プリンスのこと。
メルカリで市価の3分の1の価格で未開封(日本版限定3000部の高価な本なので、ビニ本のように1冊1冊シュリンクしてある)の『THE BEAUTIFUL ONES(『パープル・レイン』に収録されプリンスが大事にしていたかわいらしいバラードのタイトル)プリンス回顧録』(プリンス著/DU BOOKS刊)を買った。出品者の方に少しお勉強をしてもらいメルカリポイントも使ったので、結果市価の4分の1になった。
2年前に発売されたものだが、まったくフォローしていなかった。今年に入ってから何がきっかけでそうなったかは忘れたがディスカバー・プリンスをしている。その中で、この本に出くわした。俺は熱狂的なプリンスファンということではないので(その割に来日公演には何度も足を運んでいるのだが)、コアなファンのように細かな部分までは全然知らない。
プリンスの死後、たくさんの書物が出版されたが、とりわけ本書に興味を持ったのは「プリンス本人」が書いているという点である。アーティストもののバイオグラフィーはライターが聞き書きすることがほとんどだが、プリンスは自ら書こうとしていたらしい(「らしい」については後述する)。アーティスト本人が書籍を書いた例で俺が知っているのはピート・タウンゼントの『四重人格』くらいである(多分もっといろいろあるのだろうけど)。
とにかく、プリンス自身が筆を執った(プリンス・エステート公認)ということに驚き、ものすごく読みたくなった。そこで、まずはkindleでサンプルをDLしてみた。
プリンスは、本書を書くにあたって、(さすがにいきなりは書けないので)バディを組む編集者を「オーディション」したらしい。膨大な人数の中から選ばれたのが、本書に「編」としてプリンスとともにクレジットされているダン・バイ・へリングという人だ。ダンによるとまずは「志望動機」を書かされたという。そしてペイズリー・パークでの面接。ダンは若くてそれほどキャリアもなく無名ではあったが、プリンスのお眼鏡に叶い、その大役に収まった。
冒頭からしばらくは(本書の4分の1以上を占める分量になる)ダンによる本書の成り立ちと経緯が書かれている。というのも、プリンスは、(冒頭に記したように)もとからダンにゴーストをやらせるつもりなどさらさらなく、ダンにはあくまでも編集者として関わらせ、全部自分で書く気満々だったからだ。ところが、最後のツアーとなる『Piano and A Microphone』ツアーに忙殺され、しかもその途上で本人が亡くなってしまった。しかし、ダンによるとプリンスは一所懸命に自らの生い立ちから綴り始めていたようで、その志半ばの原稿が20数ページ分所収されている。したがって分量は少なくても、本書が世界にたった1冊しかない「Written by Prince Rogers Nelson」なのである。
俺が殊更に関心を寄せたのは単にプリンスの自筆というだけではない。Kindleのサンプル(ものすごく長いダンによるプロローグ)を読むと、どうやらプリンスは自著を『マイルス・デイヴィス自伝』やジョン・ハワード・グリフィンの『私のように黒い夜』(グリフィンが顔を黒く塗って黒人になったふりをして特に差別が激しい米国南部に潜入した歴史的ルポ)のような位置づけにしたかったというのである。
ここから読み取れるのは、プリンスはただのサクセスストーリーを書くのではなく、どうやら、Prince Rogers Nelsonという自分の生い立ちを通して、米国の病理的な黒人差別について歴史的、社会学的、文化論的、あるいは宗教的・思想的(エホバとの関連性もあると思うが)な「後世に遺る取り組み」をするつもりだったということだ。これはすごいことだと思う。 マイケル・ジャクソンもそうだったが、プリンスもまた、W・E・B・デュボイスから始まり、マーティン・ルーサー・キング、マルコムXへと連なる近現代における米国の黒人差別・黒人解放運動のことを体系的にきちんと勉強し、とても深く理解している(実体験としても)ことがうかがい知れ、ひとかたの人物としての「社会的役割」にどれだけ自覚的だったかということに俺はとても感動した。
余談になるが、ジェームス・ブラウンが自らのステージにマイケルとプリンスをそれぞれ呼び込み「俺のブラザーたちだ」と言い、二人の手を結ばせようとしたのだが、そのステージではJBの期待を裏切り二人とも目すら合わせなかった。
また、紆余曲折を経て最終的にミック・ジャガーとの共作になったマイケル・ジャクソンの『ステイト・オブ・ショック』は、当初のマイケルの目論見ではプリンスと作りたかったのだという。マイケルはプリンスをランチに招待し、その計画を打ち明けるもプリンスはまったく乗り気ではなく、ランチの間中気まずい沈黙の時間が流れ、プリンスが最後に「これは君一人でやった方がいいよ」と言って破談になった。本当に残念でならない。マイケルとプリンスの共作が実現していたら、どれだけ世界中の有色人種に勇気と希望を与え得られただろう。むしろ、ミックが仲立ちすればよかったのかもしれない。
マイケルとプリンスのことではもう一つエピソードがある。ダンによるとプリンスは「音楽にはマジックなんてないよ」と言ったという。一方、別なインタビューでマイケルの音楽について訊かれたプリンスは「彼の音楽はマジックだ」と答えた。皮肉なのか、まったく真意は分からないけれど、二人は水と油の運命だったと思うしかない。
(しかし、プリンスは自分のステージでマイケルやジャクソン5のカバーをよく歌っていたのだ)
ところで俺がプリンスを知ったのはプリンスがローリング・ストーンズの前座として81年の全米ツアーに帯同し、さんざんな目にあったという記事を当時読んだのが最初だった。日本でのデビューアルバムの帯には「黒いミック・ジャガー」などと記されていた。米国でもそのような扱いだったと記憶する。実際、プリンスはミックのパフォーマンスを模していたように思う。それがストーンズファンの逆鱗に触れ、すべてのステージで罵声を浴びせられ、コーラの瓶を投げつけられた。プリンスは最後まで自分のセットを演奏することができずに途中で下手に引っ込んだ。バックステージを訪れていたデヴィッド・ボウイはトイレで泣いているプリンスを見て「僕は、これからは前座を使わないことにした」と言ったのは有名な話である。
しかし、俺はこの経験こそミックがプリンスに分け与えたものだと思っている。
ミック・ジャガーの前座の選び方はかなりエキセントリックで(本当かどうかは定かではないが)、世界中からミックの元に送られてくるおびただしい量のシングルレコードをまるでレコード店で目当てのものを探すかの如く、秒単位で次々とジャケット「だけ」を見て決めていたらしい(気に入らないものは放り投げる)。いわゆるジャケ買いである。そして81年にプリンスが選ばれたというわけだ。
ミックは、ツアー後、酷評されたプリンスについてプレスに「お前ら、プリンスがどれだけすごいか、まるでわかっちゃいない」と言った。
一方、キース・リチャーズはプリンスをまったく評価していなかった。
どこが気に入らなかったのか、キースの視点は独特なので本当のところはわからない。しかし、後年(90年代)、「プリンスは素晴らしい」と言い張るエリック・クラプトンと言い争いになり一晩かけてその説を打ち負かして(キース談)、クラプトンから24金のカルティエ・パンテールを奪い取った(その時計をキースはいたく気に入り公私問わず長年身に着けていた)。
話をプリンスに戻す。
ストーンズのツアーで辛酸を舐めたあと、プリンスは憑つかれたようにダンスレッスンをし、ザ・レボリューションとともに世界を相手にするための本格的な活動を開始する。
『1999』を制作、間断なく『パープル・レイン』を映画とともに発表。これがプリンスの運命を変える一枚になった。レコードも映画も記録的大ヒット。84年から開始した『パープル・レイン』ツアーは後に歴史的ツアーと称されることとなる。
しかし、俺が今もってわからないのは、このツアーで何故プリンスが「パッケージ・ショー」をやったのか、ということだ。全員で踊るダンスとか、今から観ると目も当てられない「猿芝居」などをふんだんに盛り込んだショー。プリンスの音楽には、そうした演出は本来要らないはずだ(多分、この当時、マイケル・ジャクソンも88年のバッド・ツアー以前にはジャクソン5以外でパッケージ・ショーはやっていないはずだし、マドンナも85年からだ)。名演奏と言われるラストの20分にも及ぶ「パープル・レイン」の演奏も俺には演出にしか観えなかった。
うがった見方をしたら、とにかく名を挙げることを第一に考えたのかもしれない、とも思う。
また、余談。『パープル・レイン』をカバーする上で使われるFのコードをレギュラーポジションで押さえるギタリストがほとんどだが、正しくはウェンディ・メルヴォワンが使用する1フレットから5フレットまで押さえるワイドスプレッドのややこしいFである。これは本当に声を大にして言いたい。同じ3音を出すのにも、どこのポジションから拾ってくるかで、曲の表情が変わるのだ。リスペクトを持って他人の曲をカバーする時は、その意味の重要性に気づいてほしいと強く思うのである。
話がだいぶそれた。
俺が「生のプリンス」を目撃するのは86年の『パレード・ツアー』での初来日公演、横浜スタジアムである。もうずいぶん前のことなので、誰とどうやって行ったのかすら覚えていない。とにかく驚いたのは、オープンエアのスタジアムでの「完璧な音響」である。通常、オープンエアはインドアより格段に音が悪い。周りのビルやら木やらで、音が跳ね返ったり吸収されたりするからだ。しかし、プリンスはまったくの異次元サウンドを聴かせてくれた。まるでペイズリー・パークのスタジオでデジタルデータを聴かせてもらっているかのようなまったく濁りのない音。それだけで、満足して、感激して、ぽーっとなって誰とどうやって帰ったのか全然思い出せない。
あれから35年以上経つが、オープンエアでプリンスを超える音楽体験をしたことがない。
その後のプリンスについて、話したいことはまだまだ山ほどあるが、また別な機会に書こうと思う。
プリンスは生涯ラストツアーになってしまった『Piano and A Microphone』ツアーの頃には見るのも嫌になるほどギター嫌いになっていたという。たしかに最後のアトランタでのピアノ一台だけのショーでの演奏は、いろいろなギミックから解放され、インプロビゼーションも含め本当にのびのびとしていて素晴らしい(このライブをYouTubeで何回も観ているのだが観るたびに泣けてくる)。プリンスの名前を全世界に響き届き渡らせた『パープル・レイン』ツアーとは正反対のライブだった。プリンスクラスのアーティストともなると、レコードでもライブでも直近のものがそれまでのキャリアの中で最も素晴らしい出来栄えになると俺は思っている。パッケージ・ショーとしての『パープル・レイン』ツアーで大成功を収めた後、マイケルやマドンナ同様、なにかと世間を騒がせたプリンスだが、最後にたどり着いたのがピアノの弾き語りであったというのは、プリンスが「新しい地平」を発見したようで、とても深い感慨があるのである(このことについてはもっともっと思うところがあるので、また書きます)。
それにつけても、本書を完成させていたら「Black Lives Matter」のムーブメントもまた違った勢いのものになっていたかもしれないと思うと心から無念だ。
そして……。
最も大事なことを言い忘れていた。
俺はまだ、本書を1ページも読んでいないのだった。それどころかメルカリの売り主から届いてから、本に被せられたシュリンクすら開けていないのだった。
Kindleのサンプルしか読んでいないのに、とても無責任に偉そうに、5000字も駄文を書いてしまったことをここに謝罪し、猛省します。読了後にまた何かしら書きます。本当にごめんなさい。
ついでに、俺は音楽評論家でもミュージシャンでもないし、ましてプリンスの専門家でもないので、事実誤認や思い込み、勝手な想像などたくさんあると思いますので、都度ご指摘いただければ、これ幸いに存じます。
何卒よろしくお願い申し上げます。
よろしければチャリンとしていただけたら、この上ない喜びです。何卒、何卒!