メタモルフォーシス
あれはどのくらい前のことだったか……。とても大切な思い出。
今では我が子は二人の青年だけれど、まだ赤ん坊がひとりきりだった頃。
ここでない場所でつぶやきのようなヒトリゴトを書いていた。
その人はふと私のもとに立ち寄った。
もちろん私だけなんてことはなくて、他にも何人もの人たちのところに寄っていた。
その人が何度も私のもとを訪れて気軽に話かけるから、私もすっかり気を許してしまった。
その人は遠い亜熱帯地域に住んでいて、周りに日本人がいないから日本語が恋しくてブログを書き始めたのだと言っていた。プロフィール写真は少し白っぽくて靄がかかったみたい。少しけだるげで寂しくて優しそうな瞳をしていた。
その人のつぶやきは異国での従業員や近所のお店の人とのやり取り。
異文化での驚きや大変さを面白く、愛がある書き方で紡いでいた。
私が何かを書くと驚く速さでコメントが入った。その人の提供する話題に楽しい気持ちにさせられて気軽にコメントした。
そこに集まる人たちはみんなその人を好きだった。
誰一人顔を合わせたことはないけれど、それでもネットの向こう側にいるのは生身の人間なんだと分かっていたしその人の作る世界は愛に満ちていたから安心していた。
好きな彫像として、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの「アポロンとダフネ」の話を書いた。
アポロンはエロスの矢で射貫かれ最初に見たダフネに恋をする。けれどダフネから強い拒絶にあい、ダフネは父親ゼウスにアポロンから力ずくで奪われないように懇願する。そのとっさの願いを聞き入れたゼウスはアポロンに触れられる瞬間、ダフネを月桂樹に変えてしまう。
ベルニーニは恋しいダフネに今しも触れようとする若く麗しいアポロンと、強い拒絶により月桂樹に変わる瞬間のダフネを美しい姿で彫刻にした。
これをアップした後、夜中にふとブログ内の手紙ボックスにメッセージがあるのに気がついた。
その人は美術収集を生業にしていたこともあったらしい。
ベルニーニの作品にとても感動したらしく教えて貰えてうれしかったこと、日本にも海外に誇れる繊細な彫り物があること、根付や煙草入れや印籠は小さいながらも海外のオークションで評価され高値で取引されるのだと教えてくれた。
ブログにはそんな話を書いたものはなかったから少し驚いたけれど、私の中ではなんだか急に距離が縮まったみたいな気がして、気まぐれなエロスの矢が私にも刺さったのじゃないかしら?といぶかった。
それから個別のやり取りが始まった。その人はいつも丁寧で優しくどんな時も前向きだった。
ふたりきりの話だったのでなぜ日本を離れ異邦人になったのか、
好きな人と結ばれなかったのかという話も聞いた。
ダフネは月桂樹に変わってしまったが、真逆の方向に私のこころは変化していった。
その頃天然石に惹かれていた。パワーストーンとも呼ばれ気に入った石は石の方もこちらを気に入り後押しをしてくれる。
当時気になっていたのはメタモルフォーシス。「変容」を加速させるパワーストーン。優しい色をした水晶で、クリスタルヒーラー、メロディ氏が名付け親の石だ。
このアポロンとダフネの話は「変身物語(メタモルフォーゼ)」と呼ばれる。
不思議な偶然が重なっている気がして運命というものがあるとしたらきっとこの出会いも決められているのかもしれないと感じた。だけど…。
ふたりきりのやり取りをはじめてしばらく、季節は真冬から桜のつぼみがふくらみ始めるころになりブログの内容を読むうちになんだかきっとこのまま
その人がここからいなくなるような気がした。
一次帰国だと書いていたがもう二度と会うことが出来ない気がしていた。
なぜ自分がそんな気持ちになったのか分からない。
信じていたけれどその人の話の全てが本当のことかも分からない。だからその人が実存するかなんてことも当然分からない。
分からなくても……それでも私は信じていた。
翌日その人のブログには交流のあった私たちに向けてさようならを伝えるような文章が載せられた。数か月間の交流と感謝のことばでブログは埋められていた。
その文章を読んだとき、自分の気持を伝えずにこのまま終わるのは嫌だった。
まったくどうかしている。
いるのかも分からないのに。そう思いつつ、どうしてもその人が嘘を言っている様に思えない自分がいた。
もう二度と会えない、こうしてその人の文章を読むことが出来ないのじゃないかと思うと泣けて仕方がなかった。この場所から消えて欲しくなかった。きっと永遠に会うことはないその人にいなくなって欲しくなかった。失いたくなかった。私たちは顔を合わせることも実際に声を発することも聞くこともない。それがこのブログの中でのルールだと暗黙のうちに分かっていた。それでもその人は数か月の間に私の中で特別な存在になっていた。
こんなにも切ない気持ちにさせるのはなぜなんだろう?どのくらいぶりなんだろう?そう自分でも可笑しいと笑ってしまうくらい特別な存在になっていた。
最後のプライベートメールには、会ったこともないあなたが好きでした。
そう書いた。いつも早い返信がその時だけは間が空いた。返信には
色々と書いたけれど、それもこの海に流します。どこにいてもお元気でいてください。
そうあった。
そしてブログは残されたまま主は姿を消してしまった。主不在のブログを私は忘れることはなかった。だけど現実を生きないとならない。肉体を伴った私たちはことばの中だけに浸ることはできないから。
いつもこころの底に閉まっておいた。想いと共に、ひっそりと鍵をかけて。
数年後私は再び主不在のブログに訪れた。ふとみると、当時のブログ内の知人がコメントを残していた。
今でもたまに訪れています。あなたのプロフィール写真をみて思い出しています。あの時色々な励ましを頂いたこと、今も忘れません。
彼もまた勇気を貰ったひとりだった。ことばだけの関係。だけどそれでもやっぱりその人はいたのだと今もどこかで元気に生きていてくれる。誰しもそう思いたいのだ。
はるか昔の話。しかし今もその想いは変わらない。痛いくらいに。
エロスの矢のかけらは消えることなく今も胸の片隅にひっそりと残っている。