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終わらない距離感を壊したくないから、今日も私たちは日常を過ごす

 朝起きて、まだ寝てるらしい彼の顔を見つめながら、平和な朝を幸せに思った。起こさないように、そっとベッドを抜け出し、シャワーを浴び、昨夜の余韻を洗い流す。
 部屋に戻ると彼はまだ目をつぶっていて、もう一度ベッドに戻ろうかちょっと悩んだけど、結局、仕事にいくためのシャツとスカートに着替えた。

 「ご飯でも食べようよ」彼からの提案で、私の家に集まったのは、昨夜の21時。私たちの集合時間はたいてい遅い。

「何作る?」

 もう夜も更けていくという時間だけれど、テーブルにはまだ、ワイングラスしかない。和食にするかイタリアンか、または中華やエスニックにするか、まだ何にも決めていないのだ。
 とりあえずの乾杯は、スーパーで買ってきたお手頃のカヴァだ。最初の1杯は、炭酸を含みたい。冷蔵庫に常備しているこのカヴァは、辛口の割りに主張がなく、どんな食材とも馴染み、食欲を目覚めさせるきっかけとして重宝している。空腹の胃にアルコールが届く頃、やっと、食欲を探る時間が始まる。

彼は、グラスのカヴァをいっきに飲み干したあと、「肉持ってきたよ」と作業台に大きなかたまりの肉をおいた。大きな赤くてずっしりとした牛肉を眺めながら、私たちは、しばし妄想を始める。

「ねぎがあるよ。セルバチコとフルーツトマト、レモン、らっきょう・・・煮込むならトマトソースも。」私は、冷蔵庫に眠っている食材を思い出した順番に言葉にしてみる。

「いいね」といいながら、彼は作業を始めた。「何作るの?」そう問いかけると、「トマトとねぎをオリーブオイルでしっかりと焼いてさ、牛肉はシンプルに焼いて合わせようよ。」そんなふうに答えた。彼が紡ぎ出す料理は、優しさと繊細さが滲み出てくるようなシンプルな料理だ。

 時々、思い出したように、彼は食材と包丁を片手に提げてやってきて、私の家で料理を作ってくれる。大きなカラダに、私が使っているくたびれたきなりの水色のエプロンしている姿は、日常の緊張感をいっきに緩め、この関係が平和で心地よく、安全な場所であることを認識させてくれる。

メイン料理を作り始めた彼の横で、私は冷蔵庫を改めて覗き込み、セルバチコのサラダと根菜のローストを作ることにした。並んで、キッチンに立ちながら、最近あったこと、仕事のこと、飼っている犬のこと、嬉しかったこと、友達のこと、たわいもない話をする。
 やがて出来上がった料理と合わせるように食器を選びながら、私たちは改めて、乾杯をする。テレビをつけ、特に記憶にも残らない番組を見ながら、私たちの食事は深夜まで続き、その後は、いつものように、寝室へ行き、真っ暗にした空間の中で、お互いの料理のおさらいをするように、お互いを支え合うように、眠りにつく。

このふたりの静かな時間が私は好きだ。

彼とは出会ってすでに8年の時間が立っている。お互いの家は行き来するし、なんなら海外旅行にも出かけたこともある。でも、それは継続的ではない。つかず離れず、私は、決定打をなるべく避けてきた。付き合うことは簡単だ。でも、付き合ったら、今とは違う「嫉妬」や「猜疑心」「束縛」と言う感情がきっと生まれてしまう。付き合うと付き合っていないにはそれぐらい大きな隔たりがある。付き合ったが故に、くだらないことで感情を震わせたり、終わりが見える関係を作るなら、終わらない距離感をずっと保ちたい。そう思うのは、私だけでなく、彼も同じなんだろう。願わくば、平和で心地よく、安全な場所をずっと確保しておきたいのだ。

昨年の冬、その時も夜遅くの慎ましやかなディナーの途中、彼が唐突に「付き合おうよ」と言った。終わらない距離感が崩れそうなその瞬間に、私はつとめて冷静に「いいね。」そう答えたものの、私は、その後しばらく連絡を取らなかった。

始まってしまえば、終わりがあり、近づき過ぎれば、感情に波が生まれる。終わりに向かって進み始める関係性は、いやなんです。 
 そう思っていたのにもかかわらず、次に終わらない距離感を壊そうとしたのは、私だった。おとといの、酔った勢いで送ったらしい記憶のないメッセージには「一緒に住もうよ」そう書いていて、開けてしまった彼からの返信には「そうしよう。」と文字列があった。なんてことを伝えてしまったんだ。そう悩んでいた昨夜、彼は、料理を作りに唐突にやってきたのだ。

                 ◇ 

「おはよう。」 キッチンでコーヒーを入れていると彼が起きてきた。「おはよう。」 はたからみえれば、私たちは、長いこと一緒にいる恋人たちに見えるだろう。そうあるほうが自然だし、私たちはそれだけ長い時間を共有している。
だらしない頭の寝起きの彼をみて、一瞬、終わらない距離感を壊してもいいと覚悟を決めた。私たちは、どんな関係でも、平和で心地よく、安全な場所でいられるはずだ。
 それなのに、次の瞬間、私の口から出てきた言葉は、「今日は仕事何時から?」だった。
一瞬の間があって「8時には出るよ」と彼が答えた。
「一緒に出ようか」「そうだね」
距離感を壊せない私たちは、結局、いつも通りの当たり障りのない会話を始めた。
ベランダからこぼれる朝日は、初夏のキラキラとした光を放っていて、そう言えば、8年前の初めて迎えた朝もこんなお天気だったなと思い出した。

終わらない距離感を壊せない私たちは、結局、同じ日常を過ごす。

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