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【プロセカ】ニーゴのイベントストーリー読んだよ。【その2】

 休日を吸われる、沼がある。沼の名前をプロセカという。

 今回もニーゴの記事です。イベントストーリー3編を読んでの、短めの感想です。例に及ばず(素材が足らんすぎて)サイドストーリーは未読かつ令和4年になって初めてボカロを聴いたレベルの門外漢が喋ってます、というのを念頭にお読みいただければ幸いです。とうとうtwitterのプロフ欄にニーゴの箱推しを表明してしまった。

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お悩み聞かせて!わくわくピクニック

 『シークレット・ディスタンス』の一件を経て、瑞希が何か悩んでいるのではと思う絵名だが、瑞希は中々本性を打ち明けてくれない。そんな折、絵名は(別ユニットの)桃井愛莉からピクニックの誘いを受ける。外出でなら何か話してくれるのでは?と思い、絵名は瑞希も誘い、日野森雫含めて4人でのピクニックが決まる。

 愛莉はどうやら絵名と同じ中学に通っていたらしく、父親との確執もあり最も荒れていた絵名(『満たされないペイルカラー』参照)を知りながらも交流を続けていた人物。絵名の強気なところも優しいところも全部知ってる、この上ない理解者でした。絵名が瑞希との関係で悩んでいることを知り、手助けしたいと名乗り出てくれる、優しい女の子。この子確かユニット曲でツンデレ売りされてましたけど、めっちゃ正統派の女の子じゃん。

 4人は待ち合わせ場所で合流し、ピクニックがスタート。愛莉と雫は、瑞希が話しやすいよう雰囲気づくりに尽力するも、本心を打ち明けることは無かった。ところが、急な斜面で足を滑らせてしまい、愛莉と絵名は崖から落ちてしまう。瑞希は助けを呼ぼうと奔走し、雫も自分なりに出来ることをします。

 崖という物理的なシチュエーションで表現される、絵名と瑞希の断絶。絵名は瑞希のことを本心で理解しようと励んでいる。けれど、見方を変えればそれは瑞希が打ち明けたくないことを暴き立てようとしているようにも見える。二人はお互いを信頼しつつ、それでも「一線」が存在することを、二人は理解しているはず。どこまで踏み込むか、踏み込まないでおくべきか。その慎重な見極めを要求される段階において、絵名の行動は勇み足だったのかもしれない。

 瑞希は、未来を信じられずにいた。来年の今、ニーゴは今のニーゴのままいられる保証なんてない。その関係性にヒビを入れてしまうかもしれない自分を押し殺しながら、生きて行くしかなかった。それでも、絵名が困っているときに、自分が何もしないなんて許せなかった。人と分かり合うことを諦めてきた瑞希が、絵名の手を取るために雨の山をひたすら走る。カワイイ服が汚れることもいとわず、必死に。瑞希にとってニーゴが(絵名が)かけがえのないものであることが再び描かれ、胸を締め付けられます。

 瑞希が救われるか否か、その答えは保留のまま、絵名の中にも強い想いが宿ります。大切な友達だから、理解したい。その想いが、瑞希を傷つける結果にならないよう、我々は祈りを休める暇なんて与えられない。

カーネーション・リコレクション

 「まふゆを救う楽曲を作る

 そんな使命を掲げ作曲を続ける奏だが、まふゆの心を動かす曲に辿り着けない。何度もやり直しても、まふゆの気持ちがつかめない。悩める奏は父のお見舞いに行くのだが、その時の父は奏が生まれる前の記憶の状態だった。目の前の人物を娘と認識できない父。奏は、自分の音楽が誰も救えていないことを悟り、傘もささず雨の街を歩く。

 その光景を見た瑞希は、奏を行きつけのカフェへ誘う。奏のただならぬ様子を見た瑞希は、気分転換を兼ねて奏を街へ連れ出すことに。まふゆの心を強く揺さぶったマリオネットが気になって、ドールショップへ向かう二人。そこで流れるオルゴールの旋律と、フラワーショップに飾られていたカーネーションが、奏の懐かしい記憶を呼び覚ます。

 生前の母と、父が笑いあっていた記憶。カーネーションが咲き誇る花畑は、確かこの近くだったはずだ。瑞希と奏は思い出を頼りに花畑を探す。やっとたどり着いた思い出の場所で、奏は母の笑顔と再会する。

 まふゆを救いたい。その想いは奏にとっても「生きていていい理由」の一つに数えられる。本人が繰り返すように、まふゆの救済は奏のエゴでしかありません。しかし、奏自身が救われたいという願いでは、まふゆの救済には限界があります。奏に欠けていたのは、「まふゆにどうなってほしいのか」という視点。

 父が誰に、どうなってほしくて音楽を奏でたのか。その原点を思い出した奏は、「まふゆに笑ってほしい」という願いに気づきます。かつて父の音楽を聴いた母と幼い自分がそうだったように、音楽に込められた想いを受け取って、まふゆに笑顔が取り戻せたら。奏はこれまでの楽曲とはまったく毛色の違う、暖かくて優しい音色の曲をメンバーに披露します。

 その想いは、確かに届いた。自分が救われたいという願いの先にある、音楽を聴いてくれた人に向けた熱い想い。「お父さんのお仕事を手伝いたい」という純真無垢な願いによって家族を壊してしまった奏にとって、他人を変えてしまうほどの音楽を創ることは、心の底では怖かったのではないでしょうか。「誰かを救う曲を作る」という願いは、奏本人が乗り越えねばならないトラウマの裏返しでもあります。もしまふゆを救えなかったら?という疑念は、奏から相手を想う気持ちをいつしか奪ってしまった。ですが、怖がって手を伸ばさないばかりでは、永遠にまふゆと自分を救えません。

 音楽は、聴く者に様々な感情を呼び起こすもの。では、奏の言う「救う」とは、一体どういう感情を指すのか。今まで触れられてこなかった願いの根幹を、奏は家族が一つであった頃の思い出から取り戻すことになりました。

 まふゆの心をまた一つ取り戻した奏に語り掛けるのは、瑞希でした。瑞希もまた、奏によって救われた人物。世界に居場所がなく孤独だった瑞希の心に、奏の音楽は救済となった。奏の音楽が、瑞希の世界を広げてくれたのだと。

 奏は今、まふゆの世界を広げるために、必死に手を伸ばしている。その手をまふゆがつかみ取れるかはわからないし、まだ届いていないのかもしれない。想いが届くように、手を伸ばせる範囲を広げるには、どうしたらいいのだろう。それはきっと、奏一人では叶わないから、誰かの力が必要なんだ。

 先述のピクニックの一件で、崖から落ちた二人を救ったのは、みんなの着替えの衣服とロープを結んだものでした。一人なら救えなかった。じゃあ、みんななら?そんな問いを投げかけられた今、後は彼女たちがそれに気づくだけなのかもしれません。

 救いの手を伸ばせるのか。差し伸べられた手をしっかり取れるのか。まふゆと瑞希にいつか届くと信じたい「救い」が何なのか、これからも見守っていきたい。

灯のミラージュ

 奏の創った曲に触れて、まふゆに変化が生まれる。だが、まふゆはまだその変化に名前を付けられない、わからない。やがてまふゆは、日常生活の過労もたたり、熱を出してしまう。まふゆの感じた「あたたかさ」とは何なのか……を探る重要なエピソードです。

 まふゆは無表情・無感情な姿が「素」である、と過去の記事で言い切ってしまったけれど、本人の心の奥にはしっかりと感じる心が残っていて、マリオネットを見て取り乱した時も、奏の曲を聴いた時のざわめきも、全部まふゆの心から出力された大切な気持ち。それを上手く言葉に出来ない、まるで赤ちゃんのようになってしまったまふゆは、体調不良も相まってつい幼い心が現実に出てしまいます。

 まふゆがつい他人を頼ってしまう、その初めての場所が奏の部屋、というのがなんとも愛おしい。自身の不調を見抜いてもらえず、勉強と将来のことしか語り掛けない(子どもを大切に想っている/愛しているという描写があるから余計辛い)両親の前では、まふゆはいつもの「いい子」になってしまう。そんな彼女が、取り繕わなくてもいい場所が、現実世界の奏の部屋―奏のセカイとも呼ぶべき場所であるということ。

 奏の精一杯の看病を受けたまふゆの思い出した光景。それは、風邪を引いた自分の面倒を見てくれた母親の思い出。ただ甘えて、愛しい存在を求めれば得られた頃の、懐かしい日々。うさぎの形をしたりんごの味が、幼いまふゆの心を暖めた。

 まふゆの心が休まる場所は、残念ながら今の家庭には存在しない。それはとても残酷で、哀しい。ただ愛を乞えば与えられる幼少期を過ぎて、まふゆは完璧でないと愛されないと思って、彼女は家族にさえ弱い自分を打ち明けられなくなっています。

 ただ、今はその空白を埋めるように、まふゆにはニーゴという居場所があります。病気になっても誰かが手を差し伸べて、「わからない」ことにはわかるまでとことん付き合ってくれて、成功の喜びをみんなで分かち合える。まふゆを認め、受け入れる場所が確かに存在する。それが母親の胸の中ではないという事実は痛みを伴うけれど、少なくとも今は、まふゆは独りじゃない。

 奏が、両親との思い出を込めて創った音楽が、まふゆの心を揺さぶった。現に両親との(表面上ではない)不和を抱えるまふゆにそれが届くという構図は残酷だけれど、母の愛を受け安心し、眠った記憶は彼女の心にハッキリと刻まれている。まふゆはどこかで、母親のことを嫌えないでいる。そうでなければ、反抗期も起こさずいい子を演じ続けるなんて出来やしない。愛を乞い続ける朝比奈まふゆは、奏の楽曲によってペルソナの切り替えに不和が生じ、その不調が知恵熱として出てしまう、本当に不器用な女の子だ。

 そんなまふゆを救うのが「思いやり」だった。もうなんだか、それだけで涙が溢れて止まらない。まふゆに差し伸べられた手は、今確かに届いた。まふゆは、あたたかさは他者から与えられるもの、すなわち誰かが自分のためにすりおろしてくれたりんごのようなものだと学んで、それを自分が求めていることを知りました。そんな心を優しく包んで、見守ってくれるニーゴという繋がりは、「呪い」という言葉とは似つかわしいくらいに、暖かかった。


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