見出し画像

『3つのゼロの世界――貧困0・失業0・CO2排出0の新たな経済』

担当編集者が語る!注目翻訳書 第5回
3つのゼロの世界――貧困0・失業0・CO2排出0の新たな経済
著: ムハマド・ユヌス  訳:山田文
早川書房 2018年2月出版

本書は、2006年にノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌス氏の最新作(原書は2017年9月刊)で、ユヌス氏の4冊目の単著にあたります。わたしが編集を担当するのは、前作『ソーシャル・ビジネス革命』に続き2冊目です。ここでは、著者の既刊と異なる本書の特色、刊行時のプロモーション、刊行後の反響について書いてみたいと思います。

高まる世界への「危機感」を受けて

本書『3つのゼロの世界(原題:A World of Three Zeros)』は、副題にある通り、「貧困0(ゼロ)・失業0(ゼロ)・二酸化炭素排出0(ゼロ)の新たな経済」を目指そうという宣言の書です。原題にはユヌス氏の思想が端的に表れているので、直訳して邦題にも採用することにしました。

“貧者のための銀行”グラミン銀行を1983年に立ち上げ、世界最貧国と言われた母国バングラデシュの貧困率を大きく改善したユヌス氏は、現在、先進国を含む世界全体の経済格差に鋭い目を向けています。わたしたちが抱える諸課題を解決する武器として、繰り返し提唱されるのが、営利ではなく社会問題の解決を目的とした、持続可能な「ソーシャル・ビジネス」です。

ここまでは前作とも共通しており、若い世代に対する楽観的な信頼が根底にある点でも同様ですが、著者のなかで、世界の現状に対する危機感が非常に強まっている様子が本のそこかしこから伝わってきます。冒頭に掲げられた一節は象徴的です。

「膨大な富と権力がわずかな人間に集中するのを許すと、国家にとって危険だ。アメリカの大統領選挙を制した人物が、国のリーダーとしては何の実績もなく、莫大な個人資産を持つだけの男だったのも、おそらく驚くべきことではない」(『3つのゼロの世界』12P)。

また後半では、「人類が生き残り繁栄するのに必要な新たな経済システム」を築くための必須要素として、政府の「グッド・ガバナンスと人権」の保障を挙げ、それを蝕む「死に至る病としての腐敗」が論じられています。これは、日本が今まさに直面している深刻な課題ではないでしょうか。

貧困、失業、地球温暖化――どの問題も、資本主義社会がはらむ矛盾や複雑な利害関係が絡まりあっているため、一足飛びの解決は難しいものばかりです。けれども、今の世の中を俯瞰しながらも、ソーシャル・ビジネスの有用性を説き、実践するユヌス氏にならい、私たちもソーシャル・ビジネスをあちこちで地道に実践し続けることで、その突破口が見えてくるのではないか? そう思わせてくれるポジティブな経済書です。

来日時に垣間見たユヌスの横顔

翻訳と編集の作業は2017年9月からスタートしました。同年11月にユヌス氏が講演で来日された際には、訳者の山田文さんとともに会合の場を設け、今後の予定を協議しました。

「翻訳の進捗は順調か?」「電子版はいつ出るのか?」「メディアのインタビューは何件入れられるか?」――11月の会合では、ユヌス氏から矢継ぎ早に質問が飛んできました。前述の危機感からか、本書にかける思いの強さ、「なるべく多くの人にその内容を伝えたい」という気持ちが伝わってきました。「電子版も同時に出します」とお答えしたところ、とても満足気だったのは、つねに最新のテクノロジーを取り入れるのに積極的なユヌス氏らしいなと感じました。

写真:ユヌス氏からいただいた直筆サイン入り原書

邦訳版の特典として、著者からご指名があった安浦寛人氏(九州大学・副学長)に長年の交流を踏まえた巻末解説をお願いし、本書中にも登場するユーグレナの出雲充社長からは力のこもったオビ推薦を頂きました。装幀は、東野圭吾『祈りの幕が下りるとき』や國重惇史『住友銀行秘史』などの話題作を多数手がけるベテラン・デザイナーの岡孝治氏に依頼し、本書にしっくりなじむ端正な装いに仕上げて頂きました。

邦訳版は予定通り、2018年2月下旬に出版。3月下旬にはユヌス氏が来日し、6日間をかけて京都・東京・広島など日本各地で出版記念を兼ねた講演を行いました。分刻みのスケジュールの合間を縫って、テレビや新聞、ウェブなど各メディアのインタビューにも快く応じてもらいました。

過密日程の疲れを微塵も見せず、鋭いまなざしを向け、身を乗り出してインタビュアーに語りかける氏の姿は、78歳とは思えない迫力あふれるものでした。青山の国連大学でインタビューに臨んだユヌス氏の尽きることのないパワーには、NHK「ニュースウオッチ9」でキャスターを務める有馬嘉男氏も「すごい」と舌を巻くほど。また、ある取材では、失業問題の解決策として提唱されているベーシック・インカム(BI)は、「真の解決にはつながらない」と、言下に否定していたのも鮮烈な一幕でした。持続不可能な単なる施しを嫌い、貧困者の自立を何よりも重視するグラミン銀行の創設者らしい言葉でした。一方で、わずかな隙間時間にはスマホのメールチェックを欠かさず、世界を飛び回る社会起業家・モチベーターとしての横顔が垣間見られました。

ソーシャル・ビジネスの実践者、ユヌスの現実的な提言

著者の来日と前後して、新聞や雑誌、ウェブにも多くの書評が掲載されました。東短リサーチチーフエコノミストの加藤出氏《朝日新聞》(3/25付)や東洋英和女学院大学客員教授の中岡望氏《週刊東洋経済》(3/17号)など、経済畑の評者による書評が目立ちました。いずれも、著者の実践に裏打ちされた主張の確かさに触れ、単なる「夢物語」ではない、現実的な提言だと述べられています。

《AERA》(4/23号)では、テレビでもおなじみの経済評論家・森永卓郎氏が次のような書評を寄せています。
「経済原理ではなく人間の善意に基づく改革は、もしかすると本当に、資本主義がもたらした矛盾を解決する突破口になっていくのかもしれない」

深刻化する経済格差や、その表出としてのナショナリズムの高まりなど、わたしたちが直面するのは一筋縄ではいかない難題ばかりですが、読んでいるうちに前向きな意欲が湧き、実践的なヒントも与えてくれる稀有な本です。ユヌス氏のこれまでの著書を読んでいない方はぜひ、本書から入門していただきたいですし、既刊を読んだ方には、実践を続けるユヌス氏だからこそ「現時点における決定版」として、じつに旬な一冊としておすすめします。

執筆者:三村純(早川書房 第一編集部)


よろしければサポートをお願いいたします!世界の良書をひきつづき、みなさまにご紹介できるよう、執筆や編集、権利料などに大切に使わせていただきます。