【仮説】北畠(織田)信雄の改名に関する一考察

 全く関係の無い別々のことを調べていたら、それらの点と点とが結びついて新たな発見が生まれるというのは非常に嬉しい。今回の話題はそのような過程を経て思いついた一仮説。

  度□□□□□、
三郎左衛門差越候、田丸之城破候、申談、早々可申付候、不可有油断者也、
  三月十四日          信直(花押)
   小川久兵衛殿

 上記の史料は真田家に伝来した『古文書鑑』に収録されているものである。『古文書鑑』とは、利根川淳子の研究によると、所蔵者の手を離れて商品として流通していた文書を買い集め、二巻の巻子として仕立てたものであるという。利根川は各文書について宛所および文書の性格を考慮し、以下の五種類に分類できると述べる。

(A)織田氏関係の古文書

(B)鹿島神宮に宛ての古文書

(C)小堀遠州宛ての古文書

(D)蒲生氏宛ての古文書

(E)進士氏に関連する古文書

 この中でも、「(A)織田氏関係の古文書」について「小川新九郎(長保)」宛の古文書が多いことなどから、彼が仕えていた主君・北畠信雄(織田信長の次男)を意識して収集された文書であることが指摘されている。

 さて、上記の「信直」史料について、『古文書鑑』上巻の目録(「古文書目録」)では「衛門」と記されているだけでその具体的な名前は判明しないが、『真田家文書』では「織田信直」という名前が与えられている。近年では、小川雄は「(年未詳)三月十四日付北畠信直書状カ」として本史料を取り上げ、発給年次を天正六、七年頃、松ヶ島城への居城移転に関係する信雄の発給文書として位置付けている。

 史料内の「三郎左衛門」とは天正七(1579)年の第一次天正伊賀の乱で討死した「柘植三郎左衛門」である。受給者である「小川久兵衛」(元々は信長の家臣であったが、北畠氏を継承した信雄に附属された小川長正)に対して、「柘植三郎左衛門を派遣したので、田丸城の破却の件を相談して、早々に実行せよ」と命令する内容となっており、本書状を信雄文書として位置付ける点は納得できる。しかし、「信直」という実名は一体何か。

 信雄が成人後に改名を繰り返していることは有名である。永禄十二(1569)年に信長と北畠氏とが和睦して、北畠氏に養嗣子として入った際にはまだ幼名であった「茶筅」であったが、元服後には「具豊」、北畠氏の家督を継承した天正三(1575)年には「信意」を名乗っている。「信意」発給文書の終見は天正五(1577)年卯月二十七日である。その後、天正八(1580)年には実名を「信勝」と改めて、間もなく「信雄」を名乗ったという。しかし、「信直」という実名は上記の史料でしか確認が取れず、信雄文書として位置付けた小川雄も「実名『信直』と花押の検証は後日の課題としたい」と述べるに留めている。

 ここで、別の史料に視点を変えてみよう。

   禁制  刀田山鶴林寺
一 當手軍勢甲乙人濫妨狼藉之事
一 陣取放火之事
一 山林伐採竹木之事
 右条々於違背之輩、速可処厳科者也、仍如件
 天正六/五月十七日          信直(花押)

 これは兵庫県加古川市加古川町北在家にある天台宗の古刹・鶴林寺に残る禁制である。この禁制を含めた「鶴林寺文書」は黒田俊雄を中心とした大阪大学文学部国史研究室によって目録が作成された。また、東京大学史料編纂所が作成した花押データベースにも本史料の花押が収録されており、人名を「佐久間カ信直」として佐久間信盛の弟である佐久間(左京亮)信直が発給した禁制とみなしている。

 しかし、これを佐久間信直が発給した禁制とみなす点について、個人的には疑問が生じている。佐久間信直が発給した文書として現状は下記四点が確認できる。

①天正四(1576)年九月五日付猿投神社宛佐久間信直書状(『猿投神社文書』)

②年次未詳(天正四年?)九月五日付大和殿宛佐久間信直書状(『猿投神社文書』)

③年次未詳正月五日付亀井御番衆宛佐久間信直書状(『圓福寺文書』)

④年次未詳正月十三日付圓福寺宛佐久間信直書状(『圓福寺文書』)

 これらは三河加茂郡高橋荘にある猿投神社や尾張熱田の圓福寺に出された文書であり、佐久間信直の役割の一端が水野信元の死去以降の尾張・三河国に関する経営への関与であったことが浮かび上がってくる。当時の佐久間信盛の家中は尾張国、三河国高橋荘周辺、近江国野洲・栗太郡などの広大な所領経営のほか、大坂本願寺に対処するための河内・和泉方面での軍事活動など膨大な仕事に従事する必要があり、佐久間信盛・信栄父子もそれぞれが別々に活動する事例も多くなっている。そのように考えると、天正六(1578)年の播磨出兵における佐久間信盛の出陣は史料上で確認できるものの、太田牛一『信長記』ほかの史料で出陣が確認できない佐久間信直については尾張・三河方面の経営に専心していたと考えても良いのではないだろうか。

 さらに、「鶴林寺文書」の「信直」禁制で注目したいのは花押である。

画像1

 『圓福寺文書』や『猿投神社文書』における天正四年時点での佐久間信直の花押は図1のような花押となっている。しかし、天正六年に発給された『鶴林寺文書』の「信直」禁制では図2のような花押になっており、図1の花押とは大きく形を異にしていることが分かる。残存する佐久間信直書状の数量では花押の経年変化を追うことは不可能であるものの、実際に使用されていた佐久間信直の花押とは異なる花押が「信直」禁制では使用されていることは容易に理解できる。

 さて、いろいろと考察してきたが、結論から述べればこの「信直」禁制こそ北畠信雄が「信直」を名乗っていたことを示す証左の一つとなり得るのではないかと考えている。図2の花押と『古文書鑑』の「信直」史料の写真版(図3)を比較してみると、花押形右部分の跳ね上がりや全体の構図が非常によく似ているように見えるのではなかろうか。

※筆者は本書状の実物を拝見しておらず、あくまで『古文書鑑』写真版のみで判断している。本稿はあくまで「仮説」を提示する論考として記述しており、間違い等があれば修正・削除を行う予定である。ご容赦ねがいたい。

画像2

 この「信直」禁制が発給された天正六年五月十七日前後は、毛利方(吉川元春、小早川隆景、宇喜多直家ほか)が尼子勝久が籠城する播磨国上月城を包囲し、尼子の救援に向かった羽柴秀吉の要請を受けて織田方が播磨に向けて出陣しているという状況である。

五月朔日播州被成 御動座東國西國之人數膚合被及御合戦関戸を限而御存分ニ可被仰付之旨被仰出候然處に 佐久間 瀧川 維任 惟住 蜂屋 申様に播州之城ハ嶮難を拘隔節所要害丈夫ニ拵居陣之由承及候間何れも罷立彼表様子見計候て可申上候間被加御延慮尤之由達而御異見候依之
四月廿九日 瀧川 維任 惟住 進發也
五月朔日  三位中将殿 北畠殿 上野殿 三七殿 永岡兵部太輔 佐久間 尾 濃 勢州三ヶ國之御人數ニ而 御出張
其日郡山御泊 次日 兵庫 六日播州之内明石之並大窪と云所御陣を被居先陣ハ御敵城 神吉 志かた 高砂 へ差向嘉古川近邊ニ野陣を懸られ

 池田家本『信長記』第十一には播磨へ出陣した織田方の諸将の名前が記載されており、「北畠殿(信雄)」の名前も確認できる。また、織田方は「嘉古川近邊ニ野陣を懸られ」と加古川周辺に陣を敷いたことが記述されているが、『鶴林寺文書』には天正六年六月に発給された織田信忠が発給したと推測されている禁制が存在していることからも理解できる。これらのことから推測すると、この播磨出兵で加古川周辺に在陣していた信雄が発給した禁制が、「信直」禁制だったのではないだろうか。

 禁制は寺社や村が自分たちの安全を確保するために、戦国大名と交渉して発給してもらうものである。今回の場合は、鶴林寺側が自身の安全を確保するために織田方から禁制を得ようと考え、織田方の総大将である信忠と織田一族でもあり、名門北畠氏を継承して織田家中における有力な分国大名としての側面も有していた信雄に対して禁制発給を依頼したのではないかと考えている。

 それでは、なぜ信雄はこの時期に実名「信直」と改名していたのかという疑問が湧く。

 北畠信雄は名門北畠氏を継承したことから織田一族の中でも信忠に次ぐ、また、一時期は信忠に比肩するほどの別格の立場にあった。二人の官歴を振り返ってみると下記の通り、信雄は信忠と同時期に正五位下に任官しており、十一月七日には信忠は秋田城介、信雄は左近衛権中将と信雄の方が上位となっている。

画像3

 また、『尋憲記』天正二(1574)年三月二十四日条には、京都で「信長は近衛殿になり、子の茶筅(信雄)は将軍になる」という噂が流行していることが記載されている。信雄の立場が織田家中においても相当に高いものであったことを示す噂である。

   三月
廿四日、
一、京都者奈良見物ニ罷下、雑談トテ人ノ申候、信長ハ近江殿成候、子チヤせンハ将軍罷成候、悉皆二條殿へ申、如此候て、一段京都ニテ二條殿御ヲボヘノ由候、関白も信長へ被相渡候て可被下由、申トノ沙汰也、

 しかし、信忠は、天正三(1575)年十一月末に信長から織田家家督を譲渡され、天正六年四月頃から織田家宿老や織田一門(信雄、三七信孝、上野介信兼など)を率いて各所を転戦するようになり、戦場の第一線から退いた父・信長に代わり織田軍団の総指揮官としての立場を固めつつあった。一方で、信雄は兄・信忠の指揮下で織田権力の戦争に関与するようになった。これまでの信雄の活動は越前一向一揆の討伐に参加したほかは、北畠家中における内政と実権掌握に重点が置かれており、天正四年十一月に北畠一族を粛清した後、織田権力による対外戦争に関与する姿が確認できるようになる。この時点で、「織田一族の一員としての自分自身の立場」を再認識するようになったのではないだろうか。

 また、山﨑布美の研究によると、織田信張が天正四年まで名乗っていた「津田」名字から、天正五年正月に「左兵衛佐」へ任官した後は「織田」名字を称するようになったこと、織田信澄が天正六年二月に近江高島郡の支配を任された後に「津田」から「織田」名字を名乗るようになったことを述べ、「織田」名字が称号化され、信長には自分自身を頂点とした織田一族の家中秩序を構築する意図が存在したことを指摘している。この指摘は、天正五年~七年という期間は織田一族における家中秩序が再編される期間であったことを示しており、信雄もその影響を受けていた可能性があったのではないか。

 これらのことから、織田家中の秩序の再編の影響を受けて、信雄が織田一門における自身の立場を再認識したことにより、北畠信雄(当時「信意」)は天正六年には実名「信直」へと改めていたと推測する。(注)

 ただし、信雄が実名「信直」を名乗っていたことを証明するためには新たな史料の発見が求められるであろう。さらなる研究の発展を期待したい。

(注)実名「信直」と改めた段階で、花押形はどのように変化したのであろうか。信雄は「信意」を名乗っていた天正三年十二月頃までは北畠様(北畠氏から受け継いだ公家様の花押)を用いており、天正八年に「信勝」から「信雄」へと実名を改めた時期には北畠様とも織田様とも異なるものを用いていることが指摘されている。それでは、「信直」時代に用いられた花押はどうであったかを考えると、あくまで私見ではあるが信長の花押を意識した織田様の花押が用いられていたのではないかと考えている。

画像4

 これは、実名「信直」への改名の理由である織田家中の秩序の再編が信雄にとっての織田一門への所属意識を再認識させたこととも関連するのではないか。つまり、この当時の信雄が父・信長の存在を非常に意識するようになったのではないかと考えてみたい。


【参考文献】

・愛知県編『愛知県史 史料編11 織豊1』(愛知県、2003年)

・大阪大学文学部国史研究室「鶴林寺文書および史料目録」(『大阪大学文学部紀要』20巻、1980年)

・小川雄「織田権力と北畠信雄」(戦国史研究会編『織田権力の領域支配』岩田書院、2011年)

・木下聡「織田権力と織田信忠」(戦国史研究会編『織田権力の領域支配』岩田書院、2011年)

・谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』(吉川弘文館、2010年)

・利根川淳子「古文書鑑について」(『松代』第16号、2003年)

・豊田市教育委員会豊田市史編さん専門委員会編『豊田市史 1巻  自然・原始・古代・中世』(豊田市、1976年)

・山﨑布美「織田一族における家中秩序-津田名字に注目して-」(『日本歴史』745号、2010年)

・和田裕弘『織田信忠ー天下人の嫡男』(中公新書)(中央公論新社、2019年)

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