第699回 やはり中世には厳しい自由がある
1、読書記録107
今回ご紹介するのはこちら
伊藤正敏2020『アジールと国家』筑摩選書
日本の中世、聖と俗、権力と民衆、扱うテーマが私個人の専門ど直球なので
じっくり反芻しながら読ませてもらいました。
2、駆け込み寺の元祖
まず「アジール」とは何かについてご説明します。
一般的には権力の及ばない、避難所という空間イメージで語られています。
寺院や教会など宗教的な権威が及ぶ境界内に逃げ込んだ犯罪人は国家など権力者に捕らえられない、というところから
市場や公の道など誰の土地でもないところで働く平等性の原理まで
程度の差はあれ日常的に、あらゆるものがアジールになりえます。
さらにこのような場所的なアジールだけではなく、
「時間的なアジール」という概念も存在します。
祭礼や神事というイベント期間中だけの特別な時間にだけ働く力のこと。
さらには「人格的アジール」といえば、聖職者などが持つ不可侵性。
ここまでは従来のアジール論で語られることですが
著者はさらに踏み込んで国家と全体社会そしてアジールの位置づけをどう捉えるかという考察を行っています。
主役になるのは寺社勢力。
かの白河法皇も僧兵には勝てないと言ったのは有名ですが、
比叡山の僧侶が神輿を担いで強訴に及び、武士たちが阻止しようとすると
わざと泥の中に落として、朝廷に修理させるということが少なくなかったようです。
神罰への恐れ、というものが担い手と相手とでここまで非対称的だと確かに打つ手はありませんよね。
聖なるものは(中略)失うもの多き上層部には戦慄、それが少ない下層にとっては魅するもの
そして著者の論で特別に気になったのは寺社勢力の担い手は決して支配者層ではない、ということ。
形式的に上層部にいる学侶たちは実権を持たず、
行人や聖、山伏というような庶民層が一味団結して行動する、それが寺社勢力の論理だったというから
黒田俊雄の「権門体制論」という朝廷と武家と寺社が補完的に社会を担っていたというこれまでの定説が揺らぐのも頷ける展開です。
厳格たる身分制度で支配されていた朝廷と幕府が「国家」を担い、
個人的支配者が実質的にいない寺社勢力は国家の枠組みを外れた全体社会へと領域を大きく持っている。
そしてやはり
鎌倉時代のアジールと室町時代のアジールとの間には南北朝時代が挟はさまっている。
この画期における社会変動、悪党問題とその克服について十分明らかにできなかった。
と著者が述べているように、通史的にみるとまだまだ知りたい部分が残されています。
3、中世という時代の魅力
いかがだったでしょうか。
私自身まだ未消化の部分もあり、明快な書評になっていませんが
やっぱり中世という時代は面白いですね。
日本中世史の研究者であった網野善彦が
権力や武力と異質な自由と平和の世界があったことを描いたのは
もう40年ほど前のことでした。
西洋史研究者の阿部謹也は
わが国の日本中世史研究の進展によって格段に豊かにされつつある。
と述べていることに触れ、
西欧社会に見出されたアジールという概念のケーススタディとして日本がよきサンプルとなると著者は考えているようです。
日本中世に何が起こったのか、まだまだ疑問はつきませんね。
本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
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