見出し画像

爆笑と燃えの夏休み超大作『ソー:ラブ&サンダー』と、私の些細なワガママ。

 劇場の売店で「ラブ&サンダー、大人一枚」と言いたすぎて座席のネット予約を最後までためらった(結局した)『ソー:ラブ&サンダー』がいよいよ公開されて……大ソー面白かった。抜群のコメディセンスで世界を魅了し続けるタイカ・ワイティティのギャグは今作でも炸裂しており、同時に(あえてこの表記にさせてもらうと)前作の『ラグナロク』で置き去りにしてしまったジェーンをカムバックさせつつ、雷神ソーの人間臭さをさらに推し進めて「中年の危機」を描くのも興味深い。全方位に隙がなく、万人向けに薦めやすい。驚異的なクオリティを担保し続けるマーベルスタジオの新たな快作と言っていいと思う。

以下、『ソー:ラブ&サンダー』のネタバレが含まれます。
ご注意ください。

 なかやまきんに君を推した日本の宣伝しかり、「脳は筋肉だ。そして俺は全身筋肉。つまり俺は全身が脳だからお前より賢い」という迷言しかり、ソーはどこか脳筋おバカキャラとしてのイメージがどうしても強い。そんなパブリックイメージに似合わず、彼の人生は実に波乱万丈である。やんちゃで傲慢な性格ゆえに祖国を追いやられたソーはジェーンと出会い真実の愛に目覚めるも、その後はお母さんが亡くなったり、姉にハンマーを砕かれたり、愛する弟が殺されたり、祖国が破壊されたりと失ってばかりの人生で、引きこもって激太りするのも致し方ないほどに嫌なこと続き。今はガーディアンズと一緒に自分探し兼人助けの日々を送っているが、豪快な言動の裏で実は傷だらけのヒーロー、それが今のソーだった。

 そんな折に元カノと元カノ(ムジョルニア)が帰ってきてさぁ大変!という賑やかなあらすじと予告編から受ける事前のイメージは、実の映画とはほんの少し異なり、そしていい意味で裏切られることになる。

 もちろんワイティティのギャグセンスは健在で、ムダに豪華な俳優陣が揃う劇中オペラは前述したソーの波乱万丈すぎる来歴をギャグに変える剛腕さを見せ、クリヘムもキメ顔に裸にと身体を張って全力で笑いを取りに来る。一切のセリフなく擬人化されたストームブレイカーは萌えの対象に変化し、ヤギは過剰にうるさくて回避不能に笑わされてしまう。オフビートな笑いが絶えまなく続くため、中だるみを一切感じさせない作りで流石と言うほかない。

 一方、ワイティティ監督は『ラグナロク』と同じ作風にしないことを意識しているのか、前作のような極彩色のスペースオペラ要素は実は控えめで、一時は画面の彩度を失う瞬間さえ用意されている。敵対するヴィラン・ゴアもまた理不尽に愛する者を奪われた存在であり、その原因が神の傲慢さや臆病さに起因するものであるなど、愛に目覚める以前のソーであれば太刀打ち出来なかったに違いない強敵として設定されている。クリスチャン・ベールが本当にコワい悪を演じており、とくに子どもたちと対面する檻のシーンのおぞましさは、全年齢向けヒーロー映画としてはかなり攻めたなと思わずにはいられない。

 そして、ジェーンとのラブロマンスとその決着について。彼女がマイティ・ソーになることは事前に報じられてはいたものの、コミック同様に癌を患っている設定で登場するため、序盤から「喪失」の予感が常に漂っていた。そして、その予感の通りに、ソーは再び大切な人を喪ってしまう。

 この顛末について、“永遠の門”の力をもってすれば、ジェーンを健康な身体に戻すことは容易かった。だが、そうしない。そうしないことに作り手の矜持があると見ていいだろう。スーパーヒーローの超常的な力、奇跡で助かってしまうのは、現実に化学療法などで病魔と闘う人々にとっては何ら救いにはならない。だからこそ、ジェーンは子どもたちを救った戦士として闘い、ガンによって死ぬ。人として/戦士としての死が両立するからこその救いがエンドクレジット後に用意され、いずれ訪れるかもしれないソーの死についてもささやかな希望が与えられる。ソーも失意に囚われることなく、ジェーンから受け取った愛を捧げる相手に出会えた。神々の世界には存在しないであろうパンケーキを作る我らが雷神の姿は、彼の中でジェーンの愛が生き続ける、何よりの証拠なのだから。

 かくして、『ラブ&サンダー』は笑いあり燃えあり涙ありとエンタメのお重箱として出来が良すぎて、ケチもつけづらいクオリティで申し分ない。ユニバース映画の最前線にして最高到達点を担うMCUが、王者たる風格堂々に放つ夏休みの娯楽超大作。とても楽しんだし、マスクの下でつい何度も噴出してしまった。

 にも関わらず、重箱のスミにも数えられないような部分に、今なおモヤモヤを抱える羽目になったのは、未だに彼女のことを忘れられないからだろうか。同じく愛する者を理不尽に奪われ、幻視した可能性に囚われたばっかりに道を踏み外してしまった彼女……ワンダのことである。

以下、『ドクター・ストレンジ / マルチバース・オブ・マッドネス』
『ワンダヴィジョン』のネタバレが含まれます。

 『ドクター・ストレンジ / マルチバース・オブ・マッドネス』について未だに自分の中で評価が定まっていないのは、彼女の一件があったからだ。『ワンダヴィジョン』においてワンダが行ったことは、確かにヒーローとしては失格、許されない過失と言っていいだろう。とはいえ、その要因を作ったのはS.W.O.R.D.のタイラー・ヘイワードであり、要はヒーローに守られながらもヴィジョンを兵器として扱おうとした人間の愚かさである。

 数多のヒーローを手にかけ、ダークホールドを開き、それら全ての否を認めて一人世界から消える(死んだ、と書いていいのか未だに判別つかない)。かつてのヒーローがヴィランに堕ちる壮絶な物語を目の当たりにして、胸に燻るのは喪失の痛みだけだ。戦争孤児の彼女が、暖かく幸せな家庭を求めてしまったことが、罪だというのだろうか。その可能性を奪った真の悪は、正当な罰を受けたのだろうか。

 そうしたモヤモヤを抱えながらの『ラブ&サンダー』、切り離して観るべきをそうできなかったのは、“永遠の門”の設定を聞いた時だった。私が鑑賞した吹き替え版のニュアンスによれば、最初に発見した者が願いを叶えられるという宇宙の中心に存在する場所、としてアナウンスされていたそれは、実に都合よく現れた新概念だった。無論、その先には「コズミックエンティティ」と呼ばれるさらに超常的な概念に接続するであろう、という予測が立つのだけれど、この映画に限って言えば「全ての神々を根絶やしにできる」「死んだ者を蘇らせる」も可能にする、何でもありの舞台装置だ。

 そして意地悪な私の脳は、ありえなかったifに思い当たってしまう。そんな全てを叶える存在が、ストームブレイカーさえあれば簡単に到達できるのなら、ワンダに教えてあげればよかったじゃないか。ヴィジョンを生き返らせることが出来れば、彼女の仄暗い悪の心をいくらか癒せただろう。ガンに侵されたジェーンを救うのと、サノスにストーンを奪われた挙句人間に利用されてしまった彼を蘇らせるのは、意味合いもまた変わってくる。そんなことを思ってしまい、目の前のスクリーンへの集中を欠いてしまったのは、自分でも予想外のことだった。

 MCUが肥大化する度に、単独作での事件が大きくなるほど「世界の危機にアベンジャーズは何やってたの?」というツッコミが生じやすくなったのは、誰もが指摘する通りである。それこそ『エターナルズ』ではサノス事件に対しエターナルズが介入しなかった件について「担当外の事象なので」という申し訳程度のエクスキューズが用意されるなど、マーベルスタジオ側もその点は考慮して脚本を煮詰めているはずだ。世界観を共有すればするほど綻びが生まれ、それを丁寧に潰していく作業にも限界があるだろう。しかもワンダの一件とソーの自分探しのラインは世界観を共有しつつも別軸で動いており、「ワンダが“永遠の門”に至らないのはおかしい!」なんて批判はナンセンスもいいところだ。だからこそ「重箱のスミにも数えられない」という表現を使わせてもらっている。

 そう、こんなことは『ラブ&サンダー』という一本の映画作品において、その完成度を揺るがすような指摘にはならないし、私の物言いは的外れもいいところだろう。こんな文章をネットの海に放って、自身の読解力の無さ、「存在しない問題」を打ち立ててしまった自分の感想の不確かさが、読んでくださった方の気持ちを害するのではという恐ろしさがある。

 ただ、やっぱり私はワンダに幸せになってほしかった。別世界の「あり得たかもしれない」可能性の彼女ではなくて、勇気を出してソコヴィアで立ち上がったあの彼女に、私たちが長く連れ添った“あの”彼女に、苦しんで傷ついただけの報いを与えてほしかった。

 そんなワガママが楽しい気持ちに蓋をするなんて、軽快なエンドロールの余韻とは正反対の萎んだ気持ちを胸に、劇場を後にした。

いただいたサポートは全てエンタメ投資に使わせていただいております。