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『トム・ソーヤーの冒険』がふつうに読めない

『トム・ソーヤーの冒険』は個人的にひじょうに読みにくい作品だった。もちろん作品のせいではない。ぜんぶ自分のせい。読んだタイミングも関係しているかもしれないが。

だれもが知る児童文学ということで気楽に読みはじめたら、1870年代の原文の雰囲気が再現された重厚な文体。漢字だらけで地の文が黒々としていて、内容がすっと頭にはいらない。しかも、トムをふくむ男の子たちがネズミやネコの死骸にダニなんかをおもちゃにして遊ぶ場面がしょっちゅう出てくる。でも、ある程度まで読むとそれにも慣れた。

視点がずれる

問題はここから。幸か不幸か、私は「100分deフェミニズム」という番組を見たばかりだったのだ。

読みながらこの3原則が頭によぎって、あてはまる箇所に自然と目がいく。

巻毛なんて女々しいと彼は思っていて、自身の人生も巻毛ゆえに苦々しいものにされていたのである。(p.49)

ふむ、どうやらトムはかわいい巻毛の自分を否定したいらしい。この感情をホモフォビアと言うのでは? いつも裸足だったり服装にかまわなかったりするのもおなじ心理からかな。

「女は殺さない。海賊は気高いからそんなことはしない。そして女たちはいつも決まって美しい」(p.163)

海賊が船を襲うときの作法をトムがハックルベリー・フィンに説明している台詞だ。ほう、女を獲物やトロフィーとして扱う、まさにミソジニーですな。

ホモソーシャルの例には事欠かない。典型的なのは、ハックルベリー・フィンに習って煙草を吸えるようになったトムとジョー・ハーパーが「新たに身につけたこの習慣が何とも誇らしく」(p.190)有頂天になるところかな。

そして脱線

トムはみごとに「異性愛の男」の3原則を満たしていたわけだが……じつはどれかひとつでも本心でなかったとしたら? いやいや、語り手がそう言うんやから本心やろ。

しかし、いちどはじまった妄想は止まらない。
こうして、『トム・ソーヤーの冒険』の本文を目で追いながら、私の脳内では美少年トムが胸に秘めたもの(ハックにたいする想いか?)と友情とのあいだで葛藤するべつの物語が紡がれていくのだった。

読後さらに脱線

トムには何人かのモデルがいるっていうけど、そういや作者マーク・トウェインも巻毛やんな? と画像検索。

何歳の頃か調べられず。

若いときの写真では巻毛がわかりにくい。やっぱり隠そうとしていたのかな。検索をつづけると、ちょっと待って何なんこの美形は! しかも巻毛っぽいぞ。(コピーできなかった驚きの画像は→こちら

Henry Clemens (1838-1858)

マーク・トウェインの弟ヘンリーは船の爆発事故に遭って亡くなったらしい。享年19歳。ほかのきょうだいの妻にあてた訃報で、トウェインは弟のことを "my poor Henry, my darling, my pride, my glory, my all" と呼んで嘆き悲しんでいる。なんと痛ましい……

その手紙によれば、蒸気船のパイロットだった23歳のトウェインは、問題の船の操舵手のひとりだった。しかし、他の操舵手とヘンリーとの喧嘩が原因でひともんちゃくあり、事故のときは同船していなかったという(ヘンリーは兄の紹介で船員として乗っていたらしい)。これを知ってから読むと、『トム・ソーヤーの冒険』の海賊ごっこや船乗りごっこもまたべつの感慨があるやろうなあ。

もういっかい線路上を走ってみるか。


参考資料
http://civilwaref.blogspot.com/2013/11/samuel-clemens-mark-twain-born-november.html

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