暗闇の記憶(ショートショート)【音声と文章】
山田ゆり
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ノゾミは今月もまたこの作業に取り掛かった。
ここは2階の財務室。
机の上には財務専用のブラウン管のPCがある。隣にはA3まで印刷できる大型の複合機がある。
他には歴代の偉い方々の遺物が大きな机の上や開くこともない書棚の中に置かれている。
どうみても物置にしか見えないその部屋でノゾミはPCの電源を入れた。
電源を入れてから使えるまでには時間がかかる。
今どきこんな古いPCを使っているところがあるんだと、転職して来た時に驚いた。
PCが起動するまでの間、ノゾミは周りの整理を始めた。
ドットプリンターで出力された誰かの書類が新しく山積みされていた。
「も~!ここは物置じゃないんだから!」
ノゾミはその束を奥の方に押した。
PCの画面が明るくなった。
ノゾミはかなり厚みのあるキーボードを叩いた。それはしっかり押さないと押したことにならず入力ミスをおこす、かなり旧式の代物だ。
押す力が必要だから、このひと作業が終わった頃のノゾミの指は疲れ切ってしまうほどだ。
ノゾミは着ていたダウンコートの前のファスナーを首の上まであげ、寒さをしのいだ。
今は1月。
外は20㎝以上の積雪だが、この部屋に暖房は無い。
この部屋は会社には「無かったことにしたい」ものが置かれているから、暖房機器を置こうという配慮がされていない。
暗い部屋でPCの光が無表情なノゾミの顔に映る。
ノゾミは暗い気持ちで気乗りのしない毎月の作業を開始した。
ノゾミは1年前にこの会社に転職して来た。
「○○といえば△△株式会社」と言われるほどの、地元では有名な会社に入社することができ、ノゾミは嬉しかった。
家族も喜んでくれた。この間は、姉のご主人様から「いいところに入れたね。」と喜んでくれた。
ノゾミは希望を胸に入社した。
しかし、入社して3か月後にノゾミは天から地へ一気に突き落とされた感じを受けた。
「毎月、それをするのか。」
ノゾミが転職した会社は複数の金融機関から借り入れをしていた。
だから毎月、各金融機関に試算表と借入金の内訳書を提出している。
それはどこにでもありえることである。
それ自体は何でもない。
問題はその借入金の内訳である。
事務所は1階にあり、PCはそれぞれの机の上にある。普段は自分の机で仕事をしている。
しかし、ノゾミだけは月に1回、2階の財務室でその内訳書を作ることになった。
内訳書ができた。
ノゾミはそれを「提出用」「会社控用」「自分用」に3枚プリントする。
それが終わると内訳書の中の金額を動かしてまた3枚プリントする。
それが終わったら更にまた内訳書の金額を動かし3枚プリントする。
出力された書類をそれぞれ見直す。
先月分からのつながりに間違いはないかを入念にチェックする。
そして会社控えをファイリングする。
ファイルを開くその手がかじかんでファイルを落としそうになった。
「来月は指先が出ている手袋を持って来よう。」
ノゾミはPCの電源を落とした。
ダウンコートを着ているが真冬に暖房なしの部屋にいて、身体は芯から冷え切ってしまった。早くあの温かい1階に戻ろう。
ノゾミは薄い布をPCに掛けてその部屋を出た。
「こんなこと、いつまで続けなければいけないのだろうか。こんな会社だと分かっていたら絶対入っていなかったのに。」
ノゾミはそう思いながら部屋に鍵を掛けた。
その会社の借入金の内訳には実在する金融機関の他に「その他」という項目がありそこに金額が載っている。
そして決算書には「その他」は載っているのに各金融機関への毎月及び決算の時の内訳書には「その他」がない。
どういうことかというと、例えばA、B、C、3つの金融機関があるとする。
A金融機関に提出する内訳書には、「その他」の分をBで調整する。
Bに提出する分はCで調整し、Cに提出する分はAで調整する。
このように提出する先の金融機関に合わせて他の金融機関の残高を調整して「その他」を記載していない内訳書を作っているのである。
毎月の返済額を間違わないように、先月から今月にかけて、辻褄が合うように作る。
それを数年前から始めたために、今さら正しい内訳書を提出することができなくなっている。
その理由を言えないために会社は数年にわたりこの作業を続けていきたのである。
ノゾミが入社し、3か月が過ぎた頃にこの作業を社長から指示された。
恐らくそれまでの期間、ノゾミの人格を見ていたのだろう。
そして、この人なら大丈夫と信じて社長がノゾミにその作業の指示をしたのだろう。ノゾミが入社してからの3か月間はノゾミの上長がそれをされていたのを後で知った。
上長が長い時間、席を外している時があり、どうしたのかなと思っていたが、あの時、2階にいたのだと後で察した。
ノゾミは社長のお話をお聞きして、ショックだった。
毎月、不正行為をしなければいけない。
曲がったことが嫌いなノゾミにとってそれは苦痛でしかなかった。
辞めようかな
そう思ったが、やっと就職できた会社である。
家族も姉弟も喜んでくれている。
しかも地元でも名の知れた会社だから、その会社を僅か3か月で辞めたという事実は、自分にとってプラスにはならない。
「あの会社を僅か3か月で辞めたということは、この人は何か問題があるのかもしれない。」と思われて、次の就職試験の時に不利になるかもしれない。
いろいろな思いがノゾミの脳内を去来した。
そしてノゾミは会社を辞めないと決めたのである。
心を「無」にしよう。家族の為、自分の生活のため。そう割り切って我慢することにした。
最初は、「社長からの指示で仕方なくやっているのだから、私には罪はない。」とノゾミは自分に言い聞かせていた。
しかし、月日を重ねる内に、これは会社の指示であっても、それを拒否しなかった自分に罪があるのではないかと思うようになってきた。
毎月、自分との対話をその部屋でしていた。辞めるなら早い方がいい。でも、それを言い出す勇気がない。
ずるずると月日は流れ、2年目が過ぎた頃、ノゾミは手術を伴う入院をすることになった。
後で考えると、それはノゾミにとって希望の光だった。
そして退院して1か月が過ぎた頃に「体調がどうしても思わしくないので」という理由でノゾミは会社を辞めた。
あれから10回目の冬を迎えた。
窓の外には車にこんもり積もった雪が見える。
今の勤務先ではあのような不正はない。
ノゾミは正しいことを正しくできる今に感謝している。
あの会社は
今は存在しない。
ノゾミにとってあの数年間は暗闇の記憶である。
※note毎日連続投稿1800日をコミット中! 1745日目。
※聴くだけ・読むだけ・聴きながら読む。
どちらでも数分で楽しめます。#ad
暗闇の記憶(ショートショート)
ここは2階の財務室。
机の上には財務専用のブラウン管のPCがある。隣にはA3まで印刷できる大型の複合機がある。
他には歴代の偉い方々の遺物が大きな机の上や開くこともない書棚の中に置かれている。
どうみても物置にしか見えないその部屋でノゾミはPCの電源を入れた。
電源を入れてから使えるまでには時間がかかる。
今どきこんな古いPCを使っているところがあるんだと、転職して来た時に驚いた。
PCが起動するまでの間、ノゾミは周りの整理を始めた。
ドットプリンターで出力された誰かの書類が新しく山積みされていた。
「も~!ここは物置じゃないんだから!」
ノゾミはその束を奥の方に押した。
PCの画面が明るくなった。
ノゾミはかなり厚みのあるキーボードを叩いた。それはしっかり押さないと押したことにならず入力ミスをおこす、かなり旧式の代物だ。
押す力が必要だから、このひと作業が終わった頃のノゾミの指は疲れ切ってしまうほどだ。
ノゾミは着ていたダウンコートの前のファスナーを首の上まであげ、寒さをしのいだ。
今は1月。
外は20㎝以上の積雪だが、この部屋に暖房は無い。
この部屋は会社には「無かったことにしたい」ものが置かれているから、暖房機器を置こうという配慮がされていない。
暗い部屋でPCの光が無表情なノゾミの顔に映る。
ノゾミは暗い気持ちで気乗りのしない毎月の作業を開始した。
ノゾミは1年前にこの会社に転職して来た。
「○○といえば△△株式会社」と言われるほどの、地元では有名な会社に入社することができ、ノゾミは嬉しかった。
家族も喜んでくれた。この間は、姉のご主人様から「いいところに入れたね。」と喜んでくれた。
ノゾミは希望を胸に入社した。
しかし、入社して3か月後にノゾミは天から地へ一気に突き落とされた感じを受けた。
「毎月、それをするのか。」
ノゾミが転職した会社は複数の金融機関から借り入れをしていた。
だから毎月、各金融機関に試算表と借入金の内訳書を提出している。
それはどこにでもありえることである。
それ自体は何でもない。
問題はその借入金の内訳である。
事務所は1階にあり、PCはそれぞれの机の上にある。普段は自分の机で仕事をしている。
しかし、ノゾミだけは月に1回、2階の財務室でその内訳書を作ることになった。
内訳書ができた。
ノゾミはそれを「提出用」「会社控用」「自分用」に3枚プリントする。
それが終わると内訳書の中の金額を動かしてまた3枚プリントする。
それが終わったら更にまた内訳書の金額を動かし3枚プリントする。
出力された書類をそれぞれ見直す。
先月分からのつながりに間違いはないかを入念にチェックする。
そして会社控えをファイリングする。
ファイルを開くその手がかじかんでファイルを落としそうになった。
「来月は指先が出ている手袋を持って来よう。」
ノゾミはPCの電源を落とした。
ダウンコートを着ているが真冬に暖房なしの部屋にいて、身体は芯から冷え切ってしまった。早くあの温かい1階に戻ろう。
ノゾミは薄い布をPCに掛けてその部屋を出た。
「こんなこと、いつまで続けなければいけないのだろうか。こんな会社だと分かっていたら絶対入っていなかったのに。」
ノゾミはそう思いながら部屋に鍵を掛けた。
その会社の借入金の内訳には実在する金融機関の他に「その他」という項目がありそこに金額が載っている。
そして決算書には「その他」は載っているのに各金融機関への毎月及び決算の時の内訳書には「その他」がない。
どういうことかというと、例えばA、B、C、3つの金融機関があるとする。
A金融機関に提出する内訳書には、「その他」の分をBで調整する。
Bに提出する分はCで調整し、Cに提出する分はAで調整する。
このように提出する先の金融機関に合わせて他の金融機関の残高を調整して「その他」を記載していない内訳書を作っているのである。
毎月の返済額を間違わないように、先月から今月にかけて、辻褄が合うように作る。
それを数年前から始めたために、今さら正しい内訳書を提出することができなくなっている。
その理由を言えないために会社は数年にわたりこの作業を続けていきたのである。
ノゾミが入社し、3か月が過ぎた頃にこの作業を社長から指示された。
恐らくそれまでの期間、ノゾミの人格を見ていたのだろう。
そして、この人なら大丈夫と信じて社長がノゾミにその作業の指示をしたのだろう。ノゾミが入社してからの3か月間はノゾミの上長がそれをされていたのを後で知った。
上長が長い時間、席を外している時があり、どうしたのかなと思っていたが、あの時、2階にいたのだと後で察した。
ノゾミは社長のお話をお聞きして、ショックだった。
毎月、不正行為をしなければいけない。
曲がったことが嫌いなノゾミにとってそれは苦痛でしかなかった。
辞めようかな
そう思ったが、やっと就職できた会社である。
家族も姉弟も喜んでくれている。
しかも地元でも名の知れた会社だから、その会社を僅か3か月で辞めたという事実は、自分にとってプラスにはならない。
「あの会社を僅か3か月で辞めたということは、この人は何か問題があるのかもしれない。」と思われて、次の就職試験の時に不利になるかもしれない。
いろいろな思いがノゾミの脳内を去来した。
そしてノゾミは会社を辞めないと決めたのである。
心を「無」にしよう。家族の為、自分の生活のため。そう割り切って我慢することにした。
最初は、「社長からの指示で仕方なくやっているのだから、私には罪はない。」とノゾミは自分に言い聞かせていた。
しかし、月日を重ねる内に、これは会社の指示であっても、それを拒否しなかった自分に罪があるのではないかと思うようになってきた。
毎月、自分との対話をその部屋でしていた。辞めるなら早い方がいい。でも、それを言い出す勇気がない。
ずるずると月日は流れ、2年目が過ぎた頃、ノゾミは手術を伴う入院をすることになった。
後で考えると、それはノゾミにとって希望の光だった。
そして退院して1か月が過ぎた頃に「体調がどうしても思わしくないので」という理由でノゾミは会社を辞めた。
あれから10回目の冬を迎えた。
窓の外には車にこんもり積もった雪が見える。
今の勤務先ではあのような不正はない。
ノゾミは正しいことを正しくできる今に感謝している。
あの会社は
今は存在しない。
ノゾミにとってあの数年間は暗闇の記憶である。
※note毎日連続投稿1800日をコミット中! 1745日目。
※聴くだけ・読むだけ・聴きながら読む。
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