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忘れては、いけない記憶

こんばんは、卯月螢です。
自分の感覚と向き合いながら、絵や詩や文章を制作しています。

現在、自身のウェブショップと連動した掲載期間中の詩画集「孤独の樹海」

とある掲載作品についてFacebookのイベントに紹介文を書いていたら、急に当時の事を思い出してしまい暫く全部の電源を落として外を見ていました。
noteにも書いておこうかどうしようかと、さんざん考えて・・書かないとスッキリしないなと思いの現在です。

少し暗い文になるかもしれないので、苦手な方はすいません。

「残響」という作品につての話です。

2021年制作 410×318㎜
インク・紅茶・アクリル・水彩・ケント紙・木製パネル

短編を書いた「深淵」と同じ時期の事を思い出し描いたものです。

耳を塞ぎ、体中に蔦が生え、身体もヒビが入って今にも崩れそうな姿のモノ。傷ついた蝶に、舞う色とりどりの枯葉。

「深淵」は見た悪夢についての作品でしたが、これは今でも心の傷として疼く事柄の作品です。
何処かの記事に前職は介護職をしていた事を書いたと思うのですが、身体介護より傾聴が得意でした。
今思えば気質のお陰で何かを他人より察する事が出来たと思うのですが、足を悪くして退職しても「他人の気持ちを察する事」については得意であると自負していたところがあります。
コロナ過の緊急事態宣言の中での自宅介護。
少し親とはわだかまりがありましたが、その事を抜きにして支えようと寄り添おうと覚悟して介護と向き合いました。
「医者でも親の介護は難しい」
と周りの人に良く言われましたが、経験者である事と察する事が得意であった事が自信と心の支えになりました。
しかし、現実は甘くない。
直ぐに他人との接触が出来ない環境の中で、その自信が少しずつ崩れていきました。
寄り添う事、気持ちを察する事が仇になった。
私が察してしまうばかりに、寄り添いすぎたばかりに、親と子の距離感が保てなくなっていきました。
介護をする中でも、精神的な自立と距離感は大切です。
たった1人介護者のみを頼りすぎると何時しか依存になります。
そこまで距離感が近すぎると介護者も「私がやらなければ」という使命感に依存してしまい誰かに助けを求める事を忘れてしまいます。

私が、それでした。

ほぼ自宅介護が破綻しかけ、意思疎通が出来なくなった時に糸が切れました。絶叫と共にもう何もできないと自覚するしかなかった。
現実の前には、自信や経験など脆いものです。
やっと助けを求めた時に言われた言葉が今でも疼きます。

「寄り添いすぎた」距離感が保てなかった。

その時ほど、この気質を恨んだことは無く。
介護職についた事を後悔した日もありません。

現在、作品を振り返った後の考えは違います。
「やり過ぎがいけなかった」と思い返すことが出来ます。
気質の事も本を読んで勉強し、距離感の事も通信で学んだカウンセラーの技術で当時の自分の事を反省も出来ます。
でも、今でも後悔がある。
心に漂うモノがある。
何かやりようがあったのではないのかと。
親が旅立った今でも、不意に思う事があります。

あの時の絶叫は今でも忘れません。
感覚が刻まれてしまいました。

絵を描く事、文章で書く事は自分の気持ちを理解する行為である。

この「残響」は自分への戒めであり、忘れてはいけない記憶であると思います。

短編「深淵」


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