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東京の空

がつくと私は、いつも R のボタンを押している。

オフィスは7Fにあるのに、そのボタンを素通りして、Rを押すのは、もはや習慣化しているのか、逃避なのかもわからない。

オフィスの入っている古いビルは、屋上がある。それまで、8年の間、このビルで日常のほとんどを過ごしているのに、知っていたのは、自分のオフィスの空間だけだった。
平日の昼間に屋上の鍵が空いていることを偶然知ったのは、確か2年前だ。

Rのランプがついて、開いたエレベーターのドアの先に重い扉を開けると、そこにあるだだっ広い屋上は、真っ白な場所だ。隅っこに、洗濯物を干すためのスペースがあり、どこの住人だろうか、いつだって白タオルが干され、はらはらと風にたなびいている。

赤茶色の柵越しに見える青空の中に東京タワーが小さく見えて、あとは、見渡す限り、コンクリートでできたビル群がひしめいている。海を眺めているような気持ちになるのだけれど、ふと冷静に、東京のど真ん中でよくもまぁ、15年以上もひとり仕事を続けているもんだと笑ってしまう。
何かあるたびにここにくる。いや、何もなくてもここにくるんだ。

日々を過ごしていれば、いいことも悪いこともある。その時々の感情の揺れを感じることが私は嫌いだ。コンクリートの海と日々変わる空の色を見て、心をゼロにリセットする。

屋上は、感情の揺れをリセットする場所だ。
いつもいつも、赤茶色に塗られた鉄の柵に肘をついて、ただただ、ぼんやりと心がゼロになるまで空を眺めている。そうやって、過ごしてきた。

                ◇

その日は、春の空なのに、すっかり蒼く澄み渡っていて、びっくりするぐらい夏みたいな空だった。
ふと、好きな人のことを思い出した。

思い出してしまった瞬間に 無性にこの空を共有したくなった。
衝動的な感覚のまま、無造作に写真を撮って、送った瞬間後悔した。


平日の忙しい昼下がりに、突然送りつけられた空とコンクリートの海の写真を見て、彼は、何を思うのだろう。
送ったことを正当化しようと慌てて、何かメッセージを送ろうと考える。「空がきれいだったから」平日の昼間にそんなメルヘンなメッセージを送る相手ではないはずだ。何も送るメッセージが浮かばないまま、もう一度空を見上げたとき、メッセージが返ってきた。

「俺もおんなじことしてる」

その一言とともに、別の東京の空の写真が届いた。
蒼い空とコンクリートの海。

彼と私は思考回路が似ている。

「空がきれいだね」さっき考えたメッセージを結局、返した。

好きな人と共有したこの一瞬の心の揺れは、どうしょうもなく広がっていき、今度は幸せなきもちでもう一度空を見上げた。


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