第1416回 凶暴なれども秩序ありとされた日本人

1、読書記録330

本日ご紹介するのはこちら。

上田信2023『戦国日本を見た中国人ー海の物語『日本一鑑』を読む』

2、日本のこころ

まず冒頭に掲げられるのは

『鼎〓崇文閣彙纂士民捷用分類學府全編』

という1607年に明で編さんされた百科事典に掲載されている、

日本国民の像。

月代を剃って、上半身は裸。

腰に布を巻いて裸足。

右手に長刀を持って肩にかけている、

一見してわかる野蛮な人々。

当時の中国大陸の人々からはこのように認識されていたのだ、という驚きから本書はスタートします。

日本を訪れた南蛮人が描いた戦国日本はすでに人口に膾炙しておりますが、

中国人が描いた見聞録は意外と知られていない、そこが著者の出発点だったのでしょう。

鄭舜功という人物の表した『日本一鑑』の記載が紹介されていきます。

月代の毛は剃っていたのではなく抜いていた、とか

喪服は白色だったとか

気になる話題は多いですが、ここで詳しく紹介したいのは

ステレオタイプの日本人でも登場した日本刀について。

当時日明貿易では石見銀山の銀や真珠と並んで日本刀が輸出品の主力でした。

一種の日本刀ブームが起こっていたようで、

倭寇討伐で活躍した将軍が、対モンゴル戦で日本刀を兵士たちに持たせた

というエピソードも紹介されています。

さて本題に戻りますと、

鄭がが日本にやってきて滞在した豊後は刀鍛治が盛んな土地でしたので、実際に製作の現場を見たのでしょう。

堅くて脆い玉鋼と柔らかいが折れにくい玉鋼を組み合わせて作られる日本刀の特徴も記録しています。

しかしすごいところは、日本刀精神の本質もとらえているところ。

刀が鋭利であること(殺傷能力が高い)を知りつつも、人を殺めないことが重要で、その年数が長いほど、持ち主の精神性が高いことを象徴している、と見抜いています。

不殺の刀は宝となり、それを伝えられた子孫も不殺を貫けばどんどん刀の価値は上がっていくのです。

というのも当時は喧嘩両成敗の世界。

相手からふっかけられたとしても、刀を抜いてしまえば同罪です。

相手を傷つける力をお互いに持っているからこその自制心。

ちょっと現代人にも必要な心性かもしれませんね。

そもそも鄭は倭寇対策で、対話を模索するために、日本を知ろうとやってきたのです。

日本の最高権力者に話を通そうと畿内までやってきますが、時の将軍は都落ちして、権力を握っていたのは三好長慶でした。

彼の尽力もあり、朝廷から倭寇に協力していた薩摩の島津氏に取り締まるよう伝達があったのです。

しかし本国に帰ってからは優遇されず、失意の中でこの報告書が認められたようです。

つぶさに観察された日本の風俗や人々については、本書に確かに残され

野蛮な倭寇としての日本人のイメージを

凶暴性がありつつも礼儀作法を重んじ秩序を守る姿へとアップデートしてくれたことでしょう。


3、多様な目

いかがだったでしょうか。

本書には屋久島が常に雲を被っており、航海の目標となっていたことや、

豊後湾には地震で一夜にして沈んでしまった瓜生島という港があったことなどが

関連事項として語られており、興味は尽きません。

まったく文化が異なる欧米人の目と、積み重ねてきた交流の歴史がある隣国の目で見た日本の姿が

どこが同じで、どう違うのか。

まだまだ調べていきたいテーマですね。

本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

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