見出し画像

【プロセカ】「25時、ナイトコードで。」ユニットストーリー感想【ニーゴ】

 一体なぜだかまるでわからないが、『プロセカ』を始めることになった。ボーカロイド文化、ひいては歌ってみた文化に触れないままオタクを続けて早十数年、よもやアラサーにもなって『ロキ』『ハッピーシンセサイザ』を聴きながら出勤してます、みたいなことになるなんて、人生はわからないものですね。

 このテキストは、「25時、ナイトコードで。」のユニットストーリーの感想文になります。前述の通りボカロ文化にも明るくなく、選曲の文脈やコンポーザーを取り上げることもありませんし、イベントストーリーやサブストーリーも未履修、という点にご留意いただければ幸いです。「どうしても今書きたい」という初期衝動のまま出来上がったコレを、どうか許してほしい。

救い合って/呪い合って

 ニーゴのユニットストーリーは、奏とまふゆの抱える問題と、(解消ではなく)緩和と納得にフォーカスを当てる。Leo/needたちが集うセカイはあくまで彼女たち4人の想いが連なる「教室」が舞台になったが、ニーゴのセカイはまふゆの想いから生まれたものであることが明言された上に、ミクが「まふゆを救って」と頼み込むほどに、朝比奈まふゆは摩耗しきった状態でユーザーに提示される。

 まふゆの憔悴は、演じ続けることへの絶望。親が、先生が、周囲が望む、誰にでも優しい優等生。大人の言いつけを守って行動する「いい子」。その徹底ぶりたるや凄まじく、自己紹介とプロフィールに至るまで舗装された優等生の仮面はしかし、いつしか朝比奈まふゆの自我のようなものをを奪っていった。味覚を失うほどの強烈な自己の喪失。じゃあ本当のまふゆって何だろう、という問いに対しては、ユーザーもまふゆ自身も「わからない」のである。

 まふゆの動機が「失った自分を取り戻したい」なら話は早かった。音楽活動を通じて、彼女が優等生の仮面の下にあるほんとうに手を伸ばす物語になっただろうから。ところが本作の場合は、まふゆが失ってしまった彼女の個性が何なのか、(ユニットストーリーの段階では)明かされていない。ゆえに、優等生になりすぎる前に戻ることが彼女のゴールではない。朝比奈まふゆにとっては、嫌いなものさえわからないほどに自分を失い、何もかも拒絶して興味ないように生きて、ただただ消えたいと願っているセカイでのあり方こそが「素」なのである。

 まふゆの中にさえ答えはないのだから、まふゆの願いは「私を見つけて」になるのである。ニーゴを一度離れ、自分だけの実力でOWNとして音楽を発表したのも、“音楽ユニットの一人”としてでは見つけてもらえないという切実な想いあってこそ。そしてその行為も徒労と化した絶望に苛まれ、彼女は消えようとしていた。

 そんなまふゆを現世に繋ぎとめたのが奏なのだけれど、彼女の背景や動機も、うっかり取りこぼしてしまいそうな心情に溢れている。

 作曲家の父を手伝いながら健気に生きる中学時代の奏。ところが、奏に宿る音楽への才能が父を苦しめ、結果として家庭は崩壊。その経験から奏は「誰かを救う音楽を創り続ける」ことに囚われてしまう。寝食も忘れるほどに、没頭して。

 この呪いを産み出したのはまさしく父の「奏は奏の音楽を作るんだよ」という言葉なのだけれど、自分の音楽がきっかけで家族を壊してしまったことを奏自身が悔やむのなら「もう音楽活動なんてしない」という決断もあったはずだ。それでもこの呪いを引き受けたのは、病床の父と繋がりたかったというのと同時に、生きる理由がどうしても必要だった、というのが持論である。

 ストーリーの中で、幼い奏は食事をとらないまま憔悴し、「このまま何も食べなければ(死ねるかも)」という考えに至るシーンがある。ところが、彼女は生き延びてしまった、餓死できなかった。身体は本能的に生きろと騒ぎ立て、我慢できないほどの強烈な空腹が身も心も切り刻む。心は消えてしまうこと(死んでしまうこと)を望んでいるのに、身体はそうさせてくれない。その不一致に挟まれた奏は、この空腹という苦痛から逃れるための、生きていていい理由に縋ってしまった。「奏は奏の音楽を作るんだよ」という、自責と後悔に紐づけられたこの言葉のせいにして、希死と生存本能に折り合いをつけるため、奏は自ら呪いに染まっていった。ただ腹を鎮めるためだけの自暴自棄なインスタントだらけの食事が、それを物語っていないだろうか。奏の罪は音楽の才能を持ってしまったことではなく、自ら科した使命に自分を縛り付けて、だらだらと延命を繰り返す「命に嫌われている」生き方をしていたことなのだ。

 ただ、まふゆの何気ない一言で自分の音楽が他者を救っている実感を得られたことで、奏の生きる理由が補強されていく。それは、何物にも代えがたい喜びであったはずだ。生きていていいと認められることを、ただ床に這いつくばっているしかなかったあの日からずっと、探していたとすれば。

 なればこそ、奏の救済は彼女が言うところの「エゴ」なのである。万能の神の救いの手ではなく、一人の人間の利己的な救済。自分が生きるために「まふゆを救わなくてはならない」という呪いを引き受け、彼女をこの世に繋ぎとめる。まふゆを救うために音楽活動を続けることが、奏の生きる理由になるのだから、だから消えないでほしい、アナタを救わせてほしい。

 その最も美しくて最も身勝手なお願いを、まふゆは聞き入れた。まふゆを救いたいという気持ちは、おそらく嘘ではない。だが、深淵でもない。その根底にあるのは「生きていていい理由が欲しい」という願望と、その願望に「朝比奈まふゆ」という一人の尊重されるべき個人の運命を道連れにするという、本当の本当にどす黒いエゴ。この時からまふゆにとって奏(と彼女が作る音楽)は救済であり呪いと化していく。奏が生きるにはまふゆが必要で、まふゆが生きるに奏が必要で。そんな共依存関係を抱えながら、互いが互いの生きる理由を担保する。そんな危ない綱渡りをしながら声を枯らすのがニーゴ。

 まふゆの両親の子育てのスタンスが変わるわけでもなく、奏の父が目覚めるわけでもない。まふゆは真の意味で「見つけてもらった」わけでもないし、奏は全てを救う音楽は創造できていない。全ては「保留」で、それでもひとまず「生きていていい理由」だけは見つかった。エゴとエゴで互いを縛りあう、不安定で不健全で仄暗い共依存。それらを踏まえて『悔やむと書いてミライ』の歌詞を読み解いていくと、私は涙が止まらなくなる。

もう一人の「見つけてほしかった」女の子

 奏とまふゆの契りを中心に据えたストーリーの中で、不穏さと実在感をもって描かれたのが東雲絵名だった。前述の二人とはまた違った危うさを抱える、現代的な少女。

 父のように素晴らしい画家になりたいと願いながら、その才能が認められない鬱屈を自撮り画像を投稿して穴埋めする。彼女の可愛らしい容姿にはたくさんの「いいね」が付く。数字という具体的なパラメーターで満たされる承認欲求は彼女を笑顔にする。が、絵名もまたまふゆのようにほんとうの自分に蓋をしてしまった人物と言えるだろう。

 だからこそ、絵名がまふゆに向ける感情もあの二人に負けないくらい切実なのだ。OWNとして、自分ひとりの才能で「再生数」という見える価値を稼げる実力を持ちながら、そのことに頓着せず無価値のように切り捨てるまふゆの姿は、絵名には許せなかったはずだ。もちろん、お互いの動機も目指す場所も違うのだから、絵名の言葉はまふゆには届かない。二人は今のところ平行線で、「絵名がまふゆの音楽に惹かれている」という一点でのみ繋がることが出来ている。この危うさもまた、ニーゴの魅力には違いないのだけれど、どうしても不穏に思えて仕方がない。

 その解消にあたっては、絵名自身が意識を変えるしかない、というのが現時点での結論である。他人から投げられたいいねではなく、それ以外の何かに満たされたり、没頭するという経験が。

 少し……いや、とても意地の悪い言い方をする。キャラクターの実在感をどれだけ語ったとしても、我々にとって『プロセカ』は二次元コンテンツであり、そこに登場するのは見目麗しい美男美女であることに何の違和感も持たない。だが仮に、東雲絵名の容姿が優れていなかったとしたら、どうなっていただろうか。たまたま可愛くなかったら、彼女の心はどうやって満たされたのだろうか。しかも、「若さ」と「美」にはタイムリミットがある。彼女の自撮りアカウントは今や7,000人近いフォロワーがいるらしいのだが、その7,000人が彼女の容姿に見切りをつけ、去っていったら、東雲絵名はどうやって立っていけばいいのだろうか。

 生きていていい理由を見つけられた奏とまふゆに先を越された形で、いつ崩れるかもわからない自尊心を抱え生きながらえている絵名。彼女に救済の順番が周るのは、いつになるだろうか。

誰も「見てくれない」女の子

 その一方で、慎重にならざるをえないのが暁山瑞希について語る時だ。彼/彼女が(あえてこの言い方をするが)一筋縄ではいかないというのはプロフィールを見れば一目瞭然。わかった気にならないよう注意して読み解いていく必要がある。

 その点、暁山瑞希の物語には、読み手である自分の過ちを突き付けられたような気がした。なぜなら、瑞希自身に問題があるのではなく、瑞希を取り巻く周囲に問題がある、という描き方をしていたからだ。

 例えば、私はたまたま性自認と身体が合致していただけの人間で、ゆえに暁山瑞希の悩みや葛藤は真に理解しているとは言い難い。しかし、社会は、このnoteを書いている私は、暁山瑞希という人間を理解できる型にはめようとする。男か女かという社会的な区分だったり、「このセクシャリティの人はこういうことで悩んでいるだろう」というマジョリティーの傲慢な想像(あるいは願望)だったり。口では「わかっていますよ」と言いながら、その言動に傷ついている人がいることを見ないフリして知識人ぶっている、卑怯な多数派の人たち。

 ユニットストーリーにおける暁山瑞希の周囲には、私が抱いてしまっている偏見や無理解に溢れていた。瑞希が「生物学上の区分とは異なる服装をして登校していること」に無遠慮な陰口を吐いたり、「俺は慣れたよ」だのと理解者ぶってその癖「瑞希」という個人を理解しようとしなかったり。こうした積み重ねの中でしかし、暁山瑞希は「わたし」を保っていられる、強い人物だ。他人と違うことを受け入れ、しかし周りに迎合せず信ずる「カワイイ」を一身に体現する。瑞希は他のメンバーよりも一つ高いステージにいて、自己を巡る葛藤にはすでに完結しているような風格さえある。そんな瑞希がいるからこそ、ニーゴは瓦解しないで済むのかもしれない。

それでも、生きていく。

 「消えてしまいたい」ほどの深い喪失や葛藤を抱え、「音楽」と「呪い」で辛うじて繋がりあうニーゴ。その歪で危うい連帯から生まれる楽曲は、深夜に蔓延る鬱屈に共感と少しばかりの癒しを与えてくれる。ニーゴの楽曲はどれも攻撃的だったり刺激的な歌詞が並び、しかしどこか心地よくて親しみがある。私は今これらの楽曲を聴いて、あぁ、「中学時代に出会わなくてよかったな」とすら思ったほどだ。それまでにニーゴの曲は“効く”し、心がザワザワして落ち着かなくなる。何かと感傷的で自罰的だったあの頃がフッと蘇るような感慨に襲われたのは、気のせいだと思いたい。

 もちろん、ユニットストーリーはほんの序章に過ぎない。レオニもニーゴも、まだ見ぬユニットたちも、それなりの深い物語を抱えていることだろう。安易に踏み込むには劇薬すぎたニーゴとの出会いをきっかけに、苦手な音ゲーを続ける動機は出来た。少なくとも「呪い」の末路がどうなるかを見届けるまでは、アンインストールすることもないと思う。


この記事が参加している募集

#コンテンツ会議

30,724件

いただいたサポートは全てエンタメ投資に使わせていただいております。