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第1475回 漢詩の勉強会②

1、老師の人柄

瑞巌寺老師の漢詩講座第2回受講してきました。

ちなみに第1回目のレビューはこちら。

2、儒学者は当時の専門人材

今回は頼山陽にテーマを絞って紹介されました。

頼山陽(1781〜1832)は大坂生まれの思想家で『日本外史』という著作で知られています。

父の頼春水も儒学者として広島藩浅野家に仕えていますので、幼少期から英才教育を施されたのでしょう。

漢詩も散文も両方優れている者は稀だ、と老師は強調します。

例えば空海、弘法大師は散文は上手いが、漢詩はいまいちで
逆に菅原道真は漢詩が優れているが、散文は見劣りする

とのこと。

初学者の私には信じがたいことです。

漢詩の話の前に、『日本外史』の話。

明治の言論者として名高い、徳富蘇峰はこれを評して

「歴史ではなくロマン」

と言ったとか。

『日本外史』の出典が軍記物など信頼性にかけるものも少なくなかったからだとか。

頼山陽自身は優れた歴史書は優れた文章で書かれなくてはならない、という考え方を持っていたとのこと。

同時代人の大槻磐渓は、「和臭」について言及していたとか。

「和臭」という言葉は前回も多出しましたね。

例えば織田信長の家臣である柴田勝家の剛勇さを評して「鬼柴田」と記述しているのですが

中国語で「鬼」は霊魂のことで、日本のように「強い」という意味はないようです。

このように中国語に本来ないような語彙を使っていることを評して言われたことのようですが、

唐宋八大家の一人である蘇東坡が漢詩に出身地である四川の方言や仏教用語を用いてることを意識してあえてタブーを犯しているのではないか、という考え方もあるようです。

本題の漢詩についてですが

まず取り上げられたのはわずか13歳で作ったという「癸丑の歳寓作」

若くして、人生を流れる水に例えてどこか達観したような認識を示したかとおもうと

歴史に名を残したい、と気宇壮大な夢も語る。

続いて紹介されたのは「書懐」という詩。

これも立身叶わぬ自分を嘆じた、素直な詩です。

そして「朱考亭先生の像に題す」というもの。

これは科挙に合格するための学問ばかり盛んになっていることを嘆く詩。

単純に朱子学者としてひとくくりにできない雰囲気を漂わせます。

どの詩も頼山陽の人となりをうかがわせる詩ではありますが

上手い下手は私にはまだわかりません。

わかりやすい例として挙げられたのは頼山陽の弟子に当たる藤井竹外という人物。

「花朝澱江を下る」という詩は

雪白比良山一角というフレーズが流行するくらい評価されていたのですが、

実は中国語として読むと違和感がある詩であるということ。

中国語には大別4種類の読み方があり「四声」と呼ばれます。

同じ四声が一つの詩のフレーズに何度もでてくるようだと

吟誦しずらいものになるようです。

そういう意味では頼山陽はその辺りのミスはなかったとのこと。

漢学の素養がすっかり身についていたんでしょうね。

3、人物知名度変化

いかがだったでしょうか。

頼山陽という人物は今でこそメジャーとは決して言えませんが

老師の小学生時代(昭和30年代後半)はメンコの柄にもなっていたといいますから、知名度は高い人物だったのかもしれません。

日本橋三越で頼山陽の展示会(没後150周年を記念して1982年)が行われたこともあったとか。

時代が変われば注目される人物が変わっていくのも自然のことわりなのかもしれませんね。

本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。


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