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父の命日【音声と文章】

山田ゆり
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4月3日は父の十七回忌だった。

あれから16年も経ったのかと改めて時の流れの速さを感じる。


私はこれまでたくさんの岐路に立ったが、自分の人生曲線の中で、父の死は大きなターニングポイントであることは間違いない。


父はそれまで母と一緒にほうれん草や小松菜、青梗菜などを作り市場に出荷していた。

私が小さい頃は固い力こぶの父の腕にぶら下がるほど、父はたくましい人だった。

しかし、年を重ねるごとに腰が曲がってきて、腐った魚のような目になり、事故になりそうなヒヤリとする運転をするようになり家族全員から車はもう危ないから乗らないでと言われていた。

そして75歳になった父は、自動車運転免許を返納し元気がなくなって行き、もともと好きだったお酒を、私達の目を盗んで倉庫などで飲むようになった。




あの日、仕事から帰宅した私は母から、父が昼食後に出かけてからまだ戻って来ないと言っていた。
仕事熱心な父だったが、こんな暗くなるまで仕事をする人ではなかった。いつも相撲の番組が始まる前にはテレビの前にあぐらをかき、酒の肴をつまみながら観戦している人だった。


もしかしてお酒を飲みすぎてどこかで寝ているかもしれない。

家中を探したが勿論いなかった。
次に、母と三女と私は一緒に家を出て、まずは田植え機や稲刈り機を置いている倉庫に行ってみようということになった。

緑色の大きな懐中電灯を持ちながら私たちはその倉庫に向かった。家から徒歩で3分位のところにある倉庫の戸を開けたらそこに父の姿があった。

一瞬にして救急車を呼ばなければいけないと分かった。
今思い出しても悔やまれるのは、私はそこで大きな判断ミスをした。

それは母と三女に対する配慮ミスだ。
私は母に、「救急車を呼んでくるから、お母さんはここにいて待っててね」と指示をした。

どうして母をその場に残したのか今でも悔やまれる。

また、当時小4だった三女におじいちゃんの姿を見せてしまったこと。とっさに娘の視界を遮ってあげればよかったのに私はその時、そのような配慮が思い浮かばなかった。


この2つの判断ミスで私の人生は深い谷底に向かって行った。


母はその夜、「ひとりで寝るのは怖いから一緒に寝て欲しい」と三女に頼んだ。
母は「怖い」という言葉を言う人ではなかった。
また、寝る時に同じ部屋に誰かがいるのが嫌いな人だった。当時、我が家はそれぞれの部屋を持っていて、寝る時は夫婦でも別々の部屋に寝ていた。

そんな母が「夜が怖い」というのはおかしい。
その夜から、私と三女は母の部屋で寝泊まりすることになった。

つまりその日、母にアルツハイマー型認知症のスイッチが入ってしまったのだ。
あっという間に母の症状が進み、父が亡くなって三週間後の忌明け法要の時は、なぜ親戚の人が黒い服を着て集まっているのかが分からないまでになっていた。



幼い三女は生まれて初めて人の死んだ直後の様子を見てしまい、それが心の奥底に傷として残り、その日から毎晩のようにうなされて、「わーっ!」と叫んで目が覚めるようになった。


あの日、私がもっと適切な対処をしていたら、もしかして、母も三女も心に傷を受けずに済んだのではないかと悔やまれる。


だから父の命日は、私の懺悔の日でもある。






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父の命日

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