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毎日にどんな「意味」を見つけるか

生きる意味はどこにあるのか

何がしたいのかわからない。だけど「何者か」にはなりたい。

そんな想いがずっと自分の中で燻っていた。

ルールの中で正しく生きる努力はしたけれど、『自分は何が好きで何が嫌いだろう』と考えてもハッキリと答えが出ないのだ。

そこで先日、なんとなしに読み始めた泉谷閑示さんの『仕事なんか生きがいにするな』という著書が道を示してくれたように思うので、自分なりに咀嚼していく。

◇◇◇◇

現代に生きる私たちは、何かを始める時にまず役に立つかどうかを考える癖がある。

「やる価値があるか」「お金になるか」「スキルが身につくか」「コスパはいいか」など。ネットで調べるだけ調べて、やっても実りがなさそうならやる前から諦めることだってよくある。


このように「価値があるならばやる」「ないならやらない」といった判断基準を設けて行動する私たちは『有意義病』にかかっているのだと泉谷さんは語る。

SNSに投稿できるような”価値のある”時間を過ごさず、ただゴロゴロして1日を終えてしまった時の罪悪感も『有意義病』によるものだ。

まるで有意義なことができない自分は価値のない人間だと思ってしまう。


しかし、そこに意義などなくとも自分にとって「意味」を感じられたのならばそれは「意味のあること」になる。


学問も就職も結婚も子育ても、幸せに生きるための手段だったはずが、いつの間にかそれ自体が目的化してしまった。

「生きる意味」とは、何かを得たり達成したりすることによって感じられるものではなく、人生に「意味を問う」ベクトルを向け続けることによって感じられるものである。
『仕事なんか生きがいにするな』


自分にとって意味があるか、自分にとって幸せかどうかが1番に考えられるべきことである。

ゆえに、同じことの繰り返しでつまらない日常こそ、心を殺して淡々とこなすのではなく、「遊び」を取り入れ、感動し味わう必要がある。

日常を非日常に

そもそも「遊び」というものは「無駄」の上にこそ成り立つのであって、その「結果」はあくまで二次的に過ぎないもので「プロセス」のところにこそ面白みがあるものです。ですから、今日の合目的的な思考に偏ったメンタリティでは、およそ「遊び」など入り込む余地はないでしょう。そして人生そのものも、人に自慢できる「意義」の勲章のように集めるばかりで、肝心な「意味」は感じられないという、空疎なものになってしまうのではないでしょうか。
『仕事なんか生きがいにするな』

そこで泉谷さんは「頭」の計画性や合理性を回避するため「心が赴くまま」に行動してみることを提案している。


即興で買い物をしたり出かけたり本を買ったりするのも良いし、食という芸術を味わい、面倒くさいことをあえて時間をかけてやってみることでも毎日が輝き出す。

たしかに子供の頃は面倒臭くても色んなことに向き合ってきた。だからこそ濃い時間と思い出が手に入ったのに、だんだん楽をする方法を知り、実直に遠回りする人間が馬鹿をみる事実も私たちは知ってしまった。

だからこそ、行動するなら効率的で合理的な方がいいよな〜と先に考えてしまうのだ。

周りと違う道を選べるか


何事においても「継続」は「価値あること」だと思われている。

noteだって更新できないと後ろめたさとモヤモヤした気持ちが心を追い立てる。継続できていないとスタートラインにすら立てていないような気持ちになるのだ。

けれど、気が向いたら書いて、気が向かなければやらない。

そんな単純な生き方もいいかもしれない。


面倒くさくて、結果にならず、何者にもなれない。

でも、人間らしくイキイキと過ごせるなら・・・?

私たちは、もはや「何者かになる」必要などなく、ただひたすら何かと戯れてもよいのではないか。それこそが、「遊び」の真髄だと思います。


ただ一方で世の中では、人生を「味わう」ことは背徳的で、「労働」を頑張ったことのご褒美であり、自分だけが楽しむことは許されないような禁欲的な雰囲気が漂っている。

なので人間らしさを取り戻す生き方を選べば世の中とは距離ができてしまうかもしれない。

自分にとって意味のある生き方をしても、世の中にとって「すぐに役に立ち」「量」を生産できる(都合の)いい人間とはいえないからだ。

周りの人からは「そんなことして何の価値があるの?」と笑われるかもしれない。

しかれども、死ぬ間際に「あぁ、人生遊び尽くしたなぁ」と考えて微笑む自分を想像するだけでも気分がいいものだ。


「価値のない」ことに時間を費やすなんてイライラしてしまいそうなことにこそ、人間らしさは隠れているのかもしれない。

そうは言っても私の俗的な欲望を捨てきれたわけではなく、面倒なことは面倒なまま変わっていない。

だからきっとこれからも悶々と悩んでは答えを見つけたような心地になってを繰り返すのだろう。

だが、こうやって一歩ずつ進んでいく足跡に何かしらの色が残れば、それもまた良しと考えてもいいはずだろう。

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