中で、

 「邪正一如と見る時は 色即是空其のままに
  佛法あれば世法あり 煩悩あれば菩提あり
  佛あれば衆生あり 衆生あれば山姥もあり」

宝生流謡本「山姥」P,25~26

と語ります。また、

「いや善悪不二 何をか怨み 何をか悦ばんや」

宝生流謡本「山姥」P,16

とも語っています。この部分について観世流謡本の解説では、

彼女は一種の悟得者で、彼女にとって、煩悩は即ち菩提であり、生死は即ち涅槃である。煩悩といい菩提というも要するに観点の相違で、同一の事象も背よりすれば此となり、面よりすれば彼となる。天明にしたがえば生死となるものが、法性に順ずれば涅槃ともなる。故に善悪不二とも観ぜられ、また邪正一如とも観ぜられる。そういった大乗的世界観が此の怪異な妖精に依って説かれる。

観世流謡本「山姥」曲趣 ※旧字体、歴史的仮名遣いは筆者で書き換えた(以下同)

と書いています。うーん、難しい!分からん!!私なりに解釈するなら、この山姥は悟りの境地に至っており、生も死も、善も悪も、相反する概念すら同一のものとして見えるほどに高次元の視点を持った存在だということでしょうか。

また、観世流謡本の解説には続きがあって、

彼女は自然そのものであり、生そのものである。それが暫く人間界に遊び出て、花を尋ね、月を求め、雪に興じて、狂言綺語の戯れをする。戯れの中で道を説き、道を説くが如く見せて戯れる。戯れが真か、道を説くことが真か。都に帰りて世語ちにさせ給えと、思うはなおも妄執か。ただ打ち捨てよ何事もよしあしびきの山姥が山めぐり……その山めぐりの循環の中善悪不二の哲理を感得させようとする。

観世流謡本「山姥」曲趣

とあります。この「自然そのもの」という表現については、山姥が「山の神」としての側面を持っているということを示唆しているのかなと思います。この「山の神」についての解説は後ほど、民俗学の観点からつらつらと書いていきます。
さて、上の引用の後半部分、これは詞章の言葉をそのまま使っています。「よしあしびきの山姥が」という部分、「よし足引(あしびき)の」というのは「山姥」にかかる序詞とあります。(「あしびきの」は「山」にかかる枕詞です。百人一首にもありますよね。)この言葉も「よしあし」=「善し悪し」が盛り込まれているという見方もできます。言葉遊びの一種ですかね。

【山姥の「山廻り」】
そして、「山めぐり」という言葉ですが、この「山廻り(めぐり)」が『山姥』における最も重要なキーワードとなっています。
この「山廻り」については謡本の中で2回同じ文言が出てきます。

「よし足引の山姥が山廻りするぞ苦しき」

宝生流謡本「山姥」P,21、28

この文言が、クリと呼ばれる見せ場の一つの直前に1回目。そしてクセの終わりに2回目が出てきます。能『山姥』における見せ場の最初と最後に出てくるわけですね。
全く同じ文言が2回出てくるというのは珍しい、と思います(これは私なりの見解ですが…)。というのも、能では同じことを2回やることを避ける傾向にあるからです。(舞の型も、同じ型が2回出てくるときには多少の変化をつけるようになっています。連続して2回同じ文言を謡うことは形式としてありますが、離れたところで2回、というのはほとんどないかと。)ということは、この文言はこの曲の中でも重要な一節となっているのではないか、と思います。
山廻りは苦しい。これは強調されるべきことなのでしょう。

ただし、この「山廻り」について、観世流謡本の解説にはこうあります。

寓意としては山めぐりを六道に輪廻する一切有情の宿命の象徴として表現する。山姥はわが妄執を晴らし給えといったりするけれども、妄執を晴らすことなどは主要な問題ではなく、むしろ山めぐりを永久に続けるような暗示さえ与えられてある

観世流謡本「山姥」曲趣

とあります。実際、能の最後のシーン(キリといいます)では、山廻りの様を語り、その姿を見せていったシテ(山姥)が山廻りをして行方知れずとなって物語が終わります。
妄執であったり苦悩を抱える登場人物が僧侶に救いを求めて終わる話は多くありますが、『山姥』ではそうした場面はなく、自己完結しているような終わりになっているのが特徴的です。
苦しいと言いながらも、それから逃れることに重きを置かない…。この山廻りは人生そのものを暗示するものであるからこそ、それから逃れることはできない(逃れる=死、と考えられますから)ということを表しているのではないか、と思います。

こうした山姥の仏教的な解釈について、参考文献「能楽の中の女たち」の著者脇田晴子氏は、

 哲学者の相良亭氏は、「善悪不二、邪正一如」という仏教の示す広大な宇宙観と、輪廻を解脱しえず、その心境に達しえない山姥の妄執との対比で、この曲を捉えておられます。それは西野春雄氏の、この曲では大自然の神秘が「善悪不二、邪正一如」という仏教哲理として説かれているとする見解を踏まえられています。そして、山は墓場に象徴されるような異界・霊界としての絶望の深遠としてある側面と、歓喜の側面との激しい二極分解を一つに昇華した存在だと解釈されます。この相良氏の仏教的宇宙観と、山姥の妄執を分離する禅的な解釈は、古来から信仰されてきた神々を仏教教理で包合した神仏習合的なものが、「山姥」では、禅宗的哲理でなされていることを解明したものと言えるでしょう。すなわち、山姥の山めぐりに象徴されているものは、妄執を解脱しえず、輪廻転生を流転する人間の生を暗示しています。それは当時における禅の哲理を組み込んだ壮大な山の、あるいは、それが暗示する人生のパノラマであるのです。

「能楽の中の女たちー女舞の風姿」著:脇田晴子 P,31~32

と述べておられます。うーん、禅宗の考えについて深い知識がないと完全に理解することができないのですが…。「山は墓場に象徴される」というのは、昔の日本(主に地方の農村において)では、亡くなった方を山へ埋葬していたという風習があったとされています。ゆえに「山中異界」といった考えや祖霊信仰が生まれ、「山の神」の信仰にも繋がっていく…というのは後ほどちょっとだけ触れますが。
何にせよ、この『山姥』でシテ(山姥)が語る真理というのは、仏教(禅宗)の哲理と民俗学的な山への畏怖(信仰)を複雑に折り込みながら、人生とその苦悩を語っている…のですかね?もう分からんです(泣)

【山姥の成り立ち】
では、この能で描かれた山姥はどのようにして生まれたか、についても言及しなくてはですね。
まずはクセの部分から、

「抑山姥は 生所も知らず宿もなし
 唯雲水を便りにて至らぬ山の奥もなし
 然れば人間にあらずとて 隔つる雲の身をかへ
 かりに自性を変化して 一念化生の鬼女となつて」
(※訳:そもそも山姥は生まれた所も宿も分からず、雲水を便りにあちこちを巡り歩くので人間ではないと人間界から隔てられるが、今雲のように本性の姿を変え、化生の鬼女となって)

宝生流謡本「山姥」P,24~25 訳:筆者

とあります。人間界と隔てられる、というところは、里(=農民たちが住む世界)から隔離された山中のことを指しているのかな、と。先程の話でも触れましたし、後の部分でも触れますが、民俗学的には「山中異界」という考えもあり、これは仏教的な考えよりも民俗学的な考えから生まれている概念なのかなぁと思います。
そして、キリの部分では、

「廻り廻りて輪廻を離れぬ妄執の雲の 塵積って山姥となれる」

宝生流謡本「山姥」P,30

とあります。クセの部分で「山は塵土より起こって」という一文もありますので、「塵積って山姥となれる」は山姥が山と同一視できるという、ある意味言葉遊びも含んだ表現なのかもしれません。
ですがそれ以上に、ですよ。この山姥は輪廻を離れる=成仏する・極楽へ行くことができずに山廻り=六道を廻り続け、妄執が積もりに積もって山姥となった、と言っています。ここ、後ほどテスト…もとい、刀ステとの関連で話そうと思います。察しのいい人は気づくかも…気づいて。

とまぁ、大分長々と解説を進めていきましたが、そろそろ能『山姥』の解説は終わりにして、次の話に行きたいと思います。

民俗学における「山姥」と「山の神」

民俗学における「山姥」とは

まず、民俗学における「山姥」について話をするわけですが、民俗学といえば柳田国男氏、ということで柳田氏が研究した「山姥」について触れていきます。
柳田氏がまず、遠野地方における「山姥・山母(ヤマハハ)」伝承を『遠野物語』の中で紹介しています。主なものとしては、
「牛方と山姥」…人を喰わんとする山姥を、知恵を使って退治する話。
「山姥の宝蓑」…たまたま山姥の家にやってきた娘が山姥から宝物をもらい、幸せに暮らす事ができた話。
が挙げられるかと。これも詳細を話すと長くなるので続きはWEBで!めちゃくちゃざっくりと言うならば、人を喰うという性質はありつつも、時には人を助ける(恵みをもたらす)一面もあるというところでしょうか。
また、『山の人生』においては、

山姥・山姫は里に住む人々が、もと若干の尊敬をもって付与したる美称であって、或いはそう呼ばれてもよい不思議なる女性が、かつて諸処の深山にいたことだけは、ほぼ疑いを容いれざる日本の現実であった。

「山の人生」著:柳田国男

とあります。この、「不思議なる女性が諸所の深山にいた」という記述については、観世流謡本の[資材]の部分で、『更級日記』に足柄山に遊女がいたことを記している、という記述があります。その内容が、

足柄山といふは四五日かねて怖しげに暗がりわたれり。やうやう入り立つ麓の程だに、空のけしきはかばかしくも見えず。えもいはず茂りわたりて、いと恐ろしげなり。麓に宿りたるに、月も無く暗き夜の闇にまどふやうなるに、遊女三人何處よりともなく出て来たり。五十ばかりなる一人、二十ばかりなる、十四五なるとあり

観世流謡本「山姥」 [資材]

とあります。謡本でも、「山姥というものは深山にいた遊女で、山を廻りつつ客を求めるところから言われるようになったのでは」、と推測されています。
他にも、「山姥」の起源とも言えるべき伝承はいろいろとあるとされているのですが、全部拾って考察するともはや違う考察が始まりそうなので、このくらいにさせてください…。私の限界なので…。

山姥の研究をされている方は多くいますが、もう一人、『鬼の研究』を著した馬場あき子氏の考察も述べておこうかと。
馬場氏は能『葛城』を例にあげて、国つ神(天孫降臨以前からこの国土を治めていた土着の神:引用「コトバンク」)の没落の有様について考察をされています(『葛城』の解説は後ほど)。「「鬼」とは国つ神の末裔であるといいうる一面があるくらいだ」、とも述べられているのですが、「山姥」はこの国つ神系の棄民の姿の一つである、とも考えられています。そして、能『山姥』によって語られる「山姥の哲学」は、「棄民として彷徨する山姥の現実への鎮魂歌であり、妄執とともに滅びきらぬ最後の「鬼」への悲歌である」といえる、と締めくくっておられます。

柳田氏と馬場氏に共通して言えることは、「山姥」という存在には現実にいた山に住む女性たちがベースとして存在する、ということでしょうか。
山に住む人々、「山人」と呼ばれる人々には様々な伝承があります。そこまで話すともう、書ききれないので、これくらいで…。

ちなみに、霊刀「山姥切」が斬った山姥は生まれた嬰児を喰っており…という話だったかと思います。生まれた嬰児を襲う、というのは、「安達ケ原の鬼女」に類似するような…?と思います(ちなみに、能「黒塚(観世流では安達原)」が関連する能ですね。もっとも、襲うのは「閨を中を見るな」という約束を破った山伏たちですけど)。
が、もっとも、この伝説については(というか、「どの」山姥切が斬ったのか)というのは議論されているところですし、それについての考察を進めていらっしゃる方もいますので、門外漢の私はここまでにしておこうかと。

結論として、山姥=人を喰う化け物・妖怪、というのは広く知られている姿でありますが、もともと山に住んでいた女性たちの存在があり、その人々の生活の有り様や畏怖が山の信仰などと結びつき、様々な伝承として残った、といえるかと思います。
ということで、山姥は「山の神」としての一面も持っているのでは?という推測から、「山の神」についての考察に移りたいと思います。

民俗学における「山の神」とは

民俗学における「山の神」や「山岳信仰」については話すと長くなるので…。ざっくりとした内容だけ。(佐々木高明氏の著書「山の神と日本人」を参考にまとめていきます。)
いわゆる「山の神」と呼ばれる存在については大きく3パターンに分かれているそうです。

①霊山から生まれた「山の神」
いわゆる、富士山信仰だったり三輪山信仰など、霊山と呼ばれる山に住まう神(というか霊山がそのまま神格化したもの)です。祢々切丸が言っている山の神はおそらくこれですね。

②農民の信仰から生まれた「山の神」
これは、柳田国男が提唱した学説における山の神です。山に住む神が春になれば里に降りて「田の神」となり豊穣をもたらす。秋になれば里から山に戻って再び「山の神」となる…という「去来伝承」が核となっている信仰ですが、今回はここには深入りしないでおきます。
(先程触れた、山が埋葬場所となっていたがゆえに生まれた祖霊信仰と密接に関連してるんですが、本当に脇道に逸れるので興味のある人は調べてみてください…。)

③山民の信仰から生まれた「山の神」
山民(マタギなどの狩猟民や、炭焼きやいわゆる林業を行う山林労働者など)が信仰する山の神です。
マタギなどの狩猟民にとって山というのは、里(農民が生活する場所)とは異なる世界=「山中異界」と考えられており、その山中異界のすべてを支配する神としての山の神を信仰する風習が多く残っているそうです。この山の神は野獣や木材などの山の恵みを人々に賜る神であり、逆にこの神をないがしろにすると厳しい怒りを買うとして畏れられる存在でもあるようです。

で、この山姥がもつ山の神の性質は、③の山の神ではないか、と思うのです。
特定の山に根付いたものでもなければ、「田の神」としての性質もあまり見受けられません(人里に降りる…というところは関連するかもしれませんが…)。様々な伝説が山の中を舞台としているところからも、③の山の神の性質が一番近しいものであると考えられます。

刀ステ外伝で敵として出てくる「山姥」は、人々に害をなす存在として描かれています。私としては、この山姥も③の側面を持った存在なのでは、と考えています。でも、あの山姥は明確な敵意と悪意を持って長尾顕長や刀剣男士たちに害をなそうとしてますけど?という疑問は生まれるかと思います。
その疑問の解決の前に、山の神の変遷についてちょっと触れておこうかな、と思います。

「山の神」の変遷

「山の神」は大きく3つに分かれる、という話をしましたが、そんな「山の神」の性別についてもパターンが分かれていると思います。
①の山の神は男性として表されることが多いと言われています。一方、③の山の神の多くは女神として扱われていることが多いといわれています。そこらへんについてはマタギの風習から曲解されたとか山の神に仕える斎女(イツキメ)が変化したからとかいろいろな説がありますが、これといった定説があるわけではないようです。

しかし、①の山の神の中でも、元は男神とされていたのに後世で女神として扱われる神もいます。それが葛城山の神・一言主神です。

古事記によると、大和国にある葛城山を通過しようとした雄略天皇は、服装や装備などが自身の行列と全く同じ行列を見つけ、不敬であるとして弓矢で攻撃をしようとしたところ、その行列の人物が、
「我こそは悪事も一言、善事も一言、言離の神、葛城一言主の大神なり」
と名乗ったことで恐れおののき、自分と従者の身に付けていたものをその場で脱がせ、その装束を献上した、という伝説が残っています。

しかし、この一言主はそれより後の時代(飛鳥時代)では別の伝説に登場します。それが役行者(役小角)の伝説です。
役行者が金峰山と葛城山との間に橋をかけるという偉業を行うため、鬼神や一言主を使役したが、一言主はその顔が醜いことを恥じ、夜の間しか作業を行わなかった。そのため作業が遅れ、役行者から責め苦を負わされることとなった。というものです。
この伝説を元にして作られたのが能『葛城』(能では「かづらき」と読みます)です。この『葛城』のシテ(葛城の神。一言主とは言われません。)は女神となっています。役行者による蔦かづらのいましめ、三熱の苦しみを、旅の山伏の加持祈祷によって救われることを願うわけです。

古事記では天皇が畏れ敬い、服をその場で脱いで献上するまでの敬意を示した一言主が、その後の時代では役行者に使役され、役割を果たせなかったが故に責め苦を負わされるまでに零落してしまっています
さらに言えば、古事記においては男神として描かれていた一言主が、能では女神とされています。神が持つ力強さ、という点においていえば、男神から女神に変わったことでその強さが弱まっていると考えられるかと思います。(ジェンダー的な考えは横においておいてください。ジェンダーなんてものが存在していなかった時代の話をしていますので…。)

①の山の神は固有名詞もあり神社なども建立されているものが多く、また修験道との結びつきなどもあって現在でも信仰が続くものとなっています。葛城山の一言主はこの①の山の神に分類されるものですが、それでも一部の神の中では時代が経つにつれてその力や威光、畏敬の念が弱まってしまっていることがこの能『葛城』からも読み取れます(もっとも、この弱体化の背景にはそれを信仰する一族の政治的立場も関係するとかしないとか。ややこしくなるので、そこはちょっと目をつぶっておきます)。
では、②や③の山の神は?というと、人々が自然の中で生活していく上で信仰されていたわけであって、時代を経るにつれ生活の場が山から離れていき、信仰や畏れ、敬いといったものが急速に失われているという指摘もあります。それは①の山の神以上のものであるでしょう。

そういった信仰が失われていった結果、神として祀られていたものが「あやかし」などの妖怪に零落していったのではないか…?という考察ができます。というのも、妖怪は「神の零落した姿」であるという説が柳田国男氏によって提唱されていますからです(これについては議論もありますが)。

こうした背景もあって、いわゆる「人を喰う化け物としての山姥」が世間に広がっていくこととなったのではないでしょうか。そして、そうした姿が広がった理由は、人間が山への感謝や敬い、信仰といったものを忘れていったから、なのではないでしょうか。だとすれば、人間に対する敵意や恨みがあっても然るべき…とも考えられるのでは?というのが私の推測です。
こうした人間に対する敵意・恨みがあれば、外伝の「山姥」が北条氏直や長尾顕長を操り、人の世を乱そうとするのも、さもありなん、といったところでしょうか。能においては、人間に対する敵意がある妖(鬼神とも表現されますが)は、たいてい「王威に背く」「君が代に障りをなす」もの=天皇(や施政者)に害をなそうとするものとして描かれます(これも話すと長くなります。拙作「能「山姥」について」で少し触れているのでよければ参考に…)。外伝の「山姥」が、秀吉の命を狙ったのも、「王威に背く」「君が代に障りをなす」という目的のためだったのかもしれませんね。

刀ステの山姥切国広と「山姥」

刀ステ外伝の「山姥」についての考察

さて、刀ステ外伝に出てきた「山姥」(作中で言及されてはいませんが、仮にそう呼んでおきます)についての考察に入ります。

まず、この「山姥」ですが、先程述べた私の推測に基づけば、山姥を「山の神」から「人を喰う化け物」に貶めた人間に仇なすため、「君が代に障りをなす」べく長尾顕長に取り憑き、血で血を洗う戦いを引き起こし、小田原を血で染めようとします。さらに、秀吉を殺そうとするわけなんですが、それを時間遡行軍に利用された…と仮定します。

気になるのはもう一つ、この「山姥」は長尾顕長に取り憑いた際、このように言っています。

「人の辿りし昔日よ。時の移ろう陽炎よ。なんぞや。歴史とはなんぞや。
 歴史とは、十重二十重となる惑いの重なり
 ならば、此の夜らの小田原に惑いの鈴を響かせよう。」

舞台刀剣乱舞 「外伝 此の夜らの小田原」※映像から文字起こしをしています(以下同)

いやぁ…「惑い」がキーワードになってきましたねぇ…。歴史とも絡めてきますか……。と思ったわけなんですが。この「惑い」の解説は後ほど。

またこのとき、山姥の能面(オモテ)が顔に張り付くことで「山姥」が取り憑いたこと表しているのですが、これも能の視点から言えば「まさしくその通り!」な表現なんです。
というのも、神がかっていることを表すのに使われるのが仮面。仮面をつけている間は人間ではなく神になる、という前提があり、人でない役はほぼ100%能面を付けます(幽霊も例外ではありません。ただし、生きた人間の役であっても、老人や女性を演じる時は能面を付けますが)。
この、能面をつけるのは儀式的な要素もあり、能にして能にあらずと呼ばれる『翁』という演目は能の元となった田楽、つまり五穀豊穣を願う儀式の要素が強く残ったものとなっています。そのため、曲の中で行われる一挙一動が儀礼的なものとなっているわけです。この曲では例外的に舞台上で能面をつけます。これは、神降ろしを行う「儀礼」であり、この時つけられる能面が非常に神聖視されています。
要するに、能面は、人ならざるものとなるために必要なアイテムとなっているわけです。そりゃ、憑依したことを表すアイテムに選ばれますよね。

さて、こうして長尾顕長に取り憑いた「山姥」は「惑いの鈴」というアイテムを使って、北条氏直、そして刀剣男士たちへの精神攻撃を行います。
この「惑いの鈴」については、あんまし能とは関係ない…と思うのですが(なにせ、能の山姥が持つのは「鹿背杖:かせづえ」と呼ばれる、葉っぱがついた杖なので)。強いて関連をもたせるのであれば、この「惑いの鈴」は僧侶が使う錫杖に似ています。先程、曲の解説をした時に散々言いましたが、この能『山姥』のシテ(山姥)は非常に仏教の造詣が深いものとして描かれています。だから、僧侶が使う錫杖に似ている…といったところでしょうか。
注目したいのはこの鈴の要素ではなく、「惑い」というところです。
この「山姥」は氏直や刀剣男士たちの「惑い」を引き起こすことで精神攻撃を行うわけですが、「惑い」=「迷い」=「妄執」と関連付けられるのではないでしょうか。
辞書によると、

妄執:〘名〙 (古くは「もうじゅう」とも) 仏語。迷いの心から物事に執着すること。虚妄の執念。

精選版 日本国語大辞典

とあります。能『山姥』のシテ(山姥)は妄執に囚われ続ける存在、そして何より「妄執が積み重なって生まれた存在」と明言されています。わーお。
もはや、言い逃れができないレベルでこの「山姥」は能『山姥』のシテ(山姥)の要素を持っていますね。がっつりと。

この「惑いの鈴」によって、氏直「籠城戦をやめ、秀吉と戦うこと(北条家や父氏政を守ること)」へし切長谷部「(信長に)命名までしておいて直臣でない者に下げ渡されたこと」小夜左文字「(自らの)復讐が果たされているのに、復讐を求めてしまうこと」、そして山姥切国広「写しである自分の存在意義」という「惑い」に囚われてしまいます(もっとも、山姥切国広の惑いについては、物語の前半に起こった出来事とリンクしているのですが)。
この時、「山姥」は、

「生きることは惑うことじゃ。それは悲しきかな、いくら乗り越えようと消して抜け出すことはできぬ、終わりなき地獄よ。」

舞台刀剣乱舞 「外伝 此の夜らの小田原」

と述べるわけです。
しかしその直後、本丸からの援軍がやってきます。ちなみに、この「山姥」の台詞を打ち消すかのごとくいの一番に喋るのが、山伏国広山伏=妄執を晴らすための修行を行う修行僧としての性質を持つ兄弟刀ってのがほんと、もう、ほんと、大正解!!って思うんですよね!!

こうして、「山姥」の面を斬り、見事「山姥」を打ち倒す事ができました。ですが、この「山姥」を倒す際に山姥切国広が言い放った言葉が問題なのです。

「ならば俺は、その地獄で惑い続けるしかない!」

舞台刀剣乱舞 「外伝 此の夜らの小田原」

あーー!!まんばちゃんったら、妄執を抱えて生き続けようとしていますーーー?!?!それ、能の「山姥」がやってることーーーー!!!!
…と頭を抱えました。失礼。
ともかく、山姥切国広は「惑い続けること」を選ぶわけですよ。
これって、完全に「妄執に囚われ続ける」能『山姥』のシテ(山姥)になりますよね…?

刀ステの時間軸は非常に複雑になっているので、どの時間軸の山姥切国広がその選択をしたのかが正直私には分からないのですが…。
その選択をして、ハッピーエンドに進むルートに入れる…??って思っています。これもフラグだったりするんですかね…。そこの考察は刀ステの考察班に託したいです…ごめんなさい。

刀ステ綺伝についての考察

刀ステの伏線を全部回収しようとすると私が倒れるので、「これは…!」と思った作品を考察します。それが、
舞台刀剣乱舞  「綺伝 いくさ世の徒花」
です。
この話はゲームの期間限定イベント「慶長熊本」が舞台となっているもので、歴史改変され放棄された世界の中で細川ガラシャを中心に、キリシタン大名たちや刀剣男士たちがそれぞれの思いを胸にぶつかり合う…と、この物語の良さはここでは語り尽くせないのですが、ここでは物語のクライマックスシーンで繰り広げられる、ある場面を抜粋していきたいと思います。

そのある場面とは、キリシタン大名たちの裏で暗躍する黒田孝高(如水)の元に山姥切長義が駆けつけるシーン。黒田孝高から感じた気配を知っているものであると、そしてそこにあるはずがないものだと感じた山姥切長義が、彼を斬るべく刃を向けたその時、「どこかで聞いたことがある」台詞を言う黒田孝高。激高する山姥切長義に高笑いで返す黒田孝高。その姿が黒い霧に包まれます。
黒い霧が晴れるとそこには、山姥切国広の姿。「山姥切国広の影(朧なる山姥切国広)」が現れます。
その影に不快感を露わにし「偽物くんの偽物くん」と吐き捨てた山姥切長義は、その「山姥切国広の影」と戦います。(ここの長義くんが超絶かっこいいのであの、ほんと、見てください…。)

その際、「山姥切国広の影」が語った台詞に注目したいと思います。
戦いの最中、

「そうだ…!お前たちのその力が…。そのあがきが…。その叫びが…!この物語をより強くする…。その物語の連なりはやがて道となる。三日月宗近……。今なお円環で戦うお前へと連なる道だ…!」

舞台刀剣乱舞 「綺伝 いくさ世の徒花」※映像から文字起こしをしています(以下同)

と語ります。そして、山姥切長義によって倒される「影」は、折れる直前にこう呻きます。

「物語を……もっと…もっと……。物語をおくれ……。」

舞台刀剣乱舞 「綺伝 いくさ世の徒花」

この、「物語をおくれ」という台詞は、「維伝 朧の志士」で現れた「山姥切国広の影」も言っていましたね。この山姥切国広の影は、物語を求めてさまよう姿が象徴的ですね。さらに、この戦闘後に現れた黒田孝高はこう述べます、

「繰り返される円環。起点と終点を失った時間軸の捻れは表裏の判別を失い、螺旋となる。やがて、物語は歴史を侵食していくだろう。歴史は物語へ、物語は歴史へ。真と偽りが、生と死が、あらゆる陰陽を隔てる境界は消え去り、全ては反転する。」

舞台刀剣乱舞 「綺伝 いくさ世の徒花」

…どっかで聞いたことがあるような気がしませんか?能『山姥』の謡本(観世流)にある解説にありましたね?
「彼女は一種の悟得者で、彼女にとって、煩悩は即ち菩提であり、煩悩は即ち菩提であり、生死は即ち涅槃である。」
善悪不二、邪正一如…相対するものも同一である…あらゆる陰陽を隔てる境界は消え去る……。う、うわーー!!クロカンてめぇ!!!と一人で呻いていました。度々失礼。
クロカンもとい黒田孝高の目指す極地って、能『山姥』のシテ(山姥)が行き着いた先なんじゃ…。と震えています。もっとも、山姥の行き着いた先は仏道(特に禅宗)の悟りの境地です。それは個人の中で完結するものですが、クロカンはそれを歴史…つまり世界へと広げようとしているからたまったもんじゃないですね。なんてことをしようとしているんだクロカン。
この黒田孝高(如水なのか官兵衛なのかももはや分かりませんが)の思惑、策略、真意はこれからの物語の中で明かされていくことでしょう。凡人の私にはそれを予測することも窺い知ることも不可能なのですが、ろくなことじゃないことだけは分かります。おのれクロカン。

そしてもう一つ、黒田孝高を筆頭とした「朧なるものたち」(と仮に呼んでおきます)は、「強き物語」を作って力を得ようとします。
この行動も、能『山姥』のシテ(山姥)が語る、
「百ま山姥が「山姥の曲舞」を世に広めることで、「山姥」である自分が悟りの境地・浄土へ至れる」
に繋がってきませんか?
能『山姥』でも、

「都に帰りて世語りにさせ給えと 思うはなおも妄執か」

宝生流謡本「山姥」P,27~28

と語っています。世語り…物語として世に広める…語り草とする……。
この世語りにすることで、山姥の存在が昇華=さらなる高みへと至れる…。って、物語を求めて強くなろうとする「朧なるものたち」と大分重なってきませんか?
ただ、この「物語」というのは刀剣乱舞の世界において重要なキーワードとなっていると思います。なので、この解釈はこじつけといえばこじつけなのですが…。

この、「朧なるものたち」と能における「山姥」の行動や指向性が重なっているところに、「山姥を斬った」逸話を持つ山姥切国広が関わる…。
起こっちゃいけない化学反応が起こってしまいそうですね。なんてこったい。

能『山姥』を踏まえた刀ステ考察

前置きが大変に長くなりました…。これまでの能『山姥』を始めとして様々な文献や考察をしていった結論として、私なりに刀ステについて一つの仮説を立てたいと思います。それは、

「山姥切国広の影」は
(能『山姥』のシテである)「山姥」になろうとしているのではないか?

という説です。

①能『山姥』に描かれる山姥は、

  • 山廻りを続け、妄執が積み重なって生まれた存在であり

  • 人の世は「善悪不二」「邪正一如」=相対するものも本質は同じであると語り

  • 百ま山姥の曲舞が世に広がる=世語りされることによって「山姥」の存在が昇華され、悟りを開き浄土へと至れる可能性を説き

  • 輪廻を離れることができず、妄執に囚われながら

  • それでも山廻りを続ける(むしろ、やめようとすらしていない

という姿が描かれています。

②民俗学的な視点から見た山姥=山の神

  • かつては「山=異界」と考えていた山に住む人々からの信仰から生まれた存在

  • それが、人が山に抱く感謝や敬い、畏怖の念などが薄れていったことで

  • 「山の神」から人「を襲う化け物」へと零落していった

という考察ができます。

刀ステ外伝では、

  • 敵の「山姥」は能『山姥』のシテ(山姥)の性質を持ちつつも、「山の神」から「化け物」へと貶めた人間に恨みをいだき

  • 「君が代に障りをなす」=秀吉を殺し、天下統一を阻止しようとするところを時間遡行軍に利用され、「惑いの鈴」で氏直や刀剣男士たちを苦しめる

  • 山姥切国広はそれを打ち破る代わりに、「惑い続けること」=「能『山姥』のシテ(山姥)と同じ道を進む」ことを選択してしまう

ことが示唆されました。

④そして、刀ステ綺伝「山姥切国広の影」「朧なるものたち」

  • 時間軸を繰り返すことであらゆる陰陽を隔てる境界が消え去り、全てが反転する世界へと至ることを目指し

  • その過程の中で「物語」を得ることで強くなろうとしており

  • その姿が「善悪不二、邪正一如」=相反するものも同一のものであると語る能『山姥』のシテ(山姥)の悟りの境地

  • 百ま山姥が「山姥の曲舞」を世に広める=世語りをすることで、「山姥」である自分がさらなる悟りの境地・浄土へ至れる=昇華する

という部分で重なってくる、と考察しました。

以上のことから、上の仮説を立ててみた、というわけです。

この、能『山姥』のシテ(山姥)となろうとしているのが、自ら望んだことなのか、それとも不可抗力だったのか
そしてなにより、山姥切国広自体もこの「山姥」になろうとしている、もしくは、なる可能性を抱えている状態なのか

そこの答えは、「山姥切国広単独行」で明かされる…と期待しています。
いや、期待よりも恐怖の方が強いんですけどね。
一応、筆者は京都の公演に行くことができる予定、です。無事に観れたら(そして頭がパーンってならなければ)考察の答え合わせ…というか、考察し直そうかなぁと思っています。

あとがき

ここまで、個人の趣味語りに付き合っていただき、ありがとうございました。いやーーー、我ながら話が長い!!
何度も言っている気がしますが、能『山姥』は大変に奥が深い曲です。民俗学における「山姥」や「山の神」も解明されていない(解明できない)部分が多い分野です。調べていく中で、膨大な量の研究や考察が先人たちによって進められていて、ここに書ききれない程の内容がたくさんありました。また、私の浅学・短慮ゆえの誤謬も多々あるかと思います。
趣味の範囲でできるところまで…というと逃げに入っていると思われても仕方ありませんが、この考察をきっかけに、能の奥深さや面白さが少しでも伝われば、能楽に片足突っ込んでいる身としては嬉しい限りです。
(そしてあわよくば、刀剣乱舞と能楽のコラボを…何卒……!)

繰り返しになりますが、ここまで読んでいただきありがとうございました!

【引用・参考文献】

※最小限の情報のみで失礼します。
宝生流謡本「山姥」(昭和40年発行版)
観世流謡本「山姥」(平成9年発行版)
「能楽のなかの女たち」 著:脇田晴子
「山の神と日本人ー山の神信仰から探る日本の基層文化」 著:佐々木高明
「風姿花伝」 校注・訳:佐藤正英
「山姥たちの物語ー女性の原型と語りなおし」編:水田宗子・北田幸恵
「鬼の研究」著:馬場あき子
「新訂 妖怪談義」著:柳田国男 校注:小松和彦
「遠野物語」著:柳田国男
「日本の昔話」著:柳田国男
「山の人生」著:柳田国男
「日本人なら知っておきたい「もののけ」と神道」著:武光誠
「カラー百科 見る・知る・読む 能五十番」編著:小林保治、石黒吉次郎
「すぐわかる 能の見どころー物語と鑑賞139曲」著:村上湛
the 能ドットコム
同朋大学論叢81・82号 002沼波 政保「狂言綺語観の展開」

【追記1】

X(Twitter)のフォロワーさんから教えていただいたり気づかされたりした内容について、追記いたします。集合知に助けられています。便利な世の中になりましたね…!

能『山姥』と「月」の関連

改めて前述の内容を改めて考えれば、「輪廻を離れぬ」=「円環から抜け出せないでいる」となりますよね…。なら、三日月宗近こそ「山姥」じゃないか!と言われても然るべき、なのですが、「山姥」と「月」の関連があまりなくて、そこの考察が進められていませんでした。
そんなところで、いくつか気付いた&気付かされたことを紹介いたします。そこの考察はまだまだ進んでいないのであしからず…。

①能「山姥」で使用する扇
これは完全に書き忘れていました。能「山姥」で使用する扇の柄ですが、「山姥扇」と呼ばれる、満月に黒雲がかかった柄の扇を使用します。(特に観世流では専用扇となっているようです。もっとも、ほかの曲に流用することも可能だそうですが…。)
山ではなく、「月」をモチーフにしている…というところでの関連があるかもしれませんね。

②そもそも、山姥が出てくるタイミング
指摘があって気付きました…。そもそも、能「山姥」でシテ(山姥)は、「月夜に姿(自分の正体)を現す故、しばし待て。」と百ま山姥に伝えています。後シテ(正体を現した山姥)が出てくるのは「月夜」。「山姥」という人ならざるモノが現れる時間帯として夜は自然なことなのですが(能では後シテ…正体を現したシテが出てくる時間帯はたいてい夜や夢の中なので)、わざわざ「月夜」と言っているところも「月」と関連している…と言えるかもしれません。

③『我が名を夕月の…』の「夕月」
能「山姥」の解説の中で引用した詞章の中に、
『ましてや我が名を夕月の 浮世を廻る一節も』
とあります。これは、「我が名を「言う」」と「夕月=いうづき(と謡では読みます)」をかけている言葉遊びの一種なのですが…。
そもそも「夕月」=「三日月」を指すと言われています。
そして、フォロワーさんから指摘されました。
「夕月」=「ゆうづき」=「結う月」
…と、言うことは
「夕月」=「三日月」=「結う月」で「結いの目の三日月宗近」
が出てくるのでは…?!
この記述を見て「おわあああ!!」と鳥肌が立っていました。偶然かもしれないけど、三日月を掘り下げるととんでもないものが出てくるんじゃないかと震えています。

とまあ、ここはもっと掘り下げてもよかったかなぁ…と思いつつ。ちょっと時間がなかったのでここまでで…。
さらに発見があったら追記するかもしれません。あまり期待せずにいただければ…。

禅宗と「山姥切国広」との関連

こちらについては、私の拙作をきっかけに考察してくださった方がいらっしゃいましたので、そちらを紹介させていただければと思います。
一言で言えば、どうやら禅宗的な視点から見ても「山姥切国広」はいろいろと抱えているぞ…!というところでしょうか。
めちゃくちゃ面白い&勉強になったnoteです!!私がすっ飛ばした部分の補完になるかと思いますので、ぜひお読みいただければ!
(作者様から許可をいただいてリンクを貼らせていただいています。)

https://note.com/bonto_sl/n/n5ebadf9d9893

最後になりますが、noteへの「スキ」のリアクションやTwitter(X)でたくさんの反応をいただき、ありがたい限りです…!
不慣れな人間が書いた記事には余りある光栄でございます。重ね重ね、ありがとうございました!

【追記2】能『山姥』と「三日月」の関連?

何度も何度も付け足しですみません……。
能『山姥』と「三日月」の関連を一つ発見したのでご報告です。完全なる見落としです…はい……。

能『山姥』の後半部分(後場と言います。シテが一度幕の中に入って再び登場する部分です)、後シテ(正体を現した山姥)が登場するまでの間、ツレ(百ま山姥)とワキが「待謡」という謡を謡います。

手まづさへぎる曲水の  に声澄む深山かな

宝生流謡本『山姥』P,15

手まづさへぎる曲水の」とは、「」にかかる序詞です。この謡では「盃(つき)」と「月」をかけているわけなんですが…宝生流の本文大意(現代語訳)では「盃のような月」と訳されています。

……いや、盃のような月って、三日月のことだったりしません??
この『山姥』で出てくる月って三日月のことなんです???

…とまぁ、X(Twitter)では騒いでましたが、よくよく考えたらこれ、盃を上から見る形なら満月だよなぁ……。平安時代あたりでは盃に月を映して月見を楽しんだという話もききますし、必ずしも三日月を表すものでもないかも……?とも思っていたわけなんですが。

月と盃でいろいろ調べてみたら「月の杯」という言葉を見つけまして。

杯を月にたとえていう語。美しい杯。

コトバンク  小学館/デジタル大辞泉

ちなみに、この言葉、能『紅葉狩』で出てくるんですって、わーお。『紅葉狩』は戸隠の鬼女伝説を元にした能ですね。これを元につくられた歌舞伎だと鬼女退治に小烏丸が使われるので、ご存知の審神者方もいらっしゃることでしょう。

月のさかづきさす袖も 雪を廻らす袂かな

宝生流『紅葉狩』P,14~15

ここの本文大意は「月の様な盃をさし交わし、舞の袖も美しく翻される事である」とあります。
ところで、この『紅葉狩』は珍しく物語の中で日付が明言されています。それが「長月二十日余り」つまり「9月20日過ぎ」ですね。もちろん、旧暦の日付ですから、この頃の月といったら「下弦の月」ですかね?ちょっと時期としては過ぎているような気もしますが、月齢20後半だったら、三日月の形(反転した形ですが)だとも言えるのでは??
ということで、『山姥』の月も三日月である可能性が残っているような気もします…!

と、言っても。月齢云々を掘り下げると別の方面に行きそうな気もしますのでこの辺りで…。そもそも、能の詞章はありとあらゆる古典の引用と掛詞で作られているので、一言一句全てを調べたら骨が折れるどころか粉砕骨折するのでご容赦を………。

ちなみに、能で「三日月」が描かれる代表作は『融』があります。源融(の幽霊)をシテ(主人公)とする曲ですね。この曲の中では融が三日月を様々なものに例えて行きます。舟や弓や釣り針…といった具合に。
ちなみに源融は光源氏のモデルの一人だとか、『融』という曲は追善の曲としてよく謡われるとか……掘り下げたらなんか出そうではあるんですけどね!!

さて。追記もこのあたりにして……。
気がつけば、単独行が目前に迫ってきましたね……。私は11月に現地に行くので、それまではネタバレを踏まないようにしたいのですが……耐えられるかな……。
また現地で見てきたらいろいろと追記したり新しくnoteを書いたり(自分で首を絞めるスタイル)するかもしれませんが、興味がありましたらお付き合いください!!

それでは!長々とお付き合いいただき、ありがとうございました!!

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