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性的虐待について考える。ジェニーの記憶

ドキュメンタリー作家のジェニー。仕事は順調で、大学で教鞭をとることもある。

六年間付き合った恋人と三年間婚約中だが、いまいち結婚に乗り気じゃない。

ある日、ジェニーの母がジェニーが13歳のころに書いた物語を見つけ、読み、電話をかけてくる。母親はこれが事実ならとんでもないことだと言い、ジェニーに過去を振り返ることを勧める。

この映画には、三人のジェニーが交互に登場する。大人になったジェニー、13歳のジェニー、そして大人になったジェニーが作り出した大人びたジェニー。

最初の回想のシーンに登場するのは、大人になったジェニーが作り出した大人びた様子の13歳のジェニー。

しかし、実家で昔のアルバムを見たジェニーは愕然とする。

実際のジェニーはまだまだ幼い顔つきで、自分の記憶上にある13歳のジェニー値は全くかけ離れていた。

ここからの回想シーンは、本当の13歳のジェニーが登場する。


13歳のジェニーは夏に、乗馬を習うためきれいな女性の先生の家にホームステイをする。生徒は乗馬のレッスンとともにランニングもすることになり、陸上のコーチのビルがレッスンしてくれる。

ジェニーはビルと先生に淡いあこがれを持つ。

五人兄弟の一番上で、家庭の中に居場所がないと感じていた、孤独なジェニー。一夫一婦制や結婚という型にはまっている両親をつまらないものだと思い、先生やビルが言う、“理想の家族”を求めるようになる。

平凡でつまらないと思っている少女に対して、君は特別だ、などと優越感を与えたり自信をつけたりして、少女との信頼関係を築き、それを強固なものにしていく。これは小児性愛者がターゲットのに対してよくつかう、グルーミングと呼ばれる手法である。

先生とビルは仕事仲間ではなく、不倫の関係で。ランニングを教えるというのはただの表面上の理由で、先生はビルにどの少女をターゲットにするか決める機会を与えていたのだ。


そして、先生に昔のことをジェニーが聞きに行くと、乗り越えるしかない、などと自分の責任は棚に上げる。

ジェニーはビルとの性行為を虐待とは思わず、「これは愛だ。私たちは愛し合ってる」と思いこもうとする。

しかし、精神を病み、体調を崩したり、性行為の後に決まって嘔吐する。


この映画の怖いところは、これはごく普通の家庭の女の子の話だということ。

そして、身近に感じるということ。これはたぶん、監督が意図したものだと感じる。

映画の中で起こったこととして、自分の日常とは切り離してほしくないのだ。自分の生活と結び付けてほしいのだ。


普通に親が、娘に多くの経験をすることを望んだ夏休みの乗馬のサマースクールでたまたまであった大人が、背伸びしたい年頃の女の子が抱いた淡いあこがれを利用し、性的関係を結ぶように促す。

そして、兄弟が多いせいで親があまりかまってあげられないことで、家庭に自分の居場所がないと感じ、さみしい気持ちにつけこむ。

ジェニーを特別扱いすることで、優越感を持たせ、言葉巧みに性行為に持ち込む。

自分の周囲ではそんなことは起きていない。そう思う人が大半かもしれない。

しかし、大人としても身近な子供がそういった被害にあったということは隠したいと思ってしまうなど、身近で起こっていても気が付きにくいという特徴があることはいなめない。

まともな大人は、未成年と恋愛しない。

わたしは少女漫画でよくみられる、先生との禁断の恋に対して、恐怖を感じている。

少し背伸びして、年上の人とお付き合いする。

年上だから、同世代の人とくらべ、余裕があって魅力的に見えるかもしれない。しかし、まともな大人は未成年とは絶対に付き合わないのだ。

逆に、未成年と付き合える大人は、未成年と感覚が合うということなのだ。

それは、人としてちゃんと成長せず、成熟していないということに他ならないのではないか。


そうでなくとも、大人は子供に対して、強い権力を持っていることを自覚しなくてはならない。

大人がいうことは、強制になってしまうことが多い。

そして、大人の言動は子供に多大な影響を与えることも、理解しなくてはならない。


被害にあえば、一生それを背負っていかないといけないから。

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