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出生と還暦と寿司と

明日10月19日に誕生日を迎える。
満60歳である。いわゆるところの還暦である。
あとは死にゆくのみである。

俺は1年で一番好きな日が「自分の誕生日」と胸を張って言えるほどの「誕生日大好き人間」である。10月生まれなのに、お盆前からプレゼントのことを夢想したりしてワサワサ落ち着かなくなるほどの誕生日好きだ。
しかし、去年50代最後の誕生日を過ぎてから、今年の誕生日が来るのが憂鬱でたまらなかった。異常事態である。例えて言えば三度の飯より餅が好きな人が餅も喉に通らなくなったようなものだ。
それはもっぱら「歳食う」不安と恐怖によるものだ。

俺が子供のころは(50年くらい前)、還暦と言えば、男はすでに爺さんで、女はすでにばあさんだった。会社も定年だし、年金生活だし。もうあとは呑気に余生を楽しむことができる、とてもいい時代だった。
実際、俺のリアルじいちゃんは、戦前から国鉄に勤めていたのだが早期退職して、年金と恩給(準公務員扱いだったので)のダブルインカムで還暦前から安穏とした余生を過ごしていた。まあ、そのおかげで俺もいろいろなところに連れて行ってもらったり物を買ってもらったりもしていた。
いやー、じいちゃん暇だったなあ。子供の目にもわかるくらい。

俺の父親も国鉄マンだったのだが(じいちゃんの部下で娘、つまり俺の母親と結婚した)、JRになる直前、国鉄を早期退職した。
じいちゃんも父親も、還暦定年を迎える前に職を辞めていたのだ。
じいちゃんはともかく、父親の判断には俺も驚いた。俺は大学3年生になったばかりで、どう考えても仕送りに頼らざるを得なかったのに、辞めた。父親の少々「独特な生き方」については改めてご紹介したいが、父親もまた年金と恩給だけでやっていくのか、俺の学費はどうするつもりなのだ? と心配になった。
ところが、俺の心配をよそに見て父は、天下り先(なのか?)の地元銀行の仕事に就いた。まあ、よかったと思った。父は父で銀行の若い行員のみなさんに可愛がってもらい集金なんかに行ったりして「第二の人生」を楽しんでいたようである。

じいちゃんはとうの昔に亡くなってしまったが、85歳くらいで亡くなったので30年以上安泰な年金・恩給生活を送った。
父も母とともにかなりよれよれになってはいるが、2人とも90歳を超え、施設暮らしをしている。父と母は40年以上、年金と恩給暮らしだ。

俺は勤め人の人生を歩まなかったので、そうした呑気な余生の暮らし向きができそうにもない。なにしろ年金以外に「2000万貯めろ」と言われる国に生きているのだ。
無理である。どうなってしまうのか。

じいちゃんや父母を見てもわかるように、どうやらウチは「長生き」の家系みたいだ。日本の成人男性の平均寿命は約81歳らしいが、それだと20年しか生きられない。今の父の歳まで生きたとしても30有余年。2、30年なんてあっという間だ。生活がつらいまま近々死んでしまうのか。大した活躍もしないうちに。
これが今現在、最も不安な材料だ。

ところで、恩師がかつて大学のご同僚から聞いたお話。
「子供時代は見るもの聞くものが新しいものばかりで、情報処理に時間がかかる。そのため時の流れが遅く感じる。しかし、大人になるとすでに経験したことをリロードするだけなので、ものすごく時間が経つのが早く感じる」
なるほど。
でも、大した人生経験もないのに、あっという間に80、90になって死にそうなんですけどね。


閑話休題

せっかくなので、俺が生まれた60年前の話をする。
俺は山形県で生まれた。

大学を出て就職したその年の夏休みに帰省した時、父母から「お前が生まれた場所に行ってみないか」と誘われた。今は内陸部に実家があるが、父が酒田という海沿いの街の駅に勤務していたので、そこでしばし赤ん坊時代を過ごした。
山形の暑い夏の陽の中、親子3人で「最上川下り」のように車で川沿いを走り、風光明媚な最上川や連なる山々などを観ながら、父が酒田へと車を走らせた。
酒田に着くと、まずは父母と姉2人、そして赤ん坊の俺、5人が暮らした「国鉄官舎」を見に行った。正しく、当時のままに遺っていて初めて見た出生の場所で俺もしみじみとしたのである。
それから港に面した大きな公園(北前船の原寸大のレプリカが設置されていたりする)に行ったり、羽黒山で「即身成仏」になった仏様がまつられているお寺などにも行った。その寺のスーベニアショップで「上人様の衣の切れ端」が入っているという(本当かどうかは知らない)、御守りを買ったりした。余談だが即身成仏になるには……。この話は長くなるで、また別の機会に「即身成仏になるためのノウハウ」としてご紹介しようと思う。

そんな市内観光を楽しんで車を走らせていると、ある産婦人科の前を通った。すると後部座席で、若いころ暮らした町の思い出がよみがえってきたのか、母がとんでもないことをカミングアウトし始めた。
「ここの病院でアンタを堕ろそうかと思ったんだよ、まだあるね、病院、ね、おとうちゃん」
「はぁ???」
なんつーことを言いだすのだ、かあちゃん!
オヤジも
「そうそう、まだあるね」とか運転席で言っている。
「堕ろされなくてよかったでしょ? おかあちゃんとおとうちゃんが頑張って育てたんだから、ありがたく思わないと」
意味がわからなかった。何故堕ろそうとしたのか、そして堕ろされなかった方が幸いだったのか、堕ろされた方が空蝉の苦行をしらずにいられたのか、すぐには自分の中での答えはでなかった。
でもまあ、俺はそういうことにいちいちショックを受けるタイプではないし、父母のキャラクターについても別に人格者である必要もないと、割と小さいころから思っていたので、とりあえず笑っとけ、と。
俺が笑ったら父母も大笑いした。
窓を開けた車の中に入ってくる夏の風にバカ家族3人のバカ笑いが流されて消えた。

そんなことをしているうちに、お昼になり父母が「あの懐かしいお寿司屋さん、あるかね?」などと言い出した。
どうやら港町に来たことと思い出が入り混じって寿司を食いたくなったらしい。港町+思い出=寿司、というのはなんとなく理解できた。
社会人1年目の夏休み。ここは俺が父母に日ごろの感謝とご愛顧を込めてご馳走する場面である。果たして、思い出の寿司屋はまだ健在で3人で寿司を食った。しかし、寿司を食いながら、目の前で俺の驕りで寿司を食っている夫婦は俺を亡き者にしようとしていた奴らだよな、と思った。亡き者にしようとした奴らに寿司をご馳走している俺は一体、本当に現世に存在しているのだろうか、とも。
深く考えるのはやめにした。
いずれにしても、夏の陽を浴びがら、観光したり寿司食ったりしてよかったじゃねえか。少しは親孝行もしたし。でもな、とうちゃん、かあちゃんよ、俺を堕胎していたら今日の寿司はなかったんだぞ、と帰りの車の中で独りごちた。

明日、還暦になることについて書いていて、いろいろなことが走馬灯のように、とりわけ「衝撃的な出生の秘密」を思い出したりして、とりとめのないバースデー・イブになってしまった。
まあ、確かに堕胎されていたら、還暦にはならなかったよな、と苦笑する。
走馬灯……。死ぬのかな。俺。

もう一度正気を取り戻し誕生日を過ぎたら「還暦」については落ち着いて考え、書いてみたいと思う。
さしあたり、今日明日は笑っとく。


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