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『シン・ウルトラマン』が今更しっくりきた話。

温故知新、私の好きな言葉です。

 “外星人第0号”なら、そう言うだろうか。『シン・仮面ライダー』と『グリッドマン ユニバース』の余韻がまだ冷めない中、『シン・ウルトラマン』を久しぶりに観た。劇場で4回観て、配信でも一度観たけれど、今年になって観たのは初めてだ。特撮映画はやはり大スクリーン大音響が最も映えるが、自宅でリラックスした状態で観るのも、それはそれで乙なものだ。いつの間にか『シン』実写シリーズ皆勤賞になった斎藤工と竹野内豊が本作では敵対関係?にあって思わず吹き出してしまうし、「遊星から来た兄弟 勝利(M5)」はどんな環境であっても抵抗不能に涙が溢れ出る。歪でヘンな映画だとは思うのだけれど、作り手の原典に対する迸る愛と情熱に対しては、こちらも姿勢を正してしまうほどの圧がある。

 それにしても不思議な事に、これまでの鑑賞経験の中で今回が一番「しっくり」きた、きてしまったのだ。多少のアルコールが入っていただとか、ラフな部屋着とYogiboのビーズマットによる相乗効果がもたらしたとか色々考えられるけれど、最も効果的だったのは区切って観たこと、これに尽きると思う。

 自分の余暇時間の都合上、今回はザラブ撃破~メフィラス来襲を境に、二日に分けて鑑賞した。その二分割された『シン・ウルトラマン』を、自宅のTVで観る。これが、この体験こそが、異様にしっくり来たのである。

 前提として、現在公開中の『シン・仮面ライダー』ではそのプロモーションの一環として、『〈特別放送〉幕前/第1幕 クモオーグ編』と題し本編の序盤をノーカット地上波放送しているのだけれど、その放送版では初報時の特報映像をOPとして、CMに入る際はアイキャッチが追加されるという編集がなされていた。これにより、同作が『仮面ライダー』第1話の鑑賞体験の追体験として異様なまでに作りこまれていること、それ自体が作劇のコンセプトそのものであることを後追いで悟り、その編集に本能的に「正しい」と感じてしまった、という出来事があった。

 おそらく『シン・ウルトラマン』にも、そういう側面があるのではないだろうか。劇場鑑賞時にずっと気になっていたのだが、この映画のテンションは常にフラットすぎやしないだろうか。ネロンガとガボラ、ザラブにメフィラス、そしてゾーフィとゼットン。おそらく意図的であろうが、本作はその都度敵対する禍威獣と外星人ごとにチャプターを割り振っているし、どのキャラクターに対しても平等に手厚くリファインしようと心がけている。偉大なる原典を令和にトレースした際、何かを希釈することを是としなかった作り手の、強固な愛ゆえの作劇。

 同時に、その構成ゆえに本作はどうしてもオムニバスのような見え方をしてしまい、2時間の映画において盛り上がりの起伏が少なく、クライマックスのカタルシスが物足りないという不満点がどうしても拭えなかった。それを突き詰めるとヤシオリ作戦の再演になってしまうという危惧もあったのかもしれないが、完成した映像ではどうしても人類の存続がかかった総力戦には見えない、実に唐突な最終決戦とエンドロールで幕が閉じられてしまう。

 そうした作品の特性と、二分割にして観るという「映画として鑑賞しない」スタイルがマッチングした、ということなのだろう。ザラブ案件を終えた禍特対メンバーに特段平穏が訪れることなく、正体がザラブに暴かれた神永は無断欠勤が続き、浅見も姿が見えない。すると、突如東京に巨大化した浅見弘子が現れる……。あえてメフィラス編をTVシリーズの1エピソードとするのなら、そんな「あらすじ」がネットや新聞に載ったかもしれない。この一連の物語が『ウルトラマン』の1エピソードの手触りであるため、映画を続きから観るというよりは「TVシリーズの次の話を再生する」という感覚が強く、一映画作品として生じる違和感を払拭したまま、作品に没入できたのだ。なんだろう、面白いぞ、シン・ウルトラマン。

 しかし改めて、山本耕史のメフィラスは絶品である。紳士的かつ友好的で、同時に限りなく胡散臭い。このバランスはどうやって醸し出すのだろう。おそらく、地球という星や現生人類を愛しているという言葉には嘘はないのだろうが、結局のところ人類をまだ幼い種として愛玩するような目線があり、やがては兵器資産としてペット化するような扱いに変容していく。暴力を嫌い、極めて知性的な理詰めで人類を掌握し、星間協定を盾に取りウルトラマンの干渉を遮ろうとするメフィラス。彼の誤算は、リピアーがすでに地球人類大好きマンになっており、協定を無視するレベルまでこの星に興味津々だったことだ。後の「ゼットンを殴り飛ばせばいいんだな」発言しかり、リピアーはわりと手が早いタイプである。

 その侵略に対し、本作の人類は(というより日本政府の大人たちは)サトル少年の純粋さには全く及ばなかった。敗戦国であり禍威獣災害の当事国という弱い立場を打開するためのカードとして、ザラブにおける失敗を顧みることなく外星人との協調路線を選び続けた我が国の大人たちは、危うく自ら家畜になり下がる一歩手前まで堕ちていた。原典のメフィラスは自身の侵略を“地球人の心への挑戦”と評したが、『シン』におけるそれは我々人類の完全なる敗北だ。もしかしたら、『シン・ゴジラ』から本作の一番の変化は、為政者に対する希望が諦観にひっくり返ったことなのかもしれない。

 閑話休題。もう一つの「しっくり」の話をすると、終盤のリピアーとゾーフィの会話における新しい発見のことだ。「そんなに人間が好きになったのか」への前段として、リピアーは自己を犠牲にして他者を救うという人間の心の動きに関心を持ち、人間を知ろうとしたことを明かす。

「私はこの星の生命体と一体となり、彼や彼らを理解しようと試みた。
だが、何もわからないのが人間だと思うようになった。
だからこそ、私は人間となり人間をもっと知りたいと願う」

 わからない、だからこそ知りたい。一言一句は覚えていないけれど、『シン・仮面ライダー』における本郷猛も、そのような旨を語っていた気がする。きっとこれは、本作の脚本を手掛けた庵野氏の永遠のテーマ。だが、そこに「拒絶」の意志がないことに、作風の変遷を読み取ることも出来る。

 「他人」とは完全に理解できず、時に自分を傷つける、恐ろしい存在である。かつて心の壁=A.T.フィールドがお互いを削り合ったのが旧『エヴァンゲリオン』であり、それは人が生きる上で避けられない痛みであることを知りながらも、それを受け入れるシンジくんの決断で物語は終結した。そこから時を経て、不器用ながらも手を取り合い他者を信じる心を取り戻した人間たちの営みが『ヱヴァンゲリヲン』にて、各省庁間の縦割りを超えて人々が一致団結し国難を乗り越えようと奮闘した『シン・ゴジラ』を経て、庵野氏のA.T.フィールド(絶対不可侵領域)は少しずつ融和しつつあるらしい。

 理解できないから遠ざけるのではなく、知ろうと努力する。一人のクリエイターの心の葛藤と変遷が、エヴァ―ゴジラ―ウルトラマン―仮面ライダーという日本を代表するキャラクターの連作で描かれていく。商品展開上の屋号ではあるが「シン・ジャパン・ヒーローズ・ユニバース」と題された一連の作品群は、他では見ないほどに作り手の思想やフェティシズムがしっかり刻印されたものでありながら、それでいて面白く、世間を巻き込んだムーブメントを巻き起こした、稀有なシリーズと言えるのかもしれない。多様性と各作家のカラーがやがて一つに混ざり合うMCUとはまた異なる、ある一人のクリエイターを中心としたチームが手掛ける、直接的な繋がりはなくとも精神性で姉妹作であり続ける異形のユニバース。その最前線を生きて立ち会えたのは、本当に幸せだなと、たまに思い返してしまうのだ。

 本当は「樋口真嗣監督作なのに庵野さんの名前だけで語られがち問題」についても言いたいことがあるのだけれど、今回はここまで。次の「しっくり」に出会えたら、また書き記してみようと思う。

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