第830回 同名注意が多い刀匠

1、日本刀レビュー57

今回はディアゴスティーニの『週刊日本刀』57号をご紹介します。

ちなみに前回はこちら

2、前編だけか!

巻頭の【日本刀ファイル】は盛景。

近年の研究では長船盛景と大宮盛景と呼ばれる2人が同時期に同じ備前の刀工として活動していたという説が有力になっているようです。

掲載作は前者の長船傍流、長光の弟子、近景に連なる刀匠のものと考えられています。

長船嫡流の兼光や同輩の長義や元重らと並び、正宗の相州伝と備前伝を融合した作風で知られています。

南北朝時代の作刀に時折見られる、平造という打刀としては珍しい断面形状をしており、粟田口国吉の号鳴狐や、長船兼光の水神切兼光などと比較されます。

不動明王を表す梵字、カーンと三鈷剣が頭身に彫られているのも特徴的です。

現在では一般社団法人秋水美術館に収蔵されているとのこと。

続く【刀剣人物伝】は毛利元就。

言わずと知れた中国地方の覇者となった戦国大名ですが、智謀の将というイメージからか、自ら刀を振るったエピソードは知られておらず、差料も知られていないとのこと。

生涯にわたって崇敬した厳島神社に刀剣を奉納して戦勝を祈願していたようで、その一部が現代にまで伝えられています。

本誌で紹介されているのは重要文化財に指定されている太刀、銘一。福岡一文字派の手によるものでしょう。

他にも備後国三原の刀や大身槍、大内家五名剣も奉納したと伝えられています。

大内家五名剣については、現代まで伝わっているのは銘「乱髪」のみで、

「荒波」は足利義輝、「千鳥」は豊臣秀吉の手元に留め置かれてしまったとのこと。

神社に一度奉納された刀が権力者の所望によって外に出てしまうこともよくある話なのでしょうか。

【日本刀匠伝】は吉家。

三日月宗近の子とされ、京都三条派の開祖となった人物です。

一説には白河上皇の時代、盗人が吉家の刀を池に投げ込むと鵜がそれに触れた真っ二つになったとか。

この刀は鵜丸と名付けられ、鳥羽上皇、崇徳上皇を経て、源為義の手に。

平治の乱を経て一度朝廷に戻りますが、平家が都落ちで持ち出したものを源範頼が回収。

後白河法皇から佐々木盛綱に下賜され、

諏訪神社に一時奉納されるも、安達泰盛が手にしますが、その族滅後は行方不明になったとされています。

本誌では島津家や蜂須賀家に伝来した太刀や、

上杉謙信が三宝剣として重宝し、会津保科家、松平容保へとつたえられた太刀も紹介されています。

そしてこちらも備前一文字派にも吉家と銘を刻む刀匠が確認されており、判別は難しいことも多いようです。

最後に【日本刀ストーリー】として本阿弥家500年の系譜と題し、刀剣鑑定の歴史にスポットが当てられています。

その源流はかの世阿弥のように足利将軍家の同朋衆から始まりました。

家伝によると妙本という初代は五条家に連なる血筋のようですが、

事績が明らかになるのは6代本光や7代光心の頃。

本誌ではその系図が見開きいっぱいに紹介されており、資料として見応えがあります。

10代光室が秀忠から重用され、病の時に特別に奥医師が派遣されるほどだった、というところまで紹介されましたが、

享保名物帳を作成した13代光忠以下は次号に続く、とのこと。

3、襲名することが価値

いかがだったでしょうか。

本日は刀剣ファイルの盛景といい、刀匠伝の吉家といい、同名の刀匠が同時期に活動していたのか、同一人物なのか評価が分かれるものが紹介されていました。

前近代の我が国では、一部伝統芸能では現在でもですかね、襲名という文化があり、

何代目という区別をしないと分からないことも多いですよね。

同時代に生きる人なら知っていたでしょうが、
作品だけを見る構成の人にとっては分かりづらいことったら。

当の本人は師匠に認められ、その地位を譲られた、という感激もひとしおなのかもしれませんね。

本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。




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