2021.03.17

少しだけ怖かったこと。
一度自分の心を離してしまえたらその場所や人々なんて簡単に捨ててしまえるってこと。誰もがそのきっかけを持っていて、誰もがその権利を使うことを有している。例えばお客さんが特定のアーティストの作品にいつの間にか触れなくなってしまうことだったり、アーティストが今までのスタイルや環境を捨てていって進むこと。それが何度も吟味してそっと手放すなんてことはほとんどなく、指先からするりといつの間にか抜け落ちるように築き上げた日々と比べればあまりにも呆気なく儚くもなく色味もない。それはどのような結果にせよその代償はあって、結果が必ずうまれる。望んでいようが望んでいまいが時としてピンチからの脱出口ともなり、時として自分が予想もしていなかった喪失を味わったり。どの目がでるかわからない。その意思に従った直感の選択、感情起因の冷静でない選択は自分の思うがままの方向に進めることなんてできやしない気がする。

ブザーがなる直前に放ったボールのように、自分の進む道を宙に委ねることがどれだけリスキーでどれだけ恐ろしいことか。冷静な判断ができる状態ならまず最初に選択肢から外すことだけれど、人間は心を持っている。からそうやって辻褄あうことばかりを選ばないのだ。ドラマを何処かで願っていて自由を欲してしまう。それが親しみ深い故郷だろうが深淵の絆で結ばれたものだろうが手放したくなる瞬間が生きている中で随所に散りばめられているのだと思う。最良の選択と思い、言い聞かせ、静かに扉を閉じる。無意識に喪失して身が軽くなる。

傷だらけの僕等はもうきっともとの綺麗な翼を生やすことなんてできやしないのに羽ばたきたくなるのはきっともう抗えないんだと思う。硬い地面に足踏みしてみて、駅のプラットホームに降り立って知らないまま誰にも知られないまま誰にも説明もできぬまま歩き始めるんだと思う。

必死にこの寂しさと同じくらい満たされる気持ちをどう説明しようと考えていたら家についた。僕は結局全てを今手放さずに今日もこの街に帰ってきた。



数日に渡って友人とあった、ひどい救いようのない話を聞いた。抱きしめるだけ傷つけてしまいそうなくらいボロボロになったその人になんて声をかけてあげればいいかわからなかった。ただ曖昧に相槌だけは打たないように見逃さないように、それだけしかできないのに他に何かあるんじゃないかと探した。でも相槌だけしかないのだ。

あの時言えなかった言葉が数日後に出てくることがある、あの時その一言が言えたらという後悔と一緒に。でも時間は進んでいる、過去には戻れない。今あの時言えなかった言葉を伝えれたとしてもそれは何処までいってもあの時言えなかった言葉にしかなれない。昔はそれがもどかしくて不甲斐なくて堪らなかった。耐えようがない無力感を味あうのだ。

でも今は少し違って、不甲斐なさも、もどかしさも置いていって触れてみた結果相槌を打つということに至ったのなら何も恥じることはないのだと思う。

必要以上の過度な心配や優しさはその人を救ってやりたいという他者のエゴにしかならない。自分がその場で本音として出てこなかった言葉は結局は無意味なのだ。取り繕ったように言葉を羅列してしまうのは、訂正の効かない楔になってしまう気がする。言葉は必要なときに必要な分だけ相手に渡してあげることができるかだと思う。

時と場合による話だから、全ての人にこの対応はできない。むしろ全てこの言葉足らずの接し方はやってはいけないことだと思う。話の内容に勿論それはよると思うけれど、それでもあなたを誓って支えるという意思をどれだけ言葉にしてできるかと考えた時、多くの言葉は必要ないのかもしれない。その放った言葉の意味の意味まで話してしまうな、誰かを思えるその気持ちがあるのならば時としてその静寂も必要なのかもしれない。

言葉にする覚悟と、言葉にしてしまわない覚悟の判断は今をもっても非常に難しい。でも難しくていい、簡単になってしまわなくていい。逆の立場になったときにきっと信用できなくなってしまうから。


僕たち音楽を作っている人間は、その瞬間にだけ適応される音楽を作っていける。これから自分が想像もしない何処かの誰かの使い所がいつ来るかもわからない言葉を綴った音楽を作ることができる。

それが売れる売れないで括られない、自分たちの音楽の強みだと思う。

あの時立ち止まって、あの時言えなかった言葉をもし供養してやるのなら次に何処かの誰かが今必要となる瞬間のためにも作るべきなんだと思う。

沢山作って、無意味だったりすることの方が多いかもしれないけれど。人が思って出てきた言葉なのだから意味がないわけないでしょ?

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