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掌編小説 | 冥泉

 男は夜の森を彷徨っていた。
 月明かりの中、空まで届くような杉の木の間を這うように進む。ぬかるんだ地面は男の足どりを重くさせた。いつのまにか辺りは霧に包まれ、男は途方に暮れた。
 はたと、霧の奥のオレンジ色の灯りに気付く。そこには、一軒の古い小屋が建っていた。黒い瓦屋根で立派な門構えだ。竹林が小屋の裏の敷地を囲み隠している。小屋の裏からは濃い霧が立ち上っていた。

 霧じゃない。湯気だ。

 男は強烈な硫黄の匂いで気付いた。この小屋の裏には温泉が湧いている、と。
 男は疲れきっていた。少し体を休めようじゃないか、と小屋の戸に手を伸ばした。

 中には誰もいない。4畳ほどの年季の入った板間に、すぐ男湯・女湯と暖簾がかかっている。玄関で靴を脱ごうとすると、
「さんびゃくさんじゅうえん」
 低く唸るような老婆の声がした。
 玄関横の小窓から小さな手が伸びている。窓の奥は暗く顔が見えない。この温泉の主だろうか? ポケットを探るとなぜかぴったり三百三十円入っていた。男は気味悪がりながらも、老婆の手の上に小銭を置いた。
 暖簾をくぐると小さな脱衣所があった。窓の外に湯気が見える。男はすぐさま衣服を脱いで、格子戸を開けた。

 その瞬間、灯籠たちが次々にオレンジの灯りをともし始め、目の前に巨大な岩風呂が姿を現した。湯気に包まれ奥まで見えないが、「プールくらいはありそうだ」と男は言った。
 早速男は掛け湯を浴び、嬉々として温泉へ浸かった。
 芯まで冷えた体が温まる。
「極楽だ……」
 湯に映り込んだ灯籠の灯りの揺めきを、男はぼんやり見つめていた。ふと、湯に大きな波紋が起こった。顔を上げると、湯気の奥に黒い影が動いた。「なんだ?」と男が見ていると、

「ここは極楽ではありませんよ」

 絹のような美しい声がした。
 湯気が薄くなり、白い肌の青年が姿を現した。青い宝石のような目は、狐のように細く笑みを浮かべている。見惚れるほど美しい。
「一杯どうです?」
 青年は男の元へ近寄り、湯に浮かべた木桶を差し出す。そこには《酒》と描かれた徳利とぐい呑みがふたつ入っていた。
「これはどうも」
 男はぐい呑みに注がれた冷酒をきゅっと飲み干し、「ふう」と一息ついた。
 ぐい呑みの中に何かが落ちる。桜の花びらだ。頭上には満開の桜が咲いていた。
 夜桜を見ながら、二人は酒を飲んだ。
「これは極楽だ」
 その男の言葉に、青年は「ふ」と微笑んだ。その笑顔に男は不思議と懐かしさを覚えた。
「さっきの、極楽ではないとはどういう意味ですか?」
「ここは極楽の手前にある場所、冥泉です」
「メイセン?」
「極楽へ行く前に、人間が生前の穢れを落としておく禊の場所なのです」
「生前の穢れ? 何を言っているんだ?」
「森に入る前、あなたはどこにいましたか?」
 男はハッとした。先ほどまでモヤがかっていた記憶が、フラッシュバックする。
「確か、昨日の夜はビルの屋上にいて」
 男は、明滅する都会の夜景をぼおっと眺めていた。そして、その闇に足を一歩踏み出した。
「そうだ、おれ自殺したんだ」
「……後悔してますか?」
「……いや。これで良かったんだ。飛び降りた瞬間、ほっとした。これで解放されるって」
 青年は寂しそうに笑った。
 そして、お湯の中から男の腕を優しく掴み、腕についた汚れや傷を見せた。
「あなたはたくさんの穢れが付いていますね」
「穢れ?」
「盗み、詐欺、人殺し。人間界で罪と呼ばれるものです」
「おれは、何も悪さはしていないが……。真面目に生きてきた自信がある」
「そうですね、あなたはとても真面目だ」
 青年は優しい目をして男をみた。
「これは、あなたの穢れではなく、周りの人間に付けられたのでしょう」
「周りに?」
「あなたは今まで頑張って生きてきたのですね」
 その拍子に、男の目から大粒の涙が溢れた。
「……そうだ。おれは、穢れた人間かもしれない。ずっと周りから穢れたものとして扱われてきた。ただ、おれが男が好きだというだけで」
 湯面に映る男の顔に涙が落ち、歪になる。
「唯一おれを受け入れてくれた恋人は、俺を置いて死んでしまった。そいつの葬式におれは呼ばれなかった。誰もおれ達が付き合っていたことなんて知らないんだ」
 青年は男の涙をそっと拭った。
「あなたは自ら死を選んだのではありません」
「おれは自殺したんだ」
「周りから死を選ばされたのです」
 青年は男の顔を優しく包んだ。
「ここは穢れを落とし、リセットできる場所です。その穢れはあなたの穢れではない。ここで落として、生きる力を養っていってください。そして、また生き直してください」
「生き直す……?」
 男の体から穢れが落ち、消えていく。
 青年は男にキスをした。

「私はいつも見守ってるよ」

 男は白いベッドの上で目を覚ました。
 目の前で母親が涙を流し、男を抱きしめた。
 病室の窓から、桜の花が舞い落ちた。

 しばらくして、男は今日が恋人の命日だったと気づいた。

【了】

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