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母の誕生日

施設の母に会いに行った。

今日は母の誕生日だから。何かしらの理由をくっつけないと、面会の敷居は高い。それは、高齢者施設におけるコロナウイルスの感染予防という意味もあるし、それを母に会いに行かない理由にしているというところも正直ある。

後ろめたさに苦しむ

母を施設に預けた日から、よくいろんな人が語る後ろめたさを私も感じるようになった。それは、母に対してなのか、世間になのか、自分になのか、いや全部ひっくるめて私を苦しめた。

母ははじめ、この施設にいるのは期間限定で、リハビリして体力が戻れば家に帰れると思っていたはずだ。だいたい私もそう言って母を病院から転院させたのだ。「だから、がんばってリハビリしたり、ご飯もしっかり食べようね。」そう言い聞かせた。でも、母の入ったサービス付き高齢者住宅は、日中のデイサービスはあるものの、歌ったり手遊びしてたりというレクリエーション中心で、リハビリについては熱心ではないようだった。その結果、手伝ってもらえばポータブルトイレでできた夜間の排泄も、間もなくオムツになってしまった。確実に体の機能は衰えていく。私は、そういう状況を見ながら、もう家に帰る可能性はなくなったと思った。母もそれを感じとったのだろう。

「お前、私に嘘を言ったね」

ある日面会に行くと、母はいつもより興奮していた。面会室で二人になったとき、「お前は私に嘘を言ったね。」「私に何も言ってくれなかった。」そう激しく私をせめて泣いた。確かに私はこの事を母に相談しなかった。リハビリで良くなれば、と望みを持たせて連れてきた。もう家には帰れないかもしれない、家で介護することは無理だとは言えなかった。

たとえ認知症だとしても

認知症の症状が出始めたときに、どの程度母が現状について理解しているのか、わからなくなることがあった。だから、本人が理解できる範囲で説明すればいい、複雑なことは、後でもいい、そんな風に考えていた。しかし、私に嘘を言ったという母は、よく現状をわかっている。施設に入ることを当の本人が知らされずに進められたのだから、母は軽く扱われたと思っただろう。それは母の人間としての尊厳を踏みにじったことになる。たとえ認知症の場合であっても、本人が、その時わかってもわからなくても相談すべきだったと気がついた。

母に会うのがこわい

だから、面会に行くのがこわいのだ。今日もまた母に泣かれたら。私が会いに行かないことを責められたら。母が私を憎むようになったら…

認知症の症状は人によって様々だろうし、それは、誰にもコントロールできない。あらかじめ予防を考えて生きることもできない。夜中にベッドの上で排尿してしまうのも、娘を妹だと思って話しかけることも、お母ちゃんが心配だと泣くことも、誰にもコントロールできることではなかった。

だから、全て受けとめる。もし、この先母が私を憎らしく罵倒するようなことがあったとしても、自然に受けとめられたらいいと思う。庭に咲く花は季節に色を変え、最後ははらはら地面に散っていく。それは自然なことだから。

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