第1186回 立志伝中の人とその刀の行方

1、日本刀レビュー115

今回はディアゴスティーニの『週刊日本刀』115号をご紹介します。

ちなみに前回はこちら。

2、今回は九州の話題多め

巻頭の【日本刀ファイル】は祐定。

末備前と呼ばれる往時の勢いを失った長船派のなかでも

技工集団として名を馳せ門流を江戸時代まで保ったのが祐定一門でした。

江戸時代まで含めるとゆうに100人を超える「祐定」がいたと推定されています。

掲載作は加藤清正が愛刀にした「永正祐定」。

慶長16年に二条城で徳川家康と豊臣秀頼が会見した際、清正が懐に忍ばせていたとされる逸品です。

銘からは同時代のどの祐定の作かは特定できないとのことですが

初代与左衛門か初代彦兵衛、源兵衛などが有力視されるとのこと。

秀頼の護衛という大役を果たした清正は熊本に帰国する途上で発病し、

わずか三ヶ月後に病没することになります。

本作は加藤家の菩提寺であった肥後の本妙寺に伝来しています。

続く【刀剣人物伝】は奥平信昌。

長篠の戦いで勇名を馳せた武将です。

武田勝頼の軍勢1万5千を迎え撃ち長篠城に籠城する兵力はわずかに500だったといいます。

城を守り切った信昌が織田信長から拝領したのが備前福岡一文字の太刀で、

徳川家康からは名物として名高い大般若長光を拝領しています。

ともに家康の養子となって松平姓を許された忠明に譲られ、やがて忍藩松平家の家宝となっていきます。

のちに京都所司代時代に安国寺恵瓊を捕縛し、かの僧侶が持っていた短刀、包丁正宗も同様です。

【日本刀匠伝】は国長。

摂津中島の地を拠点とした来派の刀匠です。

作例として掲載されているのは

10代将軍徳川家治の誕生祝いとして某大納言から送られたという刀や

龍造寺四天王の一人、木下昌直が所持したという刀、

本阿弥家によって鑑定を受けた無銘の脇指です。

写真の掲載はないものの、南部家から寄贈を受けたという岩手県盛岡市の桜山神社蔵の刀のほか、個人蔵の作例が紹介されています。

国長の出自については諸説ありますが、来国俊の門人という説が有力視されているようです。

二代目国長は銘に北朝年号を刻んでいることや

備前長船や淡路島でも作刀していることが知られています。

足利義満は恩賞として下賜するにたる名刀を「可然物(しかるべきもの)」として60人の刀工を備前・備中から選定しており、そこに国長の名前もあります。

また国長は「国を長んずる」に通じる縁起の良い名とされ

武田信玄や伊藤義祐など多くの武将が好んだとも言われています。

3、父子で大河ドラマにもできそう

いかがだったでしょうか。

今回もっとも印象に残ったのは奥平信昌でした。

「長篠一文字」「大般若長光」「包丁正宗」という名だたる名刀を

譲ったのは四男の忠明。

嫡男の家昌は宇都宮藩主となり、九州中津藩に移封となりながらも明治まで続くことになります。

徳川秀忠の信頼厚く、井伊直孝と並んで家光の後見人と目され

一時期は播磨国姫路藩主を務め「西国探題」の位置付けまでされるほどですから

その聡明さを父から格別に愛されていたのかもしれませんね。

松平忠明は移封が多かったこともあり、どこかの町で「郷土の偉人」となるのも難しいでしょうが、戦国最終末を生きた人物としてなかなか波瀾万丈で

創作向きの人物のような気もしますが、すでにあるのでしょうか。気になるところです。


本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。



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