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奇跡の応用(分詞構文その他)か(名詞に対しての)後置修飾か及び+Ω

【奇跡の応用(注1)と後置修飾と】

I saw the dog barking.

 さて、皆さん。この文には解釈が3つ(乃至は4つ)あるものと存じます。なお、或いは、この例文自体に、英語の表現として根本的に変な部分があるかもしれませんが、その点についてはご容赦とご指摘とが頂ければ幸いです。では、その解釈の違いについて理解するため、敢えて対象言語の文法構造まで含めて直訳するような日本語の表現を作って、その違いを見てみます。

1. 私(は)、犬(が)吠えているの(を)見た。
2. 私(は)、吠えている犬(を)見た。
3. 私(は)、怒鳴りながら犬(を)見た。
4. 怒鳴る私(は)、犬(を)見た。
※()内の助詞は、無い方が自然な場合もあるので括弧で括りました。

 1及び3は、ニック・ウィリアムソン先生の、奇跡の応用(注1)、もしくは(中学高校で教わった)分詞構文、という解釈です。なお、奇跡の応用(または、奇跡の応用法とも)(注1)の詳細については、ニック・ウィリアムソン先生のご著作やご動画を直接ご覧になることをお勧めしますが、分詞構文、付帯状況のwith、withの付いた独立分詞構文、準補語(擬似補語)、二次述語(二次的述語)(注8)には、奇跡の応用(法)と似ている部分があるようにも存じます。また、大変僭越ながら、三浦順治先生の仰る生成レトリック及び累積文(注9)、佐藤良明先生の仰る「文は補語だけで自立する(補語は単独で文になる)」(注10)にも、奇跡の応用と似た何かがあるように私は存じます。
 さて、2及び4は、(名詞・代名詞に対する)後置修飾という解釈です。少なくとも中学では、そして恐らく高校でも、分詞1語のみでの、名詞に対する後置修飾は無いものと教わったようにも記憶しておりますが、実際には、分詞1語での後置修飾もあり得る模様です。
 4についてですが、人称代名詞に修飾語が付くことは、絶対無いとは言えないらしく、また、英語の修飾語は、被修飾語から離れることがあるそうなので、4のような解釈も、完全に捨てることはできないように思われます。

 個人的な印象にしか過ぎませんが、上記の例にもあるように、文法的な解釈について、保留、ペンディングしないといけないケースが(日本語や中国語に比べると)、英語は多いように、私には感じられるのです。また、ペンディングしたからといって、その後、その問題が解決するのかといえば、決してそうではないもののようにも感じられるのです。
 もしかしたら、英語は、漢文のように、受け取る側に文法構造の解釈を委ねる部分が強い(側面もある)言語だ、といえるのかもしれません。

 日本語の、象は鼻が長い、象の鼻は長い、鼻が長い象、鼻の長い象、の四者の文法構造は、明らかに違います。或いは、その四者が言いたい意味内容自体については、さほどの違いは無い(?)のかもしれませんし、どういう場面でどれを使うべきなのか、というのが、より重要な問題なのかもしれません。
 上記は一例に過ぎませんが、連体なのか連用なのか、或いは名詞(やその仲間)に(謂わば一種の)接続をしているのかそうでないのか(ただ、連体だからといって、それがいわゆる修飾に当たるものなのか、修飾と同じものといってよいのかどうかには疑問が残る部分もありますが)、基本的には、言葉の形の上から、原則、非常にはっきりすることの多い(ように感じられる)日本語が母語の、私からすると、英語は、或る意味(文法構造の解釈の部分において)、非常に曖昧な(部分もある)ように感じられるのです。
 その他にも、連体連用の区別や、名詞やその仲間に接続しているのかどうかが、比較的はっきりする(と感じられる)言語が母語の人間の(個人的な)感覚から英語を見てみると、英語のネイティブスピーカーは、奇跡の応用(注1)と、名詞(・代名詞)に対する後置修飾とを、果たして(明確に)区別して使っているのだろうか、という素朴な疑問さえ湧いてくるわけです。
 私は、英語のネイティブスピーカーでは勿論ないので、想像でものを言うしかありません。しかしながら、或いは、もしかすると、言語学の、(世界中の言語を分類して捉えようとする)言語類型論のような観点、或いは、古典ギリシャ語・ラテン語から続く、謂わば伝統的な、言語に対する考え方からすると、英語の修飾(語句)は、修飾という範疇に括らざるを得ないが、実際の英語の中のそれ(修飾)は、修飾という範疇を何かしら超越しているような部分を持つ、という可能性は無いでしょうか。

 もっと簡単に言うと、英語のネイティブスピーカーに取って、奇跡の応用(注1)(分詞構文、付帯状況のwith、withの付いた独立分詞構文、準補語・擬似補語二次述語・二次的述語 )なのか、(名詞に対しての)後置修飾なのか、という認識は、(余り)重要ではなく(それは、言語学とか文法とかの世界から見たとき、そのように、定義すること、分類することも可能だというだけで)、ネイティブスピーカーは、奇跡の応用(注1)(分詞構文、付帯状況のwith、withの付いた独立分詞構文、準補語・擬似補語二次述語・二次的述語)なのか、(名詞に対しての)後置修飾なのか、という文法(や言語学でいう所の文法範疇)に頼らずに、文を作っている場合もある、とも言えそうです。
 だとすると、連体連用という文法構造が、非常に重要になってくる言語のネイティブスピーカーに取っては、英語は、理解することも、使うことも、一筋縄では行かない可能性の方が高い、ということにもなるように思われるのです。

 では、一体何に頼って(或る種の)文を作っているのか、と申しますと、オットー・イェスペルセン先生(桜田門外の変のあった1860年ご生誕)の仰る、ネクサス(nexus/対結とも訳される)が、その手掛かりになるかもしれないと。下記、歴史的人物と捉えて敬称を先達と致します。
 (名詞に対しての)後置修飾か、奇跡の応用(注1)(分詞構文、付帯状況のwith、withの付いた独立分詞構文、準補語・擬似補語二次述語・二次的述語)かの、区別の何如に関わらず、ネクサスの後半(二位語・二次語)であることが文法的に重要で、そのような、ネクサスの後半を使って、(英語の)文法的な述語がするのと、実質的に同じこと、或いは同じようなことを、表現するのが、英語の文法の特徴だ、と考えることができるのではないかと。

(i) My fight (was terrible.)
(ii) My fighting (was terrible.)
(iii) Me fighting (was terrible.)
(iv) (My coach let) me fight.

 この英語が表現として普通かどうかは私には分からないですし、或いは訳の解釈にも間違いがあったり、英文として根本的に文法的におかしな部分があったりするかもしれませんが、その際は、ご指摘が頂ければ幸いです。(i)、(ii)、(iii)の訳は「(私の)戦い/試合/勝負は、散々(なもの)だった」程度で、(iv)は「コーチにほったらかしにされて/コーチの許可を得て、戦った/試合した/勝負した」程度でよいかと。
 (i)~(iv)の太字の部分について、先達、イェスペルセンは、ネクサスとご認識のはずだと存じます。また、(i)については、先達がどうお考えなのかは措くとして、ネクサスでも、先達の仰る所のジャンクション/junction(連結とも訳される。物凄く端折って簡単に言うと修飾被修飾の構造のようなもの)でも同時にある、という見方も成り立つようにも思われます。ただ、(i)の場合は、ジャンクションでも同時にあるのかは措くとしても、太字の中に明らかに修飾被修飾の関係があるように思われます。
 もし、上述のようにネクサスは、修飾被修飾の関係をも何かしら超越或いは包括しており、それ(修飾被修飾の関係)以上に語順に何かしら重要な文法的な作用のようなものがある(それは漢文・中国語に何かしら似た性質のように個人的には感じられます)、ということであれば、(分詞構文等なのか名詞に対しての後置修飾なのかは措くにせよ)修飾語と被修飾語と、という文法構造だけ見ていても英語は分からないし、使えない(場合もある)、ということになるでしょうし、その文法構造(具体的にはネクサスの後半)を、連体連用の区別や、修飾被修飾が、文法的に大きな意味をもつ言語に、(文法構造的に直訳して、つまり修飾語として)移し替えることは、そもそも不可能なのではないか、ということにもなるでしょう。或いは、可能性としては、寧ろ述語に移し替えるのが一番近いのかもしれません。

 脱線しますが、もしかしたら、「天下を治むること五十年」と訓読し、「五十年、天下を治む」と、日本語に普通にある表現で、敢えてなぜか訓読しないのは、「治天下→五十年」という語順を尊重しよう、という意図から来るものだったのかもしれないとも、(その判断が正しかったか否かは措くとしても)その語順に何かが有る(はずだ)から、(原文の文法構造の、直訳・移し替え・再現のようなものは敢えてオミットした上で意味も)語順も再現して訓読しようという意図からだったのかもしれないとも、ふと感じました。

He came home drunk with no money smelling like perfume.

https://www.youtube.com/watch?v=lEllHrpMHSY

 彼、帰っては来たんだけど、グデングデンに酔っ払って、スッカラカンで、しかも香水の匂いなんてさせて(たの)よ!

 日本語には、語順の自由な側面があるので(こちらのご動画が非常に分かりやすいかと存じます。7:10の辺りです)、英語の語順に近い形で翻訳することが可能になる場合もあり、ここではそうしました。日本語の場合、英語の述語のところだけでなく、奇跡の応用(注1)(分詞構文、付帯状況のwith、withの付いた独立分詞構文、準補語・擬似補語二次述語・二次的述語)の部分も、(※ほぼそのまま、英語はほぼそのままとまでは言えない模様)述語・述部として分解して捉え直すことが可能です。

彼、帰っては来たんだけど、グデングデンに酔っ払って、スッカラカンで、しかも香水の匂いなんてさせて(たの)よ!
He came home drunk with no money smelling like perfume.

 ニック・ウィリアムソン先生の仰る奇跡の応用(注1)(分詞構文、付帯状況のwith、withの付いた独立分詞構文、準補語・擬似補語二次述語・二次的述語)というのは、完結した文に+αを付け足して、色々なことが言える、という風に、私は理解しております。もう少し具体的にいうと、上図におけるようなAがBの状態だ、というようなことが、その完結した文の主語(ここではHe)や目的語をAとして、Bで(形容詞、with名詞、-ing形で、そして-ed形でも)言える、ということです。なお、その+αの部分を、完結した文に言い換えると、→の右側のように言うことができるものと存じます。
 なお、図のABのAの部分が、ネクサスの一位で、Bの部分がネクサスの二位に、大体、対応するのではないかと存じます。大体と申しましたが、He drunkのABは、先達、イェスペルセンの仰るネクサスだと言える、と思われるのですが、with no moneyやsmelling like perfumeの部分もネクサス(の後半)といってよいのかどうかは、私には分かりません。私自身は直感的にはネクサスといってよいのではないかと存じます。先達の膨大なご著作の隅々にまで目を通すということは、中々難しいことではありますし、どこまで正しく理解できるのかという問題もあるでしょう。

 さて、奇跡の応用(注1)(分詞構文、付帯状況のwith、withの付いた独立分詞構文、準補語・擬似補語二次述語・二次的述語)という観点から英語を見ると、最初に(乃至はどこかで)、一回完結した文を出せば、そこに対して+αするような形で、完結した文の主語や目的語に対して、(分類上の修飾語を用いて)述語と同じようなことが言えてしまうのが英語だ、ということになるものと私は存じます。それは、言い方を変えれば、英語は、所謂、修飾語で、(英語自身のや他の言語の)述語とほぼ同じこと、乃至近いことを表すことも可能な言語だ、ということになるものと存じます。繰り返しになりますが、そうすると、英語の修飾語句が、(第一に)修飾の文法的役割を果たしているはずだと思っていると、正しい理解も使用も非常に難しくなる可能性がある、ということになるかと存じます。

【+Ω】

 奇跡の応用(注1)(分詞構文、付帯状況のwith、withの付いた独立分詞構文、準補語・擬似補語二次述語・二次的述語)に見られるように、修飾語に分類されるものが、分類上の述語のように機能する場合が、英語においては、ある、ということに注目していく内に、もしかしたら、この考え方は、英語の他の文法構造にも応用・拡張することができるのではないか、と、考えるようになりました。奇跡の応用(注1)は、完結した文に、+αするものですが、謂わば+Ωのように、完結していない文を完結させるのも、奇跡の応用(注1)のバリエーションのようなものとして捉えた方が、すっきりするのではないかと。

※Bが述語のように機能する、という点で、奇跡の応用と同じ。

 以下は、あくまで私の理解で、諸先生のお考えが正しく理解できているかは措きます。
 1)I'm in LondonやI'm homeのような表現については、ここ(上図)でのBの部分を、形容詞相当語句として捉えるかどうかについては措くとしても、補語だとする考え方が1つ(注2)。
 2)義務的な要素(修飾語)、義務的な副詞句(obligatory adverbial= A)として捉え、単純なSVMとは違う、SVAという文型なのだとする考え方が1つ(注3)。
 3)SVCという文型や補語という考え方をせず、それ(いわゆる補語)は(主語を)後ろから説明する修飾語である、とする考え方、名詞でも、形容詞でも、副詞でも、前置詞句でも、ing形でも、ed形でも、それらは、主語を説明修飾し、be動詞等は、説明修飾されるものと説明修飾するものとを接続する程度の働き、という考え方が1つ(注4)。なお、この(後ろからの)説明修飾と言う考え方は、(前からの)限定修飾という考え方と一対のものであり、また、分詞の(名詞に対する)後置修飾も、(並列された)名詞の同格も、接続詞によらない文の接続も、説明修飾をしている、とされる(注4)。なお、この限定修飾、説明修飾という対比は、黒羽栄司先生の仰る、(日本語の形容詞における)直接修飾、間接修飾の対比と(注5)、共通点があるようにも私には思われます。
 4)SVCのC(及び上述のような前置詞句等)を(分かりやすさのために)Oと捉え、SVOだとする考え方が1つ(注6)。なお、こちらは、現代中国語で「我是日本人(我、これ、日本人なり。私は日本人です)」の(動詞とされる)「是」の後の「日本人」を目的語(賓語)として捉えるのに似ているとも言えるように私は感じます。

 諸先生のお考えは大変勉強になります。私は、それらのお考えに批判が申し上げたいわけではございません。ただ、大変僭越ながら、私は、ニック・ウィリアムソン先生の奇跡の応用(注1)(分詞構文、付帯状況のwith、withの付いた独立分詞構文、準補語・擬似補語二次述語・二次的述語)の、応用・拡張のような形の、+Ω、という考え方、教え方の方が、奇跡の応用(注1)の理解まで含めると、或いは、分かりやすいのかもしれない、と今のところ考えております。

※AのO had Bのような完結文に言い換えることができる、という点で、奇跡の応用、with名詞(の用法の一部)と同じ。

 また、I sent him an e-mailのような、いわゆる第四文型の表現や、She made him a good wifeのような文型不明ともされる表現についても、+Ω、という考え方、教え方が使えるのではないかと存じます。
 I sent him an e-mailと、I sent an e-mail to himとでは、意味が異なるそうです(注7)。いわゆる第四文型のsentは、届けた、というような意味になり、相手が受け取ったことまで意味するそうですが、第三文型のsentは、送った、というだけで届いたかどうか受け取ったかどうかについては、言っていないそうなのです(注7)。そして、ここでのAのOと、Bとの間に、O (have) Bのような関係が成り立つのだそうです(注7)。
 このことを初めて知ったとき、私は目が飛び出るほど驚きました。中学生のころから、第三文型を第四文型に、第四文型を第三文型に書き換える練習を(させられて、もとい、)してきましたが、少なくともsendの場合、両者の意味は異なるとのことなのです(注7)。これは、いわば日本語では、送る、届ける、と語彙によって区別するようなところを、英語では、文型によって区別する(場合がある)、とでも言えるでしょうか。 
 haveを使った完結文で言い換えて理解することが可能、という風に理解できるので、これは、奇跡の応用(注1)(分詞構文、付帯状況のwith、withの付いた独立分詞構文、準補語・擬似補語二次述語・二次的述語)のwith名詞と、図式が同じだと言えます。

 He came home + with no money.
 →He had no money.
 I sent him + an e-mail.
 →He had an e-mail.

 いわゆる第四文型の場合、謂わばもう相手側がそれをhaveしている、という(英語の中での)意味になる名詞を、+αならぬ+Ωするのだ、という教え方、覚え方はいかがでしょうか。その方が、奇跡の応用(注1)(分詞構文、付帯状況のwith/withの付いた独立分詞構文、準補語・擬似補語二次述語・二次的述語)との関連から考えれば、身につきやすいようにも思われるのです。

 She made him a good wife.

 次に、こちらの文型不明ともされるものですが、彼女は、彼のいい奥さんになった、程度が直訳のようです。最初、第五文型で使役の意味で、彼女は彼をいい奥さんにさせた(?)としか解釈できず、!?!?と感じたことを覚えております。こちらも、

 She made him + a good wife.
 →He had a good wife.

のように、haveを使った完結した文に置き換えての理解が可能のようです。それでしたら、第何文型なのだろうかと悩むよりも、+Ωという理解で問題無いのではないでしょうか。

【まとめ】

 ここまでを箇条書きでまとめます。
①名詞に対する前置修飾の問題は措くとして、修飾語が、述語のように機能する文法が英語にはあると言え、それは、ニック・ウィリアムソン先生の仰る「奇跡の応用」(注1)(分詞構文、付帯状況のwith、withの付いた独立分詞構文、準補語・擬似補語二次述語・二次的述語)という教え方が分かりやすい。
②その奇跡の応用(注1)の、応用、或いは拡張、即ち+Ωという形で、be動詞等の後に、来るべき語句が来て、全体が完結した文になる、という教え方の方が分かりやすいのではないか。
③その奇跡の応用(注1)の、応用、或いは拡張、即ち+Ωという形で、所謂、第四文型等も理解でき、その教え方の方が分かりやすいのではないか。
④名詞に対する前置修飾の問題は措くとして、修飾語の被修飾語を探す、という観点だけでは、英語の理解や使用は追いつかず(追いつかない場合もあり)、完結文の主語や目的語に対して、修飾語が述語のようになっている、という視点が必要なのかもしれない。あたかも、完結文のS、Oの係りを受けるかの如くして、述語のようになる修飾語が出て来るかもしれないのが英語という視点が必要なのかもしれない。
⑤語句や節が名詞に、連体するかしないか、或いは(謂わば一種の)接続をするかしないかが文法的に重要な言語(例えば日本語のような)のそれと比較した場合、英語の修飾語句には、修飾という範疇に収まらない何かがあるようにも思われる。これは、或いは、英語のネイティブスピーカーは、修飾被修飾という文法構造以前に、ネクサスのようなものとしてそれを捉えている(場合もある)、ということなのかもしれない。ネクサスのようなものというのは、前に来るものが一位で、後ろに来るものが二位で、一位と二位との間に、そのパターンのようなものがどうなっているのかは措くとしても(ネクサスのみに限らない可能性もある)、何らかの文法的関係が成立している、ということである。

 取り敢えずは、以上です。奇跡の応用(注1)という教え方を開発なさり、ご著作やYouTube等で、公開、普及してくださっている、ニック・ウィリアムソン先生に、心より、感謝を、そして、ご尊敬を、申し上げます。

 末尾になりますが、先生が、奇跡の応用の新しいご動画を配信なさったのに合わせて、遅ればせながら、奇跡の応用の動画のリンクを、新しいものから順に、貼らせていただく次第です(2024/01/23加筆)。

■参考文献
注1:ニック・ウィリアムソン『A4一枚英語勉強法』SBクリエイティブ㈱2021
注2:阿川イチロヲ『単純すぎるよ!英文法』アルク2017
注3:安藤貞雄『英語の文型』開拓社2008
注4:大西泰斗、ポール・マクベイ『ハートで感じる英語塾 英語の5原則編』NHK出版2008
注5:黒羽栄司『現代日本語文法への12の提案』大修館書店1995p237-238
注6:ジュリアーノ熊代『have do getで英語は9割伝わります!』世界文化社 2021
注7:畠山雄二『言語学の専門家が教える新しい英文法』ベレ出版2006
注8:「擬似補語~(二次的述語)」までの部分、2023/08/06加筆。
注9:三浦順治『日本人のための英語入門~結論を先に言う練習帳~』東京書籍2021p65-68
注10:佐藤良明『英文法を哲学する』アルク2022p110-112
※注9及び10の部分、2023/12/23加筆。

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