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小机城址③ 鶴見川遺跡紀行(5)

中世武士団「小机衆」 の姿とは?

「狼煙ネットワークは、まぼろし~( ゚д゚)__♭" 」的な(煙だけに…)自分でも望まない結末になってしまった前の記事。

当初「優れた情報伝達スキルを持って南武蔵を治めた小机衆の本拠地はコチラ!」というストーリー展開を考えていたので、本当に大打撃です。
はぁ…ここから内容を立て直さなければ。しかし、どうしたものか?


巧みだった後北条氏の地域支配

しかし、調べるにつれ不思議に思うのは…
あれだけ短期間に勢力を拡げながら、血族争いも下克上も起こらず百年も安泰だった後北条氏。一体、何がそれを為し得る秘訣だったのか?

よく言われている内容をまとめてみると…
①同族を常に最前線の支城に城主として送り込む
②土着の有力武士と姻戚関係を結び、支城を任せる
③信頼できる家来衆を支城の周囲に配置する(支援&監視)
④農民に優しい税制度(税の簡素化、四公六民など) などなど

【ご参考】


地域支城ネットワーク「衆」

その中でも、大きな役割を果たしたのは「」という支城ネットワーク。拠点城主を支える家臣団です。隣国との最前線では支城同士が協力し合い、防衛ラインを敷いていました。
(前記事で狼煙ネットワークについては否定的な立場をとりましたが、対上杉最前線の時期は支城ネットワークは確実に機能していたと思います)

【ご参考】埼玉県嵐山町web博物誌
後北条氏の城郭ネットワーク(北条最盛期の城の分布)
比企地方の城郭ネットワーク(小机城ネットワークと共通点があります)

交通の要所・小机郷

小机衆の治めた地域を、改めて地図で見てみると…

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小机衆支配地域の主な街道と河川の流路(今昔マップさんに加筆)

鶴見川本流・矢上川早渕川谷本川恩田川の流れが台地を貫き、中原街道・矢倉沢往還・津久井往還・飯田街道・鎌倉下ノ道(詳細ルート不明なので点線)が縦横に走っている。この当時、東海道はまだ整備されていなかったので、江戸方面への陸路は漏れなくこの地を通っていた。
つまり、この辺りは人流・物流・情報の交差点(3密)だったに違いない。

小机から八王子への交通も、津久井道、八王子道を経由する本格的な物流ルートだけでなく、恩田川ルート(佐江戸→榎下→恩田→成瀬)または谷本川ルート(佐江戸→沢山→淵野辺)などで隣接する八王子衆にスピーディーに接続するルートがあったのではないかと考えられます。

【ご参考】戦国時代における南関東の交通(中丸和伯)


小机衆にみる北条氏の治世術

まずは、wikipediaで一般的な内容をおさらい。

小机衆は後北条氏の家臣団の一つで、鶴見川と多摩川に挟まれた小机郷を中心に大小29の武士団が居城や館を構え、南武蔵一帯を支配していた。
編成は1522〜1524年頃。江戸城周辺の先陣を支援し、東京や埼玉の一部に勢力を持つ扇谷上杉勢と対峙していた。

笠原信為について
衆を取りまとめたのは、北条氏綱の腹心、五大老の一人笠原信為。後に北条氏が直々に小机城主になったが(氏堯、三郎、氏光など)、実質的には城代の笠原氏がまとめ続けていた。


笠原氏と言えば(私の興味の中心)古墳時代の武蔵国造の乱で出てくるあの笠原直使主を思い出すのですが、その末裔なんですかね…まさかね。

小机衆の主な家臣団

笠原氏
曽弥外記
神田次郎左衛門
市野助太郎
増田満栄
座間豊後
村嶋豊左衛門
二宮義忠
岩本和泉
高田玄蕃
中田加賀
長谷川為久
沼上出羽
石原靱負
大曾根飛騨守

名字から、在地武士だけでなく相模武士も含まれていることが伺えます。
当時、占領地域にいる敵方の在地武士を家臣団に加えることもあったので、監視役としてお膝元の武将を呼び寄せたのかもしれません。

小田原衆所領役帳によると、城主の北条三郎は小机衆の総石高の1/2という絶対的な財力を有し、小机郷の中心部に配置されていました。下の図を見ても分かるように、各知行地はモザイク状になっており、有力武将の知行地は分散されています。
また、小机領の一部は別の衆の武士の知行地になっていて、在地の武士が徒党を組みにくい形になっています。

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小机衆領内の知行の内訳 柿生・岡上地域の戦国時代(中西望介)より
(赤:北条三郎の知行、緑:小机衆の知行、無色:他の衆の知行)


これらの施策をまとめてみると、
①城主は北条氏やその姻戚関係を充てる
②古参の有力家臣を右腕に付ける
③別の地域からも味方の武将を連れてくる
④地元武士の領地を細かくしてシャッフル
なるほど、北条氏は最前線地域の支配にかなり神経を使っていたかも。



【ご参考】
大倉山精神文化研究所

タウンニュース・柿生文化を読む


しかしながら…
安定した治世を行なっていた北条氏でしたが、勢力拡大の損益分岐点を超えた辺りから各地で離反が起きるようになります。さらに、自分の力を過信し豊臣秀吉に刃向かった末に、小田原征伐であっけなく負けてしまいました。

またもや、諸行無常、強者必衰…
とすると、その後小机衆の皆さんはどうなってしまったのでしょうか?


後北条氏滅亡後の小机衆

鶴見川を散策していると、いわゆる豪農のお宅をよく目にします。明治や戦後を乗り越えて今も尚、武家屋敷と見紛うばかりの石垣や蔵を備える立派な構え。恐らくこのようなお宅は、中世の武士が由来の旧家ではないでしょうか。

旧家者百姓
北条氏が敗れ徳川家康が江戸入りすると、北条氏の領地は徳川家恩顧の武将たちの知行地として分け与えられ、小机城をはじめ多くの支城は廃城となります。北条方の武士は限られた者だけが仕官を許され、多くは召し抱えられることなく帰農しました。

後北条氏の遺臣のうち、徳川氏やその家臣と縁故の者、伝統ある名家、有力家臣らが直接召されるか推薦や仲介されて、徳川氏に仕えるようになった。
遺臣たちに対する徳川氏の対応には共通性があり、所領はかつての規模を考慮されていることなく、ほぼ二〇〇石〜六〇〇石程度。新所領は旧領から全く切り離された。遺臣の旧領からの切り離しは、徳川氏の基本的な政策の一つといえる。

後北条氏遺臣小考(神崎彰利)より抜粋要約

武士となれば愛着ある土地から離れざるを得ないので、自ら百姓になることを望んだ者もいたようです。中には、小田原征伐直後に豊臣方に馳せ参じて領地安堵をしてもらい、後に百姓になった武士もいたそうで…

下表からは、元北条氏の被官(下級家臣)の多くが農民になっていたこと、特に橘樹郡や多摩郡にそのような農民が多く存在することが分かります。

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旧家者百姓」家の特質と展開過程 鈴木直樹(一橋社会科学2018)


名主などの村役人へ
徳川家康は、後北条領国下に展開していた名主をそのまま村役人に任用し、郷村支配を確立。これは、江戸近郊の直轄地や知行地だけでなく全国的な幕藩体制の下に組み込まれ、徳川政権安定の礎となりました。

元々は地侍だった旧家者たちは、地域への影響力を活かして名主(庄屋)、小代官の役割を果たします。名主役を世襲することが多く、依然として力が強かったので、知行地の新領主ですら軽視する事ができなかったようです。中には苗字帯刀を許されていた旧家者も存在しました。
【ご参考】青空文庫「名字の話」(柳田國男)

全ての小机衆の武将たちが全員名主になったかどうかは不明ですが、彼らが江戸時代に入っても地域運営に関わっていたと推測できます。

一方、徳川家に仕官した者たちは、どうなったのでしょう?

旗本となった小机城代・笠原氏

小机城代だった笠原氏は旗本として召し抱えられたものの、石高は200石で「武士の家計簿」に出てくるような下級武士クラスだったそうです。しかも、所領は小机から離れた都筑郡台村にされてしまいました。

当時、旗本の多くが江戸城の守衛。平穏な時代になると重要性は徐々に低くなり俸禄も頭打ち。物価の高い江戸で、旗本の品格を保つため使用人を雇わねばならなかったので、苦労が多かったかも知れません。むしろ、帰農して豪農になった方が、その後は豊かだったとも言われています。

そのような中でも、笠原家の末裔たちは弓矢槍奉行や五番方の役を得て、本家筋で400石(俵)、分家筋で500石と300石を賜る活躍を見せたようです。
【ご参考】横浜市史稿「笠原氏と小机四人衆」(国立国会図書館)

徳川家臣となっても笠原家の人々は、初代の信為が眠っている雲松院に埋葬されていたようです(本家筋は9代目、分家筋は7代目まで)。やはり、北条氏由来の武士として誇りを持ち続けていたのでしょうか?


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この記事のヘッダー画像は雲松院の山門。

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こちらは俳優の内野聖陽さんのご実家だそうで、本堂の前に内野家の立派なお墓がありました。


小机衆にこだわる理由とは?

小机衆が治めた地域は、鶴見川水系流域の横浜市と川崎市、町田市の一部、さらに衆の一部は帷子川流域に知行地を持っていました。

この地域に見覚えはありませんか?
そうです!あの杉山神社の分布地域なのです。

杉山神社は、横浜市を中心に最盛期には70社以上もあった土着信仰の神社群で、その存在が延喜式に記されるくらい古い神社です。
(杉山神社について非常熱く語った記事は→こちら

私は、杉山神社が古代に一斉拡大したのではなく、中世に郷村が整備されるに伴って徐々に増えていったのではないかと考えていました。「ならば…その担い手は誰なんだろう?」と考えていた矢先、小机衆を知ったのです。

北条氏治世の安定期に領主たちは、インフラ整備(寺社の建立、街道の整備、新田開発と水路の確保など)に勤しむように命じられていました。
江戸時代には、直轄地や知行地では名主らが実質的にその役割を担います。

下の表は、名主に占める旧家者百姓の割合や、その地域で行われた公共事業を示しています。橘樹郡、多摩郡で特に多かったことが分かります。

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「旧家者百姓」家の特質と展開過程 鈴木直樹(一橋社会科学2018)


そのようなことから、小机衆の武士たちが、地域開発に当たって小机郷の神様を分霊して祀ったと考えることはできないでしょうか?杉山神社の御祭神がバラバラなのも、設置者の意図により新たな神様が追加され、後に変遷した考えれば説明がつきます。

一例として、矢上城主中田加賀守は、本拠地の港北区日吉の矢上村以外に保土ヶ谷区川島町にも知行地を有していました。江戸時代になると、川島町に移って旧家者百姓となりました。地域との関係が深く、多くの逸話が残っているそうです。

下の画像にある川島の杉山神社は、後北条期に創建されたそうです。近くにある随流院も小机との縁があるようです。この川島杉山神社の創建に、中田氏が関わっていたと考えられないでしょうか?

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ようこそ、歴史と自然の街・保土ヶ谷へ 

かなり熱弁しましたが、まだ妄想の範囲を超えていません。今後、杉山神社を巡る途中で調べられたら良いなと思います。


【朗報】旧家の人々、明治維新で再び大活躍!

さてさて、百姓になった後北条氏武士の子孫たちは、江戸時代、地域運営に勤しむだけで幕藩体制の中でずっと燻っていたのでしょうか…?

いえいえ、違います!
近世から近代への移行期に、武士以外の階層、特に豪農たちが大きな役割を果たしていたと、最近の大河ドラマや歴史番組などでフィーチャーされるようになりました。武蔵国の豪農たちの中からも、著名な政治家や経済人が表れています。特に、多摩地区では彼らが自由民権運動の担い手となり、新しい時代の扉を開く原動力となりました。
つまり、旧家は人材の宝庫だったのです。

ちなみにですが…
江戸時代に全国津々浦々にあった名主システム。自らが旧家出身でこのシステムを熟知していた前島密は、明治時代、名主や庄屋などに郵便取扱人の資格を与えて郵政事業の基盤を作りました。

つまり、明治以降も小机衆で名主だった皆さんは、郵便取扱人として情報伝達していたかも!?(冒頭部回収!半ば強引…)

現在でも…
旧家の皆さんは地域運営に携わっていることが多いです。皆さんの住んでいる地域の自治会長さん、消防団長さん、民生委員さん、婦人会長さん、区市町村議会議員さん…などなど。
地域防災活動なども、この方々に負っていることが多くあるんですよ。



「小机城を標榜しているくせに、全然お城が出てこない!」とお怒りの皆さま、大変長らくお待たせしました。次回、ついに小机城を攻略?します。

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