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「夢の家」が「悪夢の館」に変わるとき(新元良一)

「新元良一のアメリカ通信」第6回
In the Dream House: A Memoir”(夢の家で:ある回想録)
by Carmen Maria Machado(カルメン・マリア・マチャド)2019年出版

「メモアリスト(memoirist)」という言葉を、英語圏で書かれた文章、ことに文芸関連のメディアでたまに見かける。読んで字のごとく、メモワール(自伝)を書く人の意味だが、先ごろデビュー短編小説集『彼女の体とその他の断片』が翻訳刊行されたカルメン・マリア・マチャドは最新作のメモワール『In the Dream House: A Memoir』で、メモアリストの仕事について次のように言葉を綴る。

「執筆のなかにあって、場所はただの場所であってはならない。もしそうなっているなら、その著者はうまく書けていない。設定は不活発であってはならない。視点によって活性化するものなのだ」(拙訳)

幻想的な作風が魅力のひとつであるマチャドの小説だが、本書の冒頭で、この「夢の家(The Dream House)」という場所が虚構の空間ではなく、「リアルな場所」と主張している。

リアルというからには、地理的な位置も文章で記される。アメリカ中部インディアナ州にあるブルーミントンという町で、すぐそばにはゴルフ場があり、そこは地元の大学がオーナーであり……と、建築スタイルや部屋の様子からドアノブに至るまで詳細に描写する。

また、その場所へ著者が移り住んだ理由も紹介される。パートナーである女性が恋人と別れたため、自分とふたりだけの暮らしがそこで始まった。知的で美人、何事に対しても物怖じせず、気の利いたジョークも飛ばす彼女との新生活は、マチャドにとって桃源郷にいるような、まさに夢の世界であるはずだった。

ところが、いざ共同生活を始めてみると、愛の巣であるべき我が家が悪夢の館となる。著者に向かって暴言を吐くのは日常茶飯事で、友だちを招いたパーティでは料理番のごとくこき使われ、自分が運転中に、運転させろと強要されたので、ハンドルを握らせたらアクセルを踏み続けて暴走し、助手席にいて死の恐怖に晒される……と、桃源郷とは真逆の地獄絵図へ身を投げ出されるような経験をする。

パートナーが思いもしなかった言動に走り、著者に困難を強いるのは、両者の力関係に起因する。

先に住み始めて、借主の名義も相手であれば、いかに恋人とはいえ、後から生活をする人間は居候的な立場だ。それでなくとも肩身は狭いが、やがて相手が権力者として振る舞う主従関係の間柄に変わっていき、著者が無力感と絶望に苛まれる様子は読むだけでも辛い。

断片から浮かびあがる「権力者と服従者」の愛憎関係

メモワールという形式において、語り口や構造は一様ではない。だが社会や時代的な背景を保持しながら、著者自身や周囲の人たちのキャラクターや行動を捉えつつ、ひとつの物語を紹介していくのが一般的だろう。

しかし本作はその意味で、メモワールの体をなしていないという声が挙がるかもしれない。「夢の家」に住むふたりのエピソードは紹介されるが、時系列ではなく、全体を通じ断続的に挿入される。これ以外に小説やテレビのコメディ番組、映画に関する文芸評論など脇道にそれる章も出てきて、統一性を欠く作品のようにも思える。

だが読み進めるうちに、こうした断片のひとつひとつが大きな括りを形成しているのに気づく。それは、権力者と服従者の愛憎まみれた関係である。

たとえば、先の文芸評論だ。『アイ・ラヴ・ルーシー』や『スター誕生』などととともに、往年の名作映画『ガス燈』が取り上げられるが、主演のイングリッド・バーグマンの妻が夫に虐げられ、やがて正気を失っていく姿は、その前後で書かれているパートナーに人格性まで否定される著者自身の苦悩を一層際立たせ、その痛みが切実に伝わってくる(それにしても、マチャドによる評論は舌鋒鋭い。こうした博覧強記的な文芸論を展開できるのは、欧米の現代作家ではゼイディ・スミスぐらいではないか)。

かと思えば、<Dream House as Cautionary Tale(注意書きとしての夢の家)>と銘打たれた章では、比喩的なストーリー(フィクション?)が書き綴られる。車の運転中の話は本書で何度か登場するが、この章では著者が黄昏迫る田舎道を走っていると、ガソリンが減っているのに気づき、ガソリン・スタンドを探しに寄り道する。GPSでしっかり位置確認したが、いくら走ってもガソリン・スタンドは視界に入らない。この先も人気のない道路を見て不安は募るばかりだが、「誰しも道に迷う」という短文でエピソードは締めくくられる。

「仲睦まじい同性愛者のふたり」というステレオタイプ

先の“大きな括り”を突き詰めていくと、この「誰しも道に迷う」にたどり着く。本書は、相思相愛の間柄と思っていた人間から虐待を受けた経験はたしかに記されるが、それは泣きごとやぐち、不満といった種類のものではなく、元パートナーに対して恨みを晴らしたいから罵倒するものでもない。
人間なる生き物は虐待をされ、虐待をするどちら側にもなり得る、と本書は示唆する。自宅にいたネズミやゴキブリを見つけ、力任せに著者が退治するエピソードが紹介されるが、まるで普段イジメを受ける腹いせに、無抵抗の相手に我を忘れてとどめを刺そうとする彼女の姿から、虐待が生み出すトラウマの根深さに背筋が寒くなるほどだ。

マチャドの鋭利な考察とその言葉は、同性愛への偏見にも別の角度から光をあてる。

「自分たちの愛情の祝福はうまくやれても、楽園どころか、恐怖と暴力という地獄の生活をするレズビアンもいることに、我々は耳を貸したがらない」(拙訳)

フェミニズムの媒体「off our backs」に掲載されたリサ・シャピロの文章を引用するマチャドだが、こうした見解は同性愛者だけでなく、異性愛者が抱いても不思議でない。

つまり、障壁や困難あってもそれを乗り越え、同性愛の人間同士が結ばれる。願いは成就したから、これから先はトラブルなどない、ふたり仲睦まじく生きていくだけ、というステレオタイプな発想だ。

しかし同性愛者もまた、「道を迷う」のを忘れてはならない。些細なことが気に障り、そして逆上し、暴力行為に至るケースはどんな人間にも起こり得る。その意味においても、冒頭に記したように本書で語られる夢の家は“リアルな場所”であり、だからこそ読者は我が身のこととして受け止めるのだ。

執筆者プロフィール:新元良一 Riyo Niimoto
1959年神戸市生まれ。84年に米ニューヨークに渡り、22年間暮らす。帰国後、京都造形芸術大で専任教員を務め、2016年末に再び活動拠点をニューヨークに移した。主な著作に「あの空を探して」「One author, One book」。

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