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歴史を語り継ぐことの意義を見つめる『この世界の片隅に』

 『君の名は。』の歴史的大ヒットが続く中、また別のアニメ映画が話題を呼んでいる。公開が近づくにつれ作品の完成に至るまでの経緯を特集した記事や評論家による大絶賛の評がネットで注目され、一般公開されると観た者の感想がSNSを中心に拡散し、映画を賞賛する声が後を絶たなくなった。公開館数は小規模ながら異例の大ヒットを続ける映画 『この世界の片隅に』 

 その異様とも思える絶賛ムードの中、真意を確かめるべく、11月23日祝日のお昼の回(直後満員完売になった)席を予約し、電車賃を握りしめ、劇場へ向かった。すると、前の上映回を観終えてスクリーンから退場するお客さんのほとんどが、すすり泣きながら、あるいは顔をハンカチで覆いながら劇場を後にしていった。「これはただ事じゃないぞ…!!」という緊張感を抱えながら、指定した座席に座るのだった。

大戦下の営み、日常

 本作は『夕凪の街 桜の国』の こうの史代の同名漫画を、 『マイマイ新子と千年の魔法』 を手掛けた 片渕須直監督が映像化したアニメ映画。 製作費の調達が困難だったためクラウドファウンディングを採用したところ、4,000万円もの支援金が寄せられた。また、女優「のん」の改名後初の大仕事として主演に抜擢され、しかし大手マスコミによる大々的な宣伝が成されなかったことも波紋を呼ぶ原因となった。

 本作の見どころは、戦時中における市民の生活を丁寧に、そして“ユーモアを忘れずに”描いたことにある。事実、戦争を題材にしておりながら、劇場では何度も笑いが起こっていた。  
戦争映画と言えば、暗く陰鬱な印象を持つ人も多いだろう。筆者もその一人で、実際に上映が始まるまではかなり身構えていた。個人的な話だが、小学生時代に平和教育の一環として上映された『はだしのゲン』のアニメ版に、言葉に出来ぬ恐ろしさを感じて以来、この手のジャンルが苦手だったのだ。

 しかし、本作は戦時中であることを悲劇的に描くことなく、少ない物資をやりくりしながら生活する人々を、コミカルに描いている。配給が乏しいときの台所事情や、当時の男女の結納はどう交わされるか、といった日本古来の風習や非常時ならではの工夫に溢れた生活の様子がテンポよく描かれ、そのたくましさに観る人も釣られて笑顔になっていく。  

 なんといっても本作のユーモア性を担う第一人者は、主人公であるすず、というよりすずを演じる「のん」自身にあることは、観た人なら異論はないはずだ。いつもボーッとした性格でのんびり屋、絵を描くことが大好きで、いずれは誰かの嫁になる準備も心構えも未熟な女の子。しかし、ある日突然舞い降りた縁談、そしてあっという間に他の家に嫁いでいくことになり、そのスピーディさにすず本人もついていけない。あまりの事態に、いざ相手先に挨拶に行ったものの、嫁ぎ先の苗字を覚えてすらいなかった!、というのが大いに劇場の笑いを誘った。  その後も、慣れない裁縫に苦心したり、道端の植物で創作料理にチャレンジしてみたりと、戦況とは似つかわしい彼女の明るさに、画面も華やいでいく。中でも印象的なのが、すずが時折見せる「あちゃ~」という顔。そのコミカルな表情の演技は、戦時中であることの大変さを忘れさせてくれる、貴重な清涼剤であった。

 そんなすずの存在感を支えるのが、もはや代役は考えられないほどマッチした「のん」の演技。独特な広島弁のイントネーションと、世間ずれしたフワフワとした声質の相乗効果によって、すずという女性に愛着を持ってしまう。プロの声優と比べたらどこか拙い彼女の演技も、愛らしさに昇華してしまう。『あまちゃん』にてお茶の間を席巻した彼女の才能が、遺憾なく発揮された結果だろう。

 こういった生活描写を観て、こんな戦争映画は中々お目に掛かれないものだと、素直に驚かされる。戦時中とはいえ笑顔が無かったわけではないし、誰もがふさぎ込んでいたわけでもない。足りないものを補いながら、慎ましくも賑やかに生きていた当時の人々。そのことを追体験させてくれた本作は、戦争を体験したことのない、現代を生きる日本人にとっては、新鮮かつ多くの気づきを与えてくれる、素晴らしい映画体験に他ならない。

忍び寄る戦争の影

 見知らぬ土地で、 北條周作 の妻として、その土地の人や嫁ぎ先の家族と交流を重ねながら、少しずつ居場所を見つけていくすず。しかし、配給の削減、闇市における物価の向上を目の当たりにして、彼女にも不安が襲い掛かる。本作は昭和8年、すずの幼少期から矢継ぎ早に北条家との結納まで描かれ、そして広島・呉の町で年月を重ねていく。しかし、映画を観ている現実の我々にとって、昭和20年(1945年)の8月に近づいていくことは、不穏なものを感じずにはいられない。原子爆弾の投下、そして終戦の玉音放送。前半の生活描写に深い愛着を抱いている者ほど、後半からの描写には、深いショックを受けることになる。空襲警報により安寧が損なわれ、時には住居を、あるいは大切な人を奪われる。その理不尽な暴力の元、たくましく生きていたすずや北条家だったが、彼女らとて無傷ではいられない。  

 ネタバレなし、と銘打った都合上、具体的な言及はしないものの、すず本人も壮絶な喪失を体験し、そして彼女自身も無邪気な少女のままではいられなくなってしまう。序盤から強調されていた、いつもボーッとしていた彼女が、ついに声を荒げるとある場面では、こちらの胸が抉られるような悲痛を覚えた。命を奪われることへの恐怖はもちろん、生き残った者へも残酷な運命を強制する「戦争」の醜さ恐ろしさを、短くも強烈に印象付ける。「のん」の演技も鬼気迫るものがあり、多くの観客が涙した。

歴史を語ることの意義

 1945年8月15日、ついに戦争が終わった。しかし、生き残った者たちの日常は続いていく。家を失い、大事な人を亡くしても、生きていかねばならない。どんな状況でもたくましく生きること、そして希望を繋いでいくこと。前途多難だが、それでも負けじと肩を寄せ合う登場人物の姿に、どうしたって深く想い入れてしまった。

 決して楽しい思い出ばかりではないけれど、愛おしいあの時間、確かにすずたちは広島の町で生きていた。その姿を広めたい、もっと色んな人に届けたい、という想いが、前述したSNSでの拡散を呼んでいるのだろう。観た人が他人に薦めたくなる、しかし上映館が少ないという現状は、確かにもどかしいものがある。だからこそ、一人でも多くの人が劇場に足を運んでくれれば…という想いを繋ぐべく、この拙文も役に立てば幸いである。

 最後に、鑑賞後に知って感銘を受けたことを書き記しておきたい。本作の原作者、 こうの史代氏は1968年生まれ、 片渕須直 監督は1960年生まれである。すなわち、本作を生んだ二人は、どちらとも終戦後に産まれた、戦争を体験していない世代なのだ。  
しかし、本作冒頭に映る、原爆投下以前の広島の街並みの再現度に驚いた、という感想を目にして、いかに作り手が歴史を学んだか、ということに気づかされた。  

 戦争体験者も高齢になり、当時の様子を語れる場も少なくなりつつある中、悲しい歴史を再び繰り返すことないよう、学校では様々な教育がなされているであろうし、夏が近づけばテレビやラジオでも必ずや戦争の話題が繰り広げられるであろう。  だからこそ、誤った歴史が語られることないよう、戦後の世代がリサーチを徹底し、作品として世に送り出す。戦争経験者の悲しみも無念も、そして確かににあった笑顔や日々の工夫も、無かったことにせず、後世に語り継いでいく。そこにこそ本作を含めた戦争を扱う諸作品の持つ意義があるのではないか、という問いに辿り着いた。

 製作費が確保できず、2012年から紆余曲折ありながらも完成にこぎつけた執念。その詳細は原作漫画や各種インタビューや公式ガイドブック等にて語られていると思われるが、何より本作が無事公開され、こうして人々の注目を集めていくことに、歴史が受け継がれていくことの尊さを学んだような、これまでにない映画との向き合い方を知ることが出来た。

 上映館が少ない現状、移動費の都合等でなかなか観られないと尻込みする方もおられるが、今年を代表する作品として、日本人として今観る価値のある一作であることは、畏れ多いながらも保証します。ぜひ、後世に繋いでいくためにも、すずたちの人生に思いを馳せてみてください。

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