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いるはずもない碇シンジを追い求めて、『劇場版 呪術廻戦 0』を観てしまいました。

 2021年、エヴァンゲリオンは終わった。

 神話になった少年は自らの願いで世界を創り替え、神の座に至ろうとする大人の野望は潰え、ついでに声帯が神木隆之介になって、宇部新川駅から巣立っていった。

 その背中を見送りながらも、それでも作品世界から離れがたくて、ずっとその影を追っていたいオタクは、というと……。










呪術廻戦を観に来ていたのである。

きっかけは二か月前

 あれは確か、『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を観に来た時だった。本編上映前に流れたとある作品の予告映像に、私は釘付けになっていた。

 CV:緒方恵美の少年が、「誰かと係わりたい。誰かに必要とされて、生きてていいって、自信が欲しいんだ」と、心の底から叫んでいた。それはもう、エヴァンゲリオンじゃんか。少年が傷つきながら、それでもA.T.フィールドがある世界を、身を寄せ合った結果血だらけになっても、それでも私とあなたがいる世界を求めて闘うのなら、それはどうしたってエヴァンゲリオンに見えてしまう。

 それが今をときめく人気漫画/アニメ『呪術廻戦』の劇場版であることを知った私は、直前に浴びたスタァライトの煌めきで目を真っ赤に腫らしながらも、帰りの電車でTVシリーズをマイリストに登録した。何としても、この劇場版だけは観たかった。なればこそ、TVシリーズもしっかり押さえて万全に楽しめる身体になろう。それがオタクの流儀ってもんでしょ。











1話も観られなかったのである。

 ぬかった。なにせゴリゴリの年末である。全世界的な流行り病の影響に押され残業時間は日に日に伸びていき、土日の片方を労働に捧げる羽目になってしまった私は、自ら打ち立てた流儀も忘れ未履修のまま公開日のクリスマスを迎え、それでも押し迫る業務のプレッシャーに負けしなくてもいい休日出勤を重ね、鑑賞に至ったのは年明けの1月4日。今思えば、12月24日にこの映画が公開された意味を踏まえれば、これは惜しむべき失態である。

 というわけで、今回も原作漫画もアニメも予告編以上の情報もなーーーーーーーんも履修せずに、いわゆるミリしらのまま、観てきました。私のnoteいつもこんな感じですね。明けましておめでとうございます。2022年もどうぞ、よろしくお願いいたします。

以下、『劇場版 呪術廻戦 0』並びに
エヴァンゲリオンシリーズの
ネタバレを含みます。





乙骨憂太、という人。

 当初、それでも私はこの映画のことをエヴァンゲリオンとは、乙骨憂太は碇シンジとは切り離して、鑑賞しようと決めていた。ハナから「エヴァじゃん」という姿勢で臨んでは、この作品に失礼だと思ったからだ。CV:緒方恵美の主人公はあくまで鑑賞の動機までに意識を留め、真っ新な気持ちで『呪術廻戦』を観るつもりだった。

 でも、ダメだった。赤く染まった空と電柱、まるで世界が終わってしまったかのようなビジュアルが目に入り込んだ瞬間、たちまち私は「フォースインパクトか???」と声に出さずマスクの下で唱えてしまう。そして、大柄な学生に囲まれたひ弱な青年が、震えるような声で一言、「やめて」と発した時、私の心臓は見えない手に鷲掴みにされたような衝撃を覚えた。映画泥棒を眺める間に打ち立てていた前述の誓いなど、緒方さんの演技でたちまちに崩れ去ってしまう。私はもう、乙骨憂太と碇シンジを同一視することから、逃げられなくなってしまった。

 本作の製作陣が意図的に寄せていたのか、あるいは私のようなオタクが願望を投影してるからそう見えるのか、まったく定かではないが、乙骨憂太はどうしようもなく、碇シンジだった。折れてしまいそうなほど線が細くて、中世的な顔立ちで、その心は誰よりも繊細で、どこまでも自罰的で、その癖自分で死ぬ勇気もなくて、何もしたくないと閉じこもって膝を抱えるしかなくて、誰かと分かり合えたと思ったら儚げに笑って……声だけじゃなくて、その身体と魂のどこかに「碇シンジ」が織り込まれているとしか思えないくらい、乙骨憂太はとにかく馴染んだ。何ならスクリーンの中に飛び込んで、その孤独を救ってあげたいとさえ思った。お願いだから、苦しそうな声で泣くのはやめてくれ。

 そこからはもう、感情移入はあっという間だった。乙骨憂太と祈本里香の約束には『レヴュースタァライト』の文脈も乗っかってきたし、二人が結婚の約束をするシーンの乙骨少年の演技に狂おしいほどに母性を刺激され、あまりに残酷な別れに神を呪った。そして、将来を誓った二人は、特級と呼ばれるほどの強すぎる「呪い」によって、結ばれてしまうのだった。

生きるための「さようなら」を。

 乙骨憂太=碇シンジを否定することを諦めてしまい、もはや私はエヴァ抜きで本作を語る語彙を、喪失してしまった。だからこそ、私は『呪術廻戦』のファン、エヴァのファン双方に対して、不快な思いをさせてしまっているのかもしれない。そのため、今後もこの二作を同一視したまま文章を進めます、ということを先に断っておきたいのです。ごめんなさい。

 私が感じた最も大きな両作のシンパシーは、本作『呪術廻戦 0』の結末が「別れ」を描いたことにあった。最後に明かされた真相、それは里香が乙骨を呪ったのではなく、乙骨が里香の死を拒み、彼女を「呪い」へと転化させていた、という事実。つまりこの物語は、里香の呪いを解き彼女を救うために切磋琢磨していた乙骨が、己の弱さ故に愛する者を異形へと変化させていたことを知り、彼女を解放して、自分自身が一人で生きられるようになるまでを描く、通過儀礼を描いたものだった。

 一番近くにいて、自分のことを守ってくれていた里香。その正体は、里香の憂太を想う気持ちと、憂太が潜在的に持つ能力が組み合わさって産まれてしまった、無意識的な化け物である。それでも、憂太にとっては掛け替えのない半身であり、愛しい人だった。そんな彼女が、自分のせいで成仏できないまま、この世に縛り付けられていることに、乙骨は慟哭する。

 ただやはり、現世に留まったのは、里香の意思でもあったのだと信じたい。里香の存在がなければ呪術高専に拾われることもなく、憂太の孤独は解消されなかっただろう。そして今、憂太には仲間がいて、頼れる先生がいる。誰かと共に生きられる力を、憂太は呪術高専の日々の中で獲得していったのだ。

 憂太はもう大丈夫。そう思えた時、里香は彼の元から離れる決心をする。確かに「愛」は「呪い」だが、呪いを解くのもやはり愛だった。そして、里香から授かった力ではなく、自分自身の意思でこの世界と向き合う覚悟が出来た時、彼はようやく自分の言葉で「ありがとう」と「さようなら」を伝えられるようになる。

 その光景は、『シン・エヴァンゲリオン』を連想させた。自分の身を貫いて、ネオンジェネシスを完遂させようとするシンジ。それを止めたのは、エヴァ初号機の中にいて、ずっと近くで見守っていた母・ユイだった。シンジは母の愛に守られていたことを悟り、感謝を伝え、自分の意思でそれと決別する。「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」という言葉に込められたのは、新しい世界で親の庇護を離れ、生きて行くよという宣言だった。私にとって憂太と里香の別れのシーンは、碇シンジが最後に選び取った決断の再演であり、晴れやかな成長への喜びと、少しばかりの痛みだった。痛くて、悲しいけれど、この世界で生きる上で必要な一歩を、乙骨憂太は確かに踏み出した。

 劇場の椅子に腰かけ、涙をせき止めることすらままならなかった私は、乙骨憂太の前進に希望を抱き、新しい世界で自分の人生を歩む碇シンジにも想いを馳せた。たとえそれがアニメーションであっても、そこから受け取った想いは本物だと『シン・エヴァ』から学んだばっかりで、『呪術廻戦 0』はそれを思い出させてくれた。そんな出会いを結び付けてくれたのは緒方恵美さんの声であり、緒方さんがまたしても喉を焦がして乙骨憂太に命を吹き込んでくれる様を勝手に幻視して、また涙している。もはやCV:緒方恵美が主人公の物語にはもう抗えないのだけれど、この呪いは一生解けなくてもいいのかもしれない。

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