会津松平家墓所 福島ジオ巡り旅(5)
桧原湖、五色沼のある裏磐梯から、猪苗代湖の方面へ下ってきました。
↓こちらは前回の記事です。
福島を訪れたのは、スキーを除けば3回目。
1回目は20代の頃に。猪苗代湖から会津若松、喜多方をめぐる旅。2回目は東日本大震災の数年後、家族で常磐ハワイアンセンターや海沿いを巡りました。
3回目の今回は、行ったことのない場所を巡ります。
東山温泉
会津の奥座敷、東山温泉。
翌日、東山温泉近くの会津松平家墓所を散策しました。
温泉街から続く通り沿いに、標識が立っています。それだけでは見逃してしまいそうなので、この案内板を目印に。
その脇の小道を入ると、両側には歴史ある旧家そうな家々。でも、この先に歴代藩主の墓所があるとは気が付きにくい。
墓所の石碑がありました。
(少し歩きますが、東山温泉駐車場に車を止めるようにと市のHPには記載あり)
案内板の右手を見ると、
門が見えました。
会津松平家墓所
会津松平家
二代将軍秀忠の四男で保科家へ養子に入った保科正之が家祖。親藩大名会津藩主家として続き、明治維新後は陸奥斗南藩主となったのを経て、華族の子爵家に列しました。
初代藩主・保科正之
妾との間に生まれた正之は、お江を恐れた秀忠の計らいで高遠藩保科家に預けられ、後に三代将軍家光によって取り立てられます。家光は同じ母から生まれた弟を切腹させましたが、腹違いの弟は高く評価していました。
家光と家綱を幕閣として支え、会津藩主となりますが、養家・保科家に恩義を感じ、生涯保科姓を貫きました。松平を名乗り、親藩大名となるのは三代藩主からです。
墓所のあらまし
墓所の開設は、正之の子・正頼の早世(19歳)がきっかけです。深く悲しんだ正之は、南向きで清水が湧き出る院内山を墓所に選び埋葬したそうです。以降、二代から九代藩主まで埋葬されています。
正之自身は、生前自ら希望した猪苗代町の土津神社に葬られています。
正之が吉川神道を信仰したため、歴代藩主は神式で葬られていますが、二代・正経は仏教を信仰したので仏式で葬られています。
それでは、いざ!
花束が…上まで登ることができない人が、ここに手向けていったのか?
途中、別の墓所に続く脇道がありますが、まずは最上段まで目指します。
入之峰
階段を登りきると、横に長く広がったテラス状の地形があります。
こちらには三、五~七、九代までの藩主が眠っています。
テラスの上側は高台となっていて、そこがお墓になっています。
三代藩主 松平正容(まさかた)の墓
階段を登り切って、最初に目にするのは三代藩主の墓です。
灯篭が対に並び、その奥に表石と呼ばれる銘板があります。
さらに墳丘の上には八角形をした鎮石(しずめいし)があり、これが実際のお墓となります。
手前のテラスには大きな石柱が並んでいます。亀形の石「亀趺(きふ)」を台座とした「碑石(ひせき)」と呼ばれるもので、神式のお墓に設置されるものだそうです。
碑石には、被葬者の生前の業績を賞賛し功徳を偲ぶ文言が記されます。
中国の空想上の動物で竜の子を表し、死者の霊を守ります。歯や耳、立派な爪をもち、頭は鎮石の方向を向いています。
この亀石は「贔屓」と同じ意味らしい。「贔屓の引き倒し」とは、下の亀石を引っぱると上の碑石が倒れることが由来とのこと。
さらにテラスの奥には、五代~七代藩主の碑石が並んでいます。
高台に登ってお墓を見てみましょう。
七代藩主 松平容衆(かたひろ)の墓
「会津少将源容衆之墓」と書かれています。
二十で亡くなったそうです。会津松平家は早世する藩主が多く、兄弟や養子が跡を継いだりしました。
高台の上に墳丘が築かれ、その上にお墓が鎮座しています。
最後の藩主・松平容保の墓
テラスの奥に、先に続く階段がありました。
登っていくと、碑石が見えました。
こちらが会津藩最後の藩主、九代・松平容保の墓です。
これまでの墓と違い、石が白く、新しい感じがします。
アングルが悪く見えませんが、奥に鎮石があります。
墓所の石板は多くを語っていません。
記事冒頭の案内板には、「明治維新において幕府側の責めを一身に背負い最後まで戦った悲運の藩主」とありました。
(容保のことを書くには5000字×6回は必要)
俊英で高潔、そしてイケメン。容保が宮中に参内すると、女官たちが大騒ぎした逸話が残っています。
意思の強い眉と怜悧な三白眼、それに反して幼さの残る口元…若さゆえのアンバランスさ。もし、その容姿が違っていたら、孝明天皇の目に留まることもなく、一藩主として穏やかに新しい時代を迎えていたのでしょうか?
容保の墓に面する側の碑石には、孝明天皇御宸翰(←「関連リンク」から実物写真が見れます)のことが書かれています。
墓所への改葬
藩主でありながら、容保は没後すぐにこの地に埋葬されませんでした。明治26年、東京の小石川にて59歳で死去した容保は、当初、新宿の正受院に埋葬されていました。
既に明治時代も半ばに入っていて、今さら「藩主だから埋葬を」という感じではなかったのかもしれません。あるいは、新政府軍に対立し相次ぐ戦争で多くの犠牲を払ったことから、当時の旧会津藩内でも、容保を歴代藩主と同じように扱うことが出来なかったのかもしれません。
会津戦争降伏後、容保が江戸へ移送される際には、戦いと重税で藩を苦境に追い込んでしまったこともあり、領民が誰も見送りに来なかったとの記録があります。
大正6(1917)年になって、戊辰五十周年に伴い会津に改葬されたそうです。
だんだんと容保公埋葬の気運が高まって来た、もしくは、明治の世が終わるまで時を見計らったのでしょうか?
その後の会津松平家
容保のお墓の隣に、容保の家族や後に続く松平家の方のお墓があります。容保には成人した5人の男子がおり、それぞれ軍人や政治家、宮司の職に就きました。
うち、六男の恒雄の娘・節子(容保の孫)は秩父宮雍仁親王妃となり、「昭和の公武合体」と話題になりました。この婚儀は、朝敵の汚名を着せられた会津の人々にとって感激の出来事で、松平家墓所へ婚約の報告に訪れた節子ら御一行を、提灯行列で盛大に歓待したそうです。(人々の熱狂の様子は、会津松平家庭園であった国指定史跡、御薬園のHPに記載されています)
また、恒雄の次男・松平一郎の次男・恒孝(容保のひ孫)は、後に徳川宗家(ご本家)に養子入りし、18代当主となりました。
生き延びてこそ、つながった縁です。
先に進みましょう。
四代藩主・容貞の墓
八代藩主・容敬の墓
中之御庭
西之御庭
一つ一つのお墓と藩主については、下のサイトに詳しくまとめられています。(二代藩主の墓を見逃してしまったので、こちらで見ました)
愛馬の墓
入り口の門の外には、歴代藩主の愛馬のお墓もあります。
会津と松平容保のその後
先に紹介した「御薬園」のHPによると、新政府に接収された松平家所有の庭園や土津神社を、地元豪商らの呼びかけで募金を集めて買い戻したとあります。謹慎が解けた後、一時期、容保は御薬園の敷地内の屋敷に住んでいたようです。
会津の人々が容保のことを想い、藩のアイデンティティを取り戻そうとした。そのように感じる逸話です。
磐梯山噴火と容保
シリーズ前々回の記事で、明治21年に起こった会津磐梯山の噴火を取り上げました。
当時東京に住んでいた松平容保は、1888年7月15日の噴火から僅か1週間後に、会津入りしました。
旧藩主の慰問に、多くの人々が喜んだと伝わっています。
会津の人々を苦しめた自責の念を常に持ち続けていた容保。故郷の危機に居ても立っても居られず、これまでに受けた会津の人々の恩に報いたいという強い気持ちだったのでしょう。
会津の義の心は、今も変わらず
義の想い、つなげ未来へ。戊辰150周年。
幕末期、図らずも朝敵となり辛酸をなめた会津の人々。
戊辰戦争後の新しい時代を築いた先人の苦労と努力を讃え、後世に伝える事業を行っています。
会津の先人たち(会津若松市 戊辰150周年記念誌)
https://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/docs/2018092000011/files/150th_P36-46.pdf
幕末以降の会津の年表(会津若松市 戊辰150周年記念誌)https://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/docs/2018092000011/files/150th_P66-75.pdf
会津まつりの栞
https://www.aizukanko.com/kk/data/aizumatsuri-guide.pdf
義に生きる「SAMURAI CITY AIZU」。これからも、ずっと。
記事に関係ないのですが、非常に大切なことなので…
「会津若松ゆかりの地探訪」という冊子の巻末にある交流都市一覧を見ていたら、北海道や青森をはじめとする東日本や、守護職で縁のあつた京都などが多かったのですが、その中に山口県萩市も掲載されていました。
「えっ?」と思ったのですが、東日本大震災の際、多くの支援を送られたそうです。
次回は…
オタク気質の長文を最後まで読んでいただきありがとうございます。 またお越しいただけたら幸いです。