自分に寛ぐことをしてみたい*ただのファンレター
自意識と救いについて
組織に入ると、自分がその中の代替性のある歯車の一つであると感じて、その無機質さに嫌気がさす。
私は。私という存在は?
noteを書いているのも、そんな自分に対して自分を掘り起こしてあげることなのかもしれない。
ヨガの話になってしまうのですが。
この数ヶ月、ヴェーダンタ、というものを聞きかじり、バガバットギータに触れました。師として在る人、と語り、教え、というものは対話によって理解される。なぜなら、読んでも自分の世界からしか理解ができないから。それは、曲げられた解釈になるから、繰り返し繰り返し、学ぶのだ、と。
年末、何となくな不安を口にした私に、同僚が「どんな仕事でも、突き詰めていった所に見えてくる世界がある」的な話をポロっといってくれました。
まぁ、そうだよね。そういうものがあるだろうとは、感覚的にわかる気がする(信じている)。
社会的な関わりを全て投げ出して、隠居しなくても、自分の役目を淡々とでも堂々と(ギータでは、「行為を神に捧げる供物とする」と言われてると思うけれど)果たす。仕事とか家庭とかでの、自分のお役目。
意味付けを求めず、自分に寛ぐ。
外部から受ける刺激。SNSでのキラキラした情報、知り合いの青く見える芝生。他人に求めてしまうこと、年齢や性別その他諸々に応じてこうあるべき、とされること。こうありたい自分に追いたてられること。押し付けられたものでなくても、なんでも。本当に好きなことをやりなさい。貴方の個性を大事にしなさい。それは、救いの言葉であり、プレッシャーをかける意味では呪いにもなる。祝福と呪いは裏表。
感動、刺激、憧れを求めて求めて。努力して努力して。自分の力の及ぶものなど、ほんの少しだと嘯いて。そして得られたものがあったとしてもその達成感は一時で。また次の何かしらがやってくる。満たされない思い。
そのサイクルを繰り返す。
そこに辛さを感じなければよい。そのサイクルを受け取って、楽しんでいければ(ギータでは、その行為がどんなものか、をとても重要視しているようだけれど)。
自分に寛ぐ。してみたい。これが今の私の曲がった解釈。
私は、思春期の強烈な自意識の辛さを、よしもとばななさんの本で乗りきったから(死ぬまで乗りこえられるかはわからないけど)、淡々と続く日常が、その中の役目が神聖で人に救いを与えることを信じているのかもしれない。
日常におちはなく、どのような祝いの夜も明けるし、どんな悲しいことも長くは続かない。食べたり、飲んだり、出かけたり、寝たり、風呂に入ったり、そういうことの力は憎んだり、愛したり、出会ったり、別れたりするよりも強い気がする。
永遠に続く恋はないし、超能力があっても人はお風呂を洗ったりしなければならないし、タクシーの運転手さんとの会話で意外に人は心晴れたりするものだ。(「アムリタ」文庫版あとがきより)
なつなさんについて
気になる。自分を探して探して、追い込んでいらっしゃるように思えて(偉そうに、ごめんなさい)。でも、何度も読み返してみると、冷静さと明晰さが際立ってくるそんな記事で。
そして、久しぶりに恋愛小説を読んでしまいました。
変えられたアイコンも可愛らしい、と思いながら。ラジオをされている姿をみて。陰ながら、応援しているファンなのでした。
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