【読書メモ】『罪のスガタ』(著:シルヴァーノ・アゴスティ / 訳:野村雅夫)
自らの罪(間違い)と向き合おうとしない(向き合えない?)ヤカラとはどう関わっていけばよいのでしょうか。個人的には公的な表舞台からは敬して遠ざけておきたいところですが、、
なんて考えながら思い出したのが、だいぶ昔に献本でいただいた『罪のスガタ』との一冊、「裁判官」「被害者」「殺人犯」という、中々に物騒な題名の中編3篇で構成されています。
鈍色にさびれた裏通り、淡い陽光に包まれた公園の広場、幾何学模様に彩られる視界と、それがもたらす唐突な終末の景色。著者はイタリアで映画監督などをされている方、だからでしょうか、自然と映像が浮かんでくるようでした。
3つの物語に関連性があるわけではないのですが、根底にあるのは「罪」と「罰」とのテーマ。その中でも印象的だったのが「罪を意識させるのが唯一の罰」とのミカタ。
はたして、罪と認識しない人が罪を犯してもその人に「罰」を与えることが可能なのか、3編のうちの1編にはどこか『デスノート』とも通じるものがあり、人に罰を与えることとそれを担う存在は、、最早「人」と呼べるのかどうか。
普段あまり考えることのない命題をつきつけられた覚えがあります。単館系でのアンソロジー映画として観てみたいかな、なんて風にも感じましたが、、それはあくまで物語の範疇だからこそ、デス。
現実を振り返ってみれば、まがりなりにも民主政体下の法治国家で生きている一人としては、憲法に代表される各法を無視し続ける石丸伸二氏はあり得ない、違法な専決処分を繰り返すのは「ただの独裁」に過ぎず、これを許していたら「独裁国家」への橋頭保にもなりかねない。
そしてこれは、ここ最近に別角度から危機感をつきつけられつつある「参議院議員のままで総理大臣になろうとの詭弁を重ねて蠢動している現象」にも同様の「独裁国家への兆候」を見てとっています。
恐らく、政治スタンス的には真逆の2名であるにも関わらず、そのどちらからも「日本を独裁国家にしたいのですか」との浅はかさしか感じないような動きが出てきている、、
なんというかここ最近、戦前に憲法習律が左右双方から否定されていったのと同様の動きが加速化されているのではないかとの危機感を覚えるケースが増えてきています、、『コミンテルンの謀略と日本の敗戦』、再読、再整理が必要かな。
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