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人間も人形も生きづらさと闘う。『バービー』

 お人形遊びはとっくに卒業したが、だからと言って『バービー』の実写映画を素通りする道理はない。バービーをマーゴット・ロビーが、ケンをライアン・ゴズリングが演じると聞いてから、ずっとずっと公開日を待ちわびていたのだ。なので、非常に不誠実な態度であることは承知の上で、いわゆる「Barbenheimer」については言及を控えさせていただきます。

https://www.netflix.com/title/80161497

 とはいえ流石にバービー人形で遊んだことのない成人男性として、丸腰で鑑賞するのは少し不安だった。そのため、Netflixで配信中のドキュメンタリー『ボクらを作ったオモチャたち』のバービー回に目を通して臨んだのだけれど、これが予習として最適な一本だったのでオススメしたい。

 このドキュメンタリーでは、バービー人形がいかにして産まれ、当時の少女や母親たちにどのように受け止められ、人形遊びという概念に起こった革命を追っていく。例えば、最初の試作品のバービーには乳首があって、ケンにも男性器が象られた検討モデルがあったなんて笑い話から、当時のマテル社の営業は男性しかいなかったためバービー人形をどう売り出せばよいかわからず困惑したという経緯など、映画の中ではジョークとして扱われたアレコレも実はバービー人形の歴史を踏まえたものである、ということだ。

 バービー人形は常に議論の的で、「女の子は何にでもなれる」とエンパワメントする象徴として愛され続け、同時に男が望む良妻賢母を押し付けてきた存在として忌み嫌われる。良い面も悪い面も平等に扱う視点は、今回の映画にも共通するところだ。そうした知識を授けてくれる本ドキュメンタリーは、40分弱でまるっとバービー史をおさらいし、その上でクライマックスのある場面で巨大な感動を呼び起こすように作用する。これから映画を観る人もすでに観た人も、副読本としてお立ち寄りいただきたい。

 さて、今回の映画版である。「マーゴット・ロビーが全カットにおいてキュートすぎる」「ライアン・ゴズリングの腹筋」「ケイト・ホルツマン・マッキノン様……」「シム・リウがニッコニコでおれも嬉しい」あたりが徳の低い感想になるだろう。ではもう少しシリアスな話をするのなら、「こんなに“生きづらさ”の映画だと思わなかった」という驚きが最初に降ってくる。

※以下、本作のネタバレが含まれる。

 毎日が最高で完璧な、バービーランド。そこを一歩出た人間界は、女性は性的な視線に晒され、要職に就けず、女性大統領はしばらく現れる気配のない、そんな世界だった。バービーは当然、そんな世界の在り方に疲弊し、バービーランドこそ自分たちの理想郷だと語る。ところが、バービーランドと人間界は実は反対で鏡合わせという設定が用いられ、バービーランドは女社会で人間界は男社会という極端な構図が待っていたのである。

 つまり、バービーランドを理想郷だと思いこんでいたのは、バービーがバービーでいられたからこそ、ということに彼女自身が気付かされることになる。事実、永遠にバービーの“添え物”として扱われ続けてきたケンにとってバービーランドで生きることは苦痛や劣等感に苛まれる人生(人形生?)であっただろうし、その反動で生まれた“ケンダムランド”では女性は給仕係のように扱われている。人間社会もバービーランドも、常にどちらかの性を従属化しなければ成り立たない(成立しない、あるいは不都合に感じる者が生じる)という、一番目を塞ぎたい真実を突きつけてくる映画なのだ。

 さらに、ケンの抑圧から生まれた、男性社会化したバービーランドが良いものであったかについても、この映画は実に重要な指摘をしていると思う。ケンが学んだ「人間界における男らしさ」とは、マッチョであるということだった。大きな家に住み女性を従え大きな馬(あるいは車)を愛好する。それはあくまで男性性の一部であって、全ての男がそんな在り方に順応できるはずがないということを、アランというキャラクターが示してくれていた。アランはケンのように複数のバリエーションが世に出た人形ではなかった。つまり、生き方も性格も1通りしかないということだ。そんなアランは、「たまたまマッチョではなかった」ためにケンダムランドでは生きられず、強引に外に出ようとする。誰かにとっての理想郷は、誰かにとっての煉獄であり続けるのだろう。

 ということは、薄々わかっていたことだが、万人にとっての理想郷は存在しないという、どうしようもない真実に行き当たることになる。バービー人形は女の子に勇気を与えてきた唯一無二の友達になりえたかもしれないが、この現実社会は残念なことに女性に対して不当な扱いを浴びせているし、きっとその被害者は女性だけに留まらない。性別にかかわらず、私が知らないだけで数えきれない人たちが苦しんでいて、私は「たまたま男性として生まれた」から優遇され、社会が用意した土台の上でのうのうと生きているだけなのだろう。私の生活は、誰かの生きづらさの上で成り立っている。そう突きつけられてしまっては、この映画を観て感想をインターネットに叩きつける行為ですら、何らかの暴力性を帯びているように感じてしまう。

 人間界とバービーランドは、誰かにとっては生きづらさを強要するものであり、お互いを反転させたとて被害者と加害者が入れ替わるのみで、根本の解決にはならない。教訓としては正しいのかもしれないけれど、胸中には大きなしこりが残り続けるままだ。ただ、何一つ希望がないわけではない。

 ケンの野望は断たれたけれど、“典型的な“バービーはケンそのものを否定しなかった。ケンは何者にもなれないことを嘆くのではなく、ケンはケンのままでいいと、そう受け止めてあげるのだ。そしてその問いは、今度はバービーに返ってくる。大量生産の人形ではなく、一人の人間、一人の女性として生きるのなら、私はどう歩むべきなのか。人間界で生きることは、バービーにとっては不完全で完璧ではない世界で生きることを意味する。

 ただ、バービーランドは自分たちの世界が未完成であることを知り、変わる意欲を見せてくれた。おそらく今後は、ボーイズナイトとガールズナイトが日替わりに開かれて、いつかはボーイズ&ガールズナイトに変わるだろう。数多のケンと一種類のアランが救われる日は、もうすぐやってくるかもしれない。これはこの映画の中で唯一「理想」と呼んで良いものだ。

 そしてバービーは、不完全な世界で自分の脚に合った靴を履いて、自分だけの名前を名乗って生きている。バービーランド同様に人間界も不完全で、世界が良くなるような兆しは見えない。けれど、そんな世界でも強くあろうとする想いは、世界中の女の子たちがバービー人形から貰った気持ちの一種だとすれば、これ以上のラストは思いつかない。彼女が妊娠したか否かではなく、「子宮」を持ち「人間」になった彼女が確かな足取りで婦人科の窓口へ向かう、その一歩一歩が、私には格好良く観えて仕方がなかった。

 以上が、私の『バービー』の感想。映画の読み解きとしても、抱くべき感想という意味でも「正しさ」とは程遠いのでは、という恐怖を抱きつつ、私自身もわずかばかりの「生きづらさ」を感じたことのある人間として、勇気づけられた。と同時に、この映画で描かれる「愚かな男性性」については本当に悲しいかな、ごく最近のやらかしと多いに重なる部分があり、巨大な十字架を背負った気分でもある。

 世界がよくなればいいと思うのは他力本願に近いが、人の振り見て我が振り直せ、は自分の努力である。その、映画を物知り顔で語る愚かしさって、私のnoteそのものなんですよね……。実に胃の痛い2時間でした。オススメです。

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