見出し画像

これで最後じゃ悲しすぎる『X-MEN: ダーク・フェニックス』

 平成が終わり、『アベンジャーズ』も『スター・ウォーズ』も、そして『X-MEN』も終わる。とくにアメコミ映画シリーズとしては最長を誇る大先輩の勇退作になるのだが、それが祝祭感に溢れているとは限らない。何かと大人の事情が見え隠れするこの大慌ての風呂敷の畳み方では、19年の歴史の終止符としてはあまりに物悲しい。

前作『アポカリプス』から10年。プロフェッサー率いるX-MENの元に、大統領から宇宙空間で故障したスペースシャトル乗組員の救出の依頼が届く。ただちにミッションに向かうミュータントたち。しかしジーン・グレイは脱出が間に合わず、太陽フレアを直接浴びてしまう。なんとか一命は取り留めたものの、ジーンは封印されていた幼少期の記憶を取戻し、強すぎる超能力を自制できなくなっていく。

ダーク・フェニックス再び

 原作コミックを読んでいなくとも、映画シリーズを追っていれば「ジーン・グレイ」「フェニックス」のワードだけである程度の展開を読み取ることは可能だ。何かと槍玉に挙げられがちなシリーズ3作目『ファイナル ディシジョン』のおいてもジーン・グレイ(当時はファムケ・ヤンセンが演じた)がテーマの一つではあったが、「ミュータント治療薬キュア」「プロフェッサーとマグニートーの決着」「ウルヴァリンの葛藤」など描くべき物語が多く、結果として散漫な印象に終わってしまった。

 この題材に再び挑むのは、『ファイナル ディシジョン』以降の脚本を手掛けてきたサイモン・キンバーグ。今作にて初めてメガホンを取り、新世代のキャストによるリベンジを図った。

「原作の人気の根源とも呼べる部分を、本作でも一番大切に描きました。この映画で描かれるのは、実は非常に個人的な危機。ファンや仲間から愛されてきたキャラクターが、制御を失い、正気を失う。そして、その影響が銀河系全体に及んでしまう。つまり、個人の危機が手に負えなくなり、愛する人を失うことが、銀河系全体の危機を意味するわけです。」(引用元

 この言葉通り、本作『ダーク・フェニックス』はミニマムでパーソナルな物語だ。全宇宙の命を半分にするような悪役もいないし、シリーズ全体に隠された謎が明かされるわけでもない。描かれるのは、望まずして持ち合わせた才能に苦しみ、居場所を求めて彷徨う女の子の物語。「人と違う」からこそ怖れられ、疎まれてきたジーン・グレイ、ひいては全てのミュータントたちが宿す心の闇や苦悩を、いかに癒していくのか。超能力を発揮したバトルは、そのオマケのようなものだ。

 ジーン・グレイは、あのプロフェッサーX=チャールズ・エグゼビアを超えるとされた能力の持ち主。その強すぎるパワーを制御できず、ある事件を起こしてしまったことをきっかけに、彼女は「恵まれし者の学園」に足を踏み入れることになる。ジーンを引き取る際の、チャールズの言葉が印象的だ。「きみは特別(special)だ」と語り、ジーンが他者とは違う存在であることを告げ、それでも肩を寄せ合って生きられる場所を与えようとする。自分を抑えられなくなって、何かを傷つけることを怖れるジーンに、チャールズは何度でも直すと言った。自分を受け入れてくれるコミュニティがあることを、このときジーンは初めて学んだのかもしれない。

 それから月日は経ち、ジーンは大人になり、X-MENの一員になった。プロフェッサーの部屋には大統領とのホットラインが敷かれ、迫害される対象だったミュータントはいつしかみんなのスーパーヒーローへ。念願だった人類とミュータントの共存が叶い、X-MENはその架け橋となった。過去作の積み重ねを思えば、これだけで胸が熱くなる。だが、その均衡を破るのは奇しくも身内であるジーン。宇宙での一件を経て、彼女は忌まわしき記憶を取戻し、失った家族を求めて行動を開始する。強すぎるパワーを抑えきれない今のジーンはまさに時限爆弾、彼女を止めるために出動するX-MENだが、そこである悲劇が起こる。

 予告やポスターでアナウンスされた「X-MEN最大の脅威」とは、人類との共存の決裂のことを指すのだろう。ジーンを守るため、ひいてはミュータントを差別から守るため、若かりしチャールズが犯したとある隠蔽によって、事態は取り返しの付かない局面に発展。人と争うことを止め仲間と自給自足の生活を送るマグニートーも、とある事情からジーン抹殺のために動きだし、ビースト=ハンク・マッコイもプロフェッサーの元を離れ彼に協力。ミュータントの二大勢力が激突し、ジーンもまた自分を抑えきれずに破壊活動を行ったことで、再びミュータント排除運動の機運が高まる。

 脅威の排除か、それを受け入れるか。ここで思い出すべきは、「X-MEN」そのものが社会のはみ出し者を受け入れる家であり、家族であったということ。X-MENが共存維持のためにジーンを拒絶すれば、その理念は完全に崩壊してしまう。だからこそチャールズは己の行いを反省し、ジーンを取り戻すべく闘いに挑む。その痛みを伴う闘いに、X-MENのあるべき姿を体現せんとするチャールズの、そして作り手の意思が込められている。マイノリティに手を差し伸べるその在り方を描いたという意味で、まさしく『X-MEN』の映画たりうる最高のシーンである。

拭いきれぬ物足りなさ

 上述した通り、本作はジーン・グレイの抱える葛藤を通じてX-MENの在り方を問うものになっており、それ自体は感動的である。また、シリーズ最終作という触れ込みも、ディズニーによる20世紀フォックスの買収という経緯があり、偶然が重なったものと読み解くこともできる。

 それにしても、なんとわびしい最終回だろうか。19年続いたシリーズにも係わらず、本作で呼応するシーンがあるのは『ファースト・ジェネレーション』くらいのもので、『フューチャー&パスト』『アポカリプス』とはまるで整合性がない。X-MENシリーズではもはやお馴染みだが、こと時系列や前作との矛盾点をいくらでも指摘出来る上に、「積み重ね」がないためカタルシスも生まれようがない。『エンドゲーム』の公開後というのも分が悪く、最近の潮流であるユニバース化に慣れた観客にとって、連続性の破綻ははっきりとマイナスに映る。

 それだけでなく、ジェシカ・チャステイン演じるヴィランは名前さえ思い出せないほどに印象が薄く、目的や能力の描き込みが希薄で盛り上がらない。魅力的な悪役があってこそ映画が面白くなるという大前提を、この映画で再確認できるだろう。

 個人的に残念なのが、ビーストことハンク・マッコイの扱いについて。彼は獣化した姿を人前に晒すことを嫌い、学園の中でプロフェッサーの右腕として活躍していた。そんな彼もとある悲劇で袂を分かつことになるのだが、問題は後半のアクション。ミュータント対ミュータントのバトルはダークな作風の今作における貴重な「楽しい」シーンだが、あろうことか民間人の避難が完了していない道路でいきなりビーストと化し、車から車へ飛び交いながらジーンのいる屋敷へ一直線。この周辺被害を考えない行動を、果たしてハンクが取るだろうか。事情があり我を忘れているのは重々承知するも、プロフェッサーや自分が築き上げた人類との共存をかなぐり捨て、己の怒りのままに罪なき人を危険に晒す行為を、ハンクにはしてほしくなかった。

 前述の整合性に関わる話だが、キャラクターの心理や行動にもそれは現れている。ジェニファー・ローレンス演じるレイヴン=ミスティークはビーストやマグニートーの行動の動機としてしか機能しておらず、それに伴うマグニートーの決断も『フューチャー&パスト』を思えば違和感のあるものだ。何度も繰り返すがこれはシリーズものであり、観客には想い入れや愛情のようなものが積み重ねられている。その集積を作り手が蔑ろにするのであれば、ファンの怒りを買うのは避けられない。

 意図するところも、撮りたい画もよくわかる。だがしかし、これまでおざなりにしてきた積み重ねの不足のツケを、最終作で支払う形になってしまった。時代と共に変化し、有名なキャストをいくつも排出してきたビッグシリーズのラストが、この出来栄えでは明らかにパワー不足。ディズニー傘下となれば自ずとMCUへの合流が期待されるが、これまでのシリーズは過去のものとしてアーカイブの棚に収まるだけだ。その思い出が輝かしいものとして記憶に残り続けるよう、最後はやはり大きな花火を打ち上げて欲しかった。

この記事が参加している募集

いただいたサポートは全てエンタメ投資に使わせていただいております。