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余はいかにしてテュル活民となりしか

今回から、各メンバーがローテーション形式で記事を随時更新していくことになりました。ひさしぶりの更新ということもあり、会の活動活性化の言い出しっぺでもある、弊会代表の私からまず書いてみようと思います。
私個人のnoteアカウントもあり、普段はそちらのほうにテュルクやテュルク諸語のいろいろなトピックで雑文を書いておりますので、そちらのほうもフォローしていただけるとありがたく存じます。

友の会の記事としては久しぶりの更新となりますが、今回のテーマは「私とテュルク、またはその出会い」というテーマで書いてみたいと思います。なにとぞ、雑文ご容赦のほど…。

トルコ(語)との出会い

長崎に生まれ育った私にとって、実生活ではトルコとも、ましてトルコ語とも全く接点はありませんでした。「外国語」といえば英語という世界。長崎という土地柄でありながら、中国語もオランダ語も身近な存在ではありませんでした。

私自身も、中学校ではじめて外国語として英語に触れ、両親が昔買ったであろう洋楽のカセットテープを聴いてビートルズいいね、と思うくらいで、受験のための教科としては得意だったという程度です。

そんな自分が、突然トルコ・トルコ語に目覚めるきっかけは何かといえば、もう一つしかありません。そう、一冊の新書です。

へえ、トルコという国があるのか。そして、文字になっていない言語というのがあるんだ。フィールドワークしてそれらを書き記していくという仕事があるんだな。そして、実際フィールドワークするといろいろと障壁が出てくるらしい…etc.

そういったことがヴィヴィッドに書かれている本でした。
これは面白そうだ。それに英語じゃない言語を使いこなすっていうのはかなりカッコいいことではないか?ということで、大学ではそれを目指そう。

当時の私は単純でしたから、すっかり影響を受けてしまったのでした。大学を卒業したらどんな生活を送ることになるのか、どんな生活を送りたいのか、どんな職に就きたいのか。そういったことを全く考えずに、とにかく外大生になる自分のことだけをイメージしていたように思います。

今タイムマシンで戻れたなら、涙ながらに当時の自分をあの手この手で違う道に進むように説得したでしょう…(たぶん)。

外大トルコ語を目指す

高校のかなり早い段階から、外国語大学のトルコ語専攻を目指す決意を固めたのですが、しかし、当時の「トルコ語専攻を目指す」と意思表示をした時の、周囲の反応の冷たかったこと。

曰く、「トルコ語とかしてなんの役に立つとか」(筆者注:長崎方言として脳内再生してください)、「九大ば受けて落ちるとの怖かけんそげんところに行くとか言いよっとやろ」(嗚呼悲しき受験ハイアラーキー思考!)、「外大でトルコ語専攻に入ったところでトルコ語のできるごとなるもんね?」(それは自分次第じゃないのかッ)、etc.

まあ散々な言われようでした。自分の両親とも一度激論を交わしたこともあります。それはどのくらい仕事を得るのに役に立つのか、というのが一番痛いパンチでした。

もちろん今となってはその言葉の意味がよくわかるのですが、そんなこといまさら言ったって仕方ないところ…ありますよね…?

幸いにして、受験科目としての英語は得意で、高校2年生くらいから外大受験を意識して勉強していたように記憶しています。そうして高校卒業後1996年の春、私は運よく阪外国語大学(当時)の門を叩いたのでありました。

大阪外大の思い出はたくさんありすぎて、ここではとうてい書ききれないわけですが、地域文化学科という枠組みでトルコ語に触れたということは、今になってみれば自分のライフスタイルやテュルク世界に対する見方にもある程度影響を与えてくれたかもしれません。またこの学部の時期には、日本語学や言語学の授業にも影響を受けたほか、キリル文字で表記されるテュルク諸語の授業ものちの自分に大きく影響を与えてくれたように思います。

ウズベク語に触れる

大学卒業後は大学院に進学して、博士課程在学中の2004年にはトルコ政府奨学金制度に応募して、1年ほどトルコのアンカラ大学に留学する機会がありました(留学の話もいずれ、稿を改めて書いてみたいと思います)。

留学前よりは多少トルコ語の運用能力に自信をつけて帰ってきた私でしたが、日本に戻ってからトルコ語を使う仕事を探すのにはなかなか苦労する状態でした。

そんな中、ウズベク語の研究・教育の基盤を作るプロジェクトに参加する機会がありました。ほかに選択肢もない(なんせ仕事が欲しいわけです)ということで、当然のごとくやります(やるしかない)、ということになります。そうして2007年秋から4年半ほど、ウズベク語の勉強をしつつ、教材を作ったり研修の担当をするなどの機会を得ました。

ウズベク語をやっていなければ、その後テュルク諸語全体に自分の関心が向くことはなかったかもしれません。その意味では、自発的な選択とは言いにくかったとはいえ、ウズベク語に触れたという経験は大きかったと今でも思います。

アゼルバイジャン語と出会う

2012年にウズベク語のプロジェクトは終わったのですが、当時の自分は結局ウズベク語それ自体は面白いなと思いつつも、なかなか語学としての勉強を続けるモチベーションがわかないなと感じていました。

いろいろ理由はあると思うのですが、やはり最初の出会いがある意味では不幸だったということはあるかもしれません。つまり、自分から主体的に選んだ言語ではなかったということが大きかったのかなと思うのです。

そんな中、本当に偶然のタイミングで、アゼルバイジャンを訪問する機会がありました。2014年の春、ご招待を受けてそれまで特に関心を持っているとも言えなかったアゼルバイジャンのバクーに行ってみて、さまざまなことにすっかり感動してしまいます(このあたりのことは個人のページにも一度まとめたことがありますので、下記リンク先などもぜひ訪問していただければ幸いです)。

以後、2014年ごろから本格的にアゼルバイジャン語の勉強にとりかかることとなりました。アンカラで日本語教師の仕事をしていたのもちょうどそのあたりの時期で、日本語教育とテュルク諸語(研究)というのも実は自分にとっての大事なテーマとなっています。現在はトルコから帰国して、日本でトルコ語の仕事を中心とした活動を始めて現在に至ります。

テュル活民の一人として

長々と書いてきましたが、簡潔にまとめると最初は何も考えずトルコ語をやってみようかなと思ったのが運のつき、そこからいろいろな縁があってウズベク語、アゼルバイジャン語と渡り歩いて、気が付けばテュル活を毎日叫ぶ日々をすごしている、といったところでしょうか。

現在は、ここ「テュルク友の会」も有志で発足しつつ、個人としても「テュル活」というキーワードというかスローガンを掲げて生活しているわけですが、このテュル活という言葉の生みの親は、残念ながら私ではありません。ツイッター上でたまたま目にしたこのワードのハッシュタグを目にして、あっこれいい響きだな…ということで自分でも使うようになって現在に至るというわけです。

テュル活とは何か。
これはもう、そのままの意味です。テュルクに関連することで活動することのすべてが「テュル活」です。語学はもちろんのこと(語学はやりましょうぜひやりましょう)、トルコ式にチャイを飲むのでも、ウズベク料理を食べるのでも、はたまたテュルク諸語の『星の王子さま』を蒐集するのでも。

自分のライフスタイルにちょっとしたテュルク的要素を取り入れると、殺伐としたこんな世の中でもなんとかやっていこうかという気分になれる(当社比)というのですから、人におすすめしないわけにはいきません

幸いにして、私的にも公的にも、「テュルク」的なことにかかわれている日々を最近は過ごせていますが、パンデミックの早い終息を信じて、いろいろな人を巻き込んでテュル活をさらに広げていくことができたら楽しいのではないだろうかと考えています。「友の会」は、その活動の実現のための大いなる第一歩となる…でしょう。きっと。たぶん。おそらく。

そんなわけで、当面は私を含めた初期メンバーで、ここnoteやSNSの活動をスタートしていきたいと思います。テュルク、テュルク諸語にご関心のあるみなさまとの交流促進がかなうことを願ってやみません。
今後ともご支援ご協力のほど、会を代表してお願いいたします。

(文:吉村 大樹(「テュルク友の会」代表))


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